第二章 匿名投票は、誰も殺していない顔をする
遠野清作の名が供物盤に刻まれている。
その事実は、拝殿の中にいる全員の体温を少しずつ奪っていった。
黒い円盤の中心に置かれた木札は、昨夜そこになかった。直人はそれを知っている。村長も、葉月も、倉持も、秋津も知っている。だが、その場にいる誰も、それを口にはしなかった。
人は、あり得ないものを見た時、まずそれを認めないための言葉を探す。悪戯だ。偶然だ。見間違いだ。誰かがやったのだ。そう言ってしまえば、世界はかろうじて元の形を保つ。
最初にその言葉を出したのは、倉持剛だった。
「こんなもの、誰かの悪戯に決まってる」
彼は供物盤の前にしゃがみ込み、木札に手を伸ばした。
「触るな」
遠野の声が飛んだ。
倉持の手が止まる。
「爺さん、これが自分の名前だからって大げさに——」
「触れば、選んだことになる」
倉持の顔から血の気が引いた。伸ばしかけた手を、ゆっくり引っ込める。
「何だよ、それ」
「盤は、手を覚える」
遠野は淡々と言った。怖がらせようとしているのではない。むしろ、何度も同じ説明をしてきた者のような疲れが声に滲んでいた。
秋津が一歩前に出た。
「遠野さん、根拠のないことを言うのはやめましょう。今は皆さんが不安になっています。まず確認すべきことは、この札を誰が置いたのかです」
「人ではない」
「そう断言する根拠は?」
「置いた者がおらんからだ」
「見ていたわけではないでしょう」
「見ていなくても、分かることはある」
遠野は供物盤から目を離さなかった。
「雪が閉じた夜、盤が鳴った。札が来た。朝に名が出た。順番どおりじゃ」
直人は、手の中の札を握りしめた。霊。木の表面は冷たいままだった。体温が移らない。まるで、生きているものではなく、死んだものに触れているようだった。
葉月が村長に囁いた。
「公民館に戻しましょう。ここで話していても、寒さで体力を削られます」
村長は頷かなかった。彼は供物盤を見下ろしたまま、唇を小さく動かしていた。祈っているのか、何かを数えているのか、直人には分からなかった。
「白縫村長」
秋津が声をかけた。
「皆を集めて、状況を説明する必要があります。供物盤を隠しても、もう無理です」
村長は目を閉じた。
「説明してどうなる」
「不安は、説明されない時に増えます」
「説明すれば、信じる者が出る」
「信じる者がいるからこそ、説明が必要です」
秋津の言葉はいつも、こちらが反論しにくい場所に落ちてくる。正しい。少なくとも、正しく聞こえる。直人はそれを警戒すべきだと思ったが、同時に、今この場で秋津以外に場を動かせる人間がいないことも分かっていた。
公民館へ戻る道は、来た時より長く感じられた。
雪は膝下まで積もっている。空はまだ暗く、山の稜線だけが灰色に浮かんでいた。誰も遠野の近くを歩こうとしない。本人が生きているのに、すでに死人のように扱われている。その距離の取り方に、直人は寒気を覚えた。
遠野自身は、何も言わなかった。
公民館に入ると、待っていた村人たちが一斉にこちらを見た。視線はまず村長へ、次に秋津へ、最後に遠野へ向かった。そして遠野の表情から何かを読み取ったのだろう。広間のあちこちで小さな声が漏れた。
「何があったの」
「盤は」
「名前が出たのか」
その言葉を聞いて、直人は思った。
皆、知っている。
知らないふりをしていただけだ。
秋津が広間の中央に立った。避難用の長机をひとつ起こし、その前に村長を座らせる。葉月が名簿と筆記具を用意した。倉持は苛立ったように腕を組み、鹿島は広間の隅で救急箱を開けていた。青山民子は台所と広間を行き来しながら、何も入っていない湯呑みを何度も並べ直している。
秋津は全員を見回した。
「皆さん、まず落ち着いてください。雪崩によって外部との道路が塞がれています。通信も不安定です。救助が来るまで、全員で協力してここで待機する必要があります」
声に焦りはない。だからこそ、広間のざわめきは少しだけ収まった。
「ただし、今朝、拝殿の供物盤に遠野清作さんの名前が記された札が置かれていました」
ざわめきが戻った。
「やっぱり」
「始まったんだ」
「誰が置いたの」
「清作さんが自分でやったんじゃないの」
最後の声に、遠野は反応しなかった。直人だけがその声の主を見た。青年団の一人、浅井利彦だった。二十代半ば。昨夜、直人の荷物運びを手伝ってくれた男だ。悪意があるというより、怖さを誰かに押しつけたがっている顔だった。
秋津が手を上げた。
「推測で人を責めるのはやめましょう。今必要なのは、事実の共有です」
そして、村長に視線を向けた。
「白縫村長。供物盤について、村として知っていることを話してください」
村長はしばらく黙っていた。誰も急かさない。だが、その沈黙はすでに返答を拒むものではなかった。逃げ道を探している沈黙だった。
やがて、村長は掠れた声で話し始めた。
「供物盤は、白縫に古くからある祭具だ。飢饉や疫病、雪崩で村が閉じた時に使われたと言われている」
「言われているんじゃない」
遠野が口を挟んだ。
「使われたんだ」
村長は遠野を睨んだが、否定はしなかった。
「昔の話だ。今は誰も使っておらん」
「でも、今朝、名前が出たんでしょう」
青山民子が震える声で言った。
「それは誰かの仕業かもしれん」
村長の言葉は弱かった。自分でも信じていない言葉を、形だけ前に出している。
葉月が名簿の横に、一枚の紙を置いた。
「祖父の代の記録があります」
「葉月」
村長が鋭く呼んだ。
「今、隠しても意味がありません」
葉月は動じなかった。
「白縫家は、供物盤の記録係でした。盤が動いた時の規則が、いくつか残っています」
広間が静まり返った。雪の重みで屋根が軋む音が聞こえた。
葉月は紙を読み上げた。
「一つ。札は夜ごとに配られる。札は持ち主の枕元、または胸元に現れる」
誰かが小さく悲鳴を上げた。自分の毛布の下を確かめる者もいた。
「二つ。札には役がある。占、霊、護、共、空、狼。役の働きは夜に限られる」
直人は、隣に座る男が自分の懐を押さえるのを見た。誰もが、自分の札を隠している。隠しているからこそ、他人が何を持っているのか気になる。疑いは、こうして形を得るのだと思った。
「三つ。朝、供物を選ぶ。選び方は、盤がその時に示す」
「その時に示すって何よ」
民子が言った。
「今朝の掲示板には、最初の供物を選ぶとありました」
葉月の声は平板だった。
「四つ。選ばれた者は、名を失う」
その言葉の後、広間は完全に沈黙した。
死ぬ、ではない。
名を失う。
その方がずっと不気味だった。死にはまだ、葬式がある。墓がある。思い出話がある。だが、名を失うとは何なのか。誰にも呼ばれなくなることか。記録から消えることか。それとも、存在した事実そのものが剥がされることか。
鹿島が白衣の袖を握りしめた。
「医学的に、そんなことはあり得ません」
「医学の話ではありません」
葉月はそう言った。
「じゃあ何の話ですか」
「村の記録の話です」
鹿島は何か言い返そうとしたが、言葉を飲み込んだ。
倉持が苛立った声を出した。
「で、どうすればいいんだよ。選べって言われて、清作爺さんを選べばいいのか」
その瞬間、全員の視線が遠野に集まった。
遠野は畳の上に座っていた。小柄な老人が、さらに小さく見えた。だが、目だけは妙に澄んでいる。
「わしを見ても仕方ない」
遠野は言った。
「盤は、名前を出しただけじゃ。選ぶのは、人だ」
「何であんたの名前が出たんだ」
浅井が聞いた。
「盤に聞け」
「自分で何かしたんじゃないのか」
その言葉に、直人は胸の中で何かがひっかかるのを感じた。浅井の声には、恐怖が混じっていた。恐怖は、しばしば相手を責める形で外に出る。
遠野は浅井を見た。
「利彦。おまえの親父が谷で落ちた時、わしが背負って下りた」
浅井の顔が歪んだ。
「今、そんな話関係ないだろ」
「関係ない。そうだな。盤が始まると、関係ないものから消えていく」
広間の空気がさらに冷えた。
秋津が間に入った。
「遠野さん、挑発するような言い方は控えてください。皆が不安定になっています」
「わしが悪いのか」
「悪いとは言っていません。ただ、言葉は選ぶべきです」
言葉は選ぶべきです。
直人はその一文を聞いて、秋津を見た。整った言葉が、人の怒りを抑えることは確かにある。しかし同時に、その怒りの理由まで曖昧にしてしまうことがある。
秋津は続けた。
「現時点で、供物を選ぶという行為に従う必要があるとは限りません。掲示板の文面も、誰かが貼った可能性があります。まず全員の安全を確保し、外部と連絡を取る努力を続けるべきです」
その言葉に、何人かが頷いた。
直人も、理屈としては同意したかった。従う必要があるとは限らない。まったくその通りだ。だが、手の中にある霊の札が、その理屈を拒んでいた。
村長が低い声で言った。
「従わなかった場合の記録もある」
葉月が村長を見た。
「何ですか」
「供物を選ばなかった時、盤は全員から名を取る」
広間がざわめいた。
民子が泣き出した。
「何よ、それ。そんなの、どうしろっていうのよ」
倉持が村長に詰め寄った。
「何で今まで黙ってた!」
「昔の話だと言っただろう!」
「昔の話じゃねえだろ、今こうなってんだろ!」
「落ち着いてください」
秋津が間に入る。倉持は秋津を睨んだが、殴りかかることはなかった。秋津の声には、相手の怒りを一歩手前で止める力がある。
「誰かを選ばなければ全員が危険になる、という記録がある。そういうことですね」
秋津が確認すると、村長は苦しげに頷いた。
「だから昔は、投票した」
「投票?」
直人が思わず声を出した。
村長は彼を見た。
「名を書いて、箱に入れる。最も多く名を書かれた者が、供物になる」
「匿名ですか」
自分でも、なぜそれを聞いたのか分からなかった。
村長は少し間を置いて答えた。
「昔から、匿名だ」
その一言に、広間の中の空気がわずかに動いた。
匿名。
誰が誰を選んだか分からない。つまり、選べる。責任を取らずに済む。罪を一人で背負わなくて済む。直人はその残酷な安心を、そこにいる人々の顔に見た気がした。
秋津が腕を組んだ。
「本当に投票を行うかどうかは、慎重に考えるべきです」
そう言いながら、彼の目はすでに段取りを考えているように見えた。
葉月が直人の隣に来た。
「柊さん」
「はい」
「あなたの札は何ですか」
直人は反射的に手を引いた。
葉月は小さく頷いた。
「言いたくないなら、言わなくていいです」
「葉月さんは?」
「私も言いません」
彼女の言い方には、冷たさではなく、規則に近いものがあった。
「でも、一つだけ覚えておいてください。役を言った人から死にます」
「遠野さんも同じことを言っていました」
「遠野さんは、昔のことを知りすぎています」
「だから選ばれた?」
「分かりません」
葉月は初めて迷う顔をした。
「でも、盤が最初に遠野さんの名前を出したのには意味があると思います」
直人は遠野を見た。老人は目を閉じて座っている。その姿は、裁きを待つ罪人というより、すでに判決を受け入れた証人のようだった。
午前九時を過ぎる頃、外部との連絡は完全に途絶えた。
役場の無線は雑音だけになり、携帯電話は圏外になった。倉持が若い男たちを連れて県道の様子を見に行こうとしたが、雪は腰の高さまで吹き溜まり、二百メートル進むのがやっとだった。山側では小規模な雪崩が何度も起きている。除雪車も動かせない。
公民館に戻った倉持は、玄関で雪を払い落としながら言った。
「駄目だ。道がない」
その言葉は、広間にいた全員の心に、別々の重さで落ちた。
道がない。
つまり、逃げられない。
昼前になって、掲示板の紙に変化が起きた。
最初に気づいたのは、子供だった。玄関近くで遊んでいた小学生の男の子が、「字が増えた」と叫んだ。大人たちが駆け寄ると、紙には朝にはなかった二行が浮かんでいた。
日没までに供物を選べ。
選ばねば、全員から一字ずつ名を取る。
直人は、その文面を見た瞬間、喉の奥が詰まった。
一字ずつ名を取る。
名字からか。名前からか。取られた字はどうなるのか。考えても意味がない問いが、頭の中にいくつも湧いた。意味がないと分かっていても、人は考えてしまう。分からない恐怖より、分かる形の恐怖を欲しがる。
広間に戻ると、議論が始まった。
議論というより、最初は叫び合いだった。
「投票なんかできるか」
「でも選ばなかったら全員が」
「清作さんの名前が出てるなら、もう決まってるんじゃないの」
「そんなこと言うなよ」
「だって他にどうしろっていうの」
「誰が札を置いたか探すべきだ」
「狼って札を持ってるやつがいるんだろ。そいつを見つければいい」
「自分の札を見せればいいじゃない」
「嫌よ。見せたら疑われる」
声が重なり、意味が壊れていく。
直人は壁際に立っていた。何か言うべきだと思った。だが、何を言えばいいのか分からなかった。投票をするな、と言えば全員を危険に晒す。投票をしろ、と言えば誰かを選ぶことになる。遠野を選ぶな、と言えば別の誰かを差し出すことになる。
正しい言葉は、どこにもなかった。
その時、秋津が立ち上がった。
「皆さん」
大きな声ではない。それでも、不思議と広間は静まった。
「今、私たちがしなければならないのは、感情で誰かを責めることではありません。状況を整理し、全員が生き延びる可能性を少しでも高めることです」
民子が泣きながら言った。
「でも、誰かを選ぶなんて」
「選ぶとは限りません」
秋津は静かに言った。
「投票は、確認です」
「確認?」
「盤がすでに遠野さんの名を示している。私たちは、その意味を確認する必要があります。もちろん、これは遠野さんを責めるためではありません。誰かを殺すためでもない。村が明日を迎えるために、今ある情報に向き合うだけです」
直人は眉をひそめた。
責めるためではない。
殺すためでもない。
明日を迎えるため。
言葉が少しずつ、行為の形を変えていく。供物を選ぶ、という生々しい行為が、確認という柔らかな言葉に包まれていく。誰かを死なせるかもしれない選択が、村を守るための手続きになっていく。
だが、その言葉に救われた顔をする人間がいた。
民子は涙を拭いた。浅井は視線を下げた。鹿島は苦しげに目を閉じた。倉持でさえ、怒鳴るのをやめた。
人は、罪の名前を変えられると、少し息がしやすくなる。
秋津は続けた。
「投票するにしても、強制ではありません。書きたくない人は白紙で出してもいい。自分の名前を書いてもいい。全員で決めた形にしましょう」
「匿名で?」
直人は思わず聞いた。
秋津がこちらを見た。
「今は、匿名の方が安全です。誰が誰に入れたかが分かれば、憎しみが残ります」
「分からなければ、責任も残らない」
直人の言葉に、広間が静かになった。
言ってから、失敗したと思った。言葉が鋭すぎた。いや、鋭いというより、下手だった。秋津の整った言葉に対して、直人の言葉はただ角ばっている。
秋津は怒らなかった。
「責任を消すためではありません。混乱を避けるためです」
「でも、誰が選んだか分からないまま、誰かが供物になるんですよね」
「柊さん」
葉月が小さく呼んだ。止めようとしているのが分かった。
秋津は直人をまっすぐ見た。
「では、全員の前で記名投票をすれば、あなたは納得できますか」
直人は言葉に詰まった。
納得できない。
記名でも匿名でも、誰かを選ぶことに変わりはない。
だが、その答えをうまく言えなかった。
秋津は責めるでもなく、諭すように言った。
「正しさだけでは、人は動けません。今は恐怖の中にいる人たちが、互いに殺し合わない方法を選ぶ必要があります」
広間の空気は、秋津の方に流れていた。
直人は自分の言葉が、その流れを止めるどころか、むしろ秋津の言葉を強くしたことに気づいた。自分が不器用に反発したことで、秋津の冷静さが際立ったのだ。
投票箱は、古い救急箱で代用された。
葉月が紙を切り、鉛筆を配った。紙には何も印刷されていない。白い紙に、鉛筆で名前を書く。それだけのことなのに、広間の誰もが、その紙を受け取る時に一瞬ためらった。
遠野は紙を受け取らなかった。
「わしは書かん」
「遠野さん」
秋津が声をかけた。
「わしが誰を書いても、言い訳になる。自分を書けば芝居になる。他人を書けば恨みになる。白紙でも逃げになる。だから書かん」
「棄権ということですね」
「好きに記せ」
葉月が名簿に何かを書いた。
直人は紙を前にして、鉛筆を握ったまま動けなかった。
遠野清作。
その名を書けば、盤が示した流れに従うことになる。書かなければ、別の誰かに票が集まるかもしれない。白紙で出せば、自分は選んでいないと言える。だが、それは本当に選んでいないことになるのか。
周囲を見ると、皆が同じように紙を隠していた。
隠す必要があるのは、そこに書く名が他人に見られて困るものだからだ。
民子は泣きながら鉛筆を動かしていた。浅井は何度も消しゴムで紙を擦っている。鹿島は白衣のポケットから薬を取り出し、水なしで飲み込んだ。倉持は紙を睨みつけ、やがて乱暴に何かを書いた。
秋津は、最後まで書かなかった。全員が紙を折り終えたのを確認してから、自分の紙に短く何かを書き、静かに折った。
直人の紙は、まだ白かった。
葉月が隣に座った。
「書かないんですか」
「分かりません」
「分からないまま書く人が、ほとんどです」
「葉月さんは?」
「私は、書きました」
「誰を?」
「言いません」
当然だった。
直人は鉛筆の先を紙につけた。
遠野清作、と書きそうになって手が止まった。
その時、遠野と目が合った。
老人は何も言わない。ただ、直人を見ていた。あの物置での言葉が蘇る。
霊は、最初に吊られる。
遠野は自分が選ばれると分かっているのだろうか。分かっていて、直人に何を望んでいるのか。助けてほしいのか。覚えてほしいのか。それとも、自分を選ぶなと訴えているのか。
直人は紙に、何も書かなかった。
白紙のまま折った。
投票箱が回された。一人ずつ紙を入れていく。箱の中に紙が落ちる音は、小さかった。だが、その小さな音が重なっていくたびに、広間の空気は重くなった。
全員が入れ終えると、葉月が箱を長机の上に置いた。
「開票します」
村長が目を逸らした。
秋津が言った。
「葉月さん一人では負担が大きい。私が立ち会います。柊さんもお願いします」
「僕ですか」
「外部の方がいた方が、公平でしょう」
直人は断れなかった。
三人で長机を囲んだ。葉月が紙を一枚ずつ開く。秋津が読み上げる。直人が名簿の横に正の字を書いていく。
最初の紙は、白紙だった。
直人は胸の奥で小さく息を吐いた。自分以外にも白紙を出した人がいる。それが救いなのか逃げなのかは分からない。
二枚目。
「遠野清作」
秋津の声は変わらなかった。
三枚目。
「遠野清作」
四枚目。
「白紙」
五枚目。
「遠野清作」
正の字が増えていく。
直人は、筆を持つ手が冷えていくのを感じた。自分はただ記録しているだけだ。そう思おうとした。しかし、正の字を一本引くたびに、自分もまた遠野を選ぶ作業に加わっているような気がした。
途中で、別の名前が出た。
「浅井利彦」
浅井が顔を上げた。
「誰だよ」
誰も答えない。
また白紙。
そして遠野清作。
遠野清作。
遠野清作。
票は明らかだった。
最後の一枚を開いた時、葉月の手が止まった。
秋津が覗き込む。
そこには、名前ではなく短い文が書かれていた。
誰も選びたくありません。
子供の字だった。
広間のどこかで、母親が息を呑んだ。
秋津はその紙をしばらく見つめたあと、静かに言った。
「無効票とします」
直人は何も言えなかった。
結果は、遠野清作が最多票だった。
白紙と無効票を除けば、ほとんどの票が遠野に集まっていた。誰もが驚いた顔をした。まるで、自分以外の誰かがやったのだと言いたげだった。
秋津が全員に向き直った。
「結果を確認します。遠野清作さんが最多です」
民子が泣き崩れた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
誰に謝っているのか分からない。遠野か。自分か。あるいは、神か。
遠野は立ち上がった。
「謝るな」
声は低かったが、広間によく通った。
「謝るくらいなら、書く前に迷え。迷ったなら、迷った顔を忘れるな」
誰も遠野を見ることができなかった。
秋津が言った。
「遠野さん、まだ何かが起こると決まったわけではありません。これは、あくまで確認です」
「確認か」
遠野は薄く笑った。
「便利な言葉だな」
日没まで、何も起きなかった。
それがかえって人々を疲弊させた。
遠野は広間の隅に座っていた。誰も近づかない。食事の時間になっても、彼の前に置かれた握り飯には手がつけられなかった。直人は何度か声をかけようとしたが、足が動かなかった。白紙を出した自分に、何を言う資格があるのか分からなかった。
夕方、雪は再び降り始めた。
公民館の窓が白く曇り、外の景色が消えた。発電機は燃料節約のために止められ、広間にはランタンがいくつか置かれた。炎の揺れで、人々の影が壁に大きく伸びる。
午後六時ちょうど。
掲示板の方から、鐘の音がした。
一度だけ。
誰も動かなかった。動けなかった。
すると、広間の奥で遠野が立ち上がった。
「来たか」
直人は反射的に立ち上がった。
「遠野さん」
老人は直人を見た。
「柊さん。名は、呼ばんと消える」
「どういう意味ですか」
「忘れるな」
遠野はそれだけ言うと、玄関へ向かった。
誰も止めなかった。止められなかった。秋津でさえ、その時だけは言葉を失っていた。
遠野が戸を開けると、外から雪が吹き込んだ。
直人は後を追った。葉月も続いた。秋津、倉持、鹿島、村長。結局、ほとんどの大人が外に出た。
掲示板の紙には、また一行が増えていた。
供物は受け取られた。
その瞬間、背後で誰かが叫んだ。
遠野がいない。
つい今しがた玄関を出たはずだった。公民館の前には、遠野の足跡があった。雪の上に、確かに足跡が残っている。だが、その足跡は三歩先で途切れていた。
人が倒れた跡もない。引きずられた跡もない。雪崩もない。
ただ、そこから先に、遠野清作という人間が存在していた痕跡がなかった。
倉持が雪を掻き分けて叫んだ。
「清作爺さん! おい、どこだ!」
返事はなかった。
直人は公民館に戻った。何かに引かれるように、広間の名簿へ向かった。朝、全員の名前を確認した紙が長机の上に置かれている。
遠野清作。
その名前があったはずの行を探した。
見つからなかった。
名簿には、そこだけ不自然な余白があった。紙の繊維は破れていない。墨で消された跡もない。ただ、最初から何も書かれていなかったように白い。
直人の手が震えた。
葉月が隣で息を呑んだ。
「消えてる」
村長が奥の棚から古い自治会名簿を引っ張り出した。鹿島が避難者名簿を確認した。青山民子が震える手で、古い写真帳を開いた。
どこにも、遠野清作の名はなかった。
写真には、遠野が写っていたはずの場所に空白があった。集合写真の端で、誰か一人分の隙間だけが残っている。人々の記憶の中には、まだ彼がいる。だが、紙も写真も、この村の記録は彼を失っていた。
民子が口元を押さえた。
「誰……だったかしら」
直人は彼女を見た。
「何を言ってるんですか」
「違うの。分かるのよ。誰かがいたのは分かる。でも、名前が……」
浅井が頭を抱えた。
「爺さん……あの、拝殿の……誰だっけ」
「遠野清作さんです」
直人は強く言った。
「遠野清作さん。拝殿の管理をしていた人です。浅井さんのお父さんを谷から背負って下ろした人です」
浅井は目を見開いた。
「そうだ。そうだった。遠野の爺さんだ」
その言葉を聞いた瞬間、直人の胸の奥で何かが震えた。
名前を呼べば、まだ繋ぎ止められる。
だが、その感覚はすぐに消えた。広間の空気が、遠野という名を押し流そうとしている。人々は恐怖のあまり、覚えていることさえ手放そうとしていた。
夜が深まった。
遠野の捜索は、吹雪のためすぐに打ち切られた。見つかるはずがないことを、全員がどこかで分かっていた。
広間に戻ると、誰も遠野の場所に座ろうとしなかった。畳の隅に、不自然な空間が残っている。だが、時間が経つにつれて、その空間の意味も曖昧になっていくようだった。
直人は眠れなかった。
胸元の霊札が、熱を持ち始めていた。
最初は気のせいだと思った。だが、木札は確かに温かい。いや、温かいというより、内側から脈打っている。
直人は広間を抜け出し、廊下の端に座った。外は吹雪いている。窓の向こうで、白い闇が渦を巻いていた。
霊札を掌に置く。
文字が黒く濡れたように光った。
遠野清作。
直人は小さく、その名を呼んだ。
その瞬間、耳元で声がした。
私は、狼ではない。
直人は息を止めた。
声は遠野のものだった。だが、生きている人間の声ではない。雪の下から、紙の裏から、記憶の裂け目から届くような声だった。
私は、狼ではない。
もう一度、同じ言葉が聞こえた。
直人は廊下の壁に背をつけた。心臓が激しく打っている。
遠野は狼ではなかった。
では、誰が狼なのか。
それよりも先に、直人の中に別の問いが浮かんだ。
遠野が狼ではないと知っている自分は、明日の朝、何を言えばいいのか。
言えば、霊札を持っていることが知られる。
黙れば、遠野清作は狼として消える。
広間の奥で、誰かが寝返りを打った。人々は眠っている。あるいは眠ったふりをしている。誰もが、自分は選んだだけではないと思いたがっている。盤が示したから。村を守るためだったから。匿名だったから。皆も書いたから。
誰も殺していない顔で、遠野清作は消えた。
直人は霊札を握りしめた。
廊下の窓に、自分の顔が映っていた。青ざめ、目だけが妙に暗い。嘘をつけばすぐにばれる顔。隠し事に向かない顔。
遠野の声が、最後にもう一度だけ届いた。
名を、忘れるな。
直人は目を閉じた。
白縫村の夜は、まだ終わらなかった。




