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匿名投票の村――吊られた者の名前は、翌朝消える  作者: アコンプリスの人


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第三章 霊能者は、真実を言えば吊られる

 朝が来ても、白縫村に光は戻らなかった。

 雪雲は山の上に厚く垂れこめ、公民館の窓を白い膜のように塞いでいた。夜の間に積もった雪はさらに深くなり、玄関の引き戸は内側から力を入れなければ開かないほどだった。外へ出ると、昨日まで道だった場所が分からなくなっている。村は輪郭を失い、白い沈黙の中に沈んでいた。

 広間では、誰も大きな声を出さなかった。

 それがかえって異様だった。

 遠野清作が消えた。

 その事実は全員の目の前で起きた。公民館の玄関から外へ出た老人の足跡は、三歩先で途切れていた。捜索は吹雪のため打ち切られたが、誰も本気で見つかるとは思っていなかった。遠野の名前は名簿から消え、集合写真から姿が抜け落ち、古い台帳の該当箇所には不自然な空白だけが残った。

 それでも人々は、朝になると別の顔をしていた。

 誰かが食料を数え、誰かがストーブの灯油を確認し、誰かが子供たちにおにぎりを配った。昨夜泣き崩れていた青山民子でさえ、赤く腫れた目のまま台所に立ち、味噌汁を温めていた。

 生活は、恐怖より強いことがある。

 だが、強いというより、恐怖を包み隠す布のようなものかもしれない。布の下には、何も解決していないものが残っている。

 直人は広間の隅で膝を抱えたまま、ほとんど眠れずに朝を迎えた。

 胸元には霊の札があった。

 昨夜、遠野の声を聞いた。

 私は、狼ではない。

 名を、忘れるな。

 その言葉が、耳の奥にまだ残っている。幻聴ではない。夢でもない。直人はそう確信していた。確信できてしまうことが怖かった。

 もし口にすれば、何が起きるか。

 遠野は狼ではなかった。そう言えば、村人たちはまず理由を聞くだろう。なぜ分かるのか。誰に聞いたのか。そこで霊の札を持っていることが知られる。

 霊は、消えた者の声を聞く。

 遠野が物置で言った。

 霊は、最初に吊られる。

 なぜかは分かる。死人の声を聞く者は、村にとって都合が悪い。供物になった者が潔白だったと告げられれば、投票した者たちは自分の手を見なければならなくなる。誰も殺していない顔でいられなくなる。

 だから、霊は邪魔になる。

 直人は札を手の中で握った。木の表面は冷たい。だが、ときおり内側から微かな熱が立つ。その熱が、遠野清作という名をまだ覚えているか、と問いかけてくるようだった。

 広間の中央では、秋津修平が村長や倉持剛と話していた。鹿島圭介も横にいる。葉月は少し離れた長机で、昨夜からの記録をまとめていた。

 秋津の声は低く、落ち着いている。

「まず、今日の方針を決めましょう。外部への連絡は引き続き試みます。県道の確認は危険ですから、倉持さんたち消防団経験者に限る。子供と高齢者は広間の奥へ。札のことについては、軽率に話さない」

「軽率も何も、もう全員持ってるんだろ」

 倉持が吐き捨てるように言った。

「だからこそです。役の内容が明らかになれば、疑心暗鬼が進みます」

「もう十分疑ってる」

「疑いを言葉にするかどうかで、場は変わります」

 秋津の言葉に、倉持は不満げに黙った。

 直人は、そのやりとりを見ながら、秋津の札を思った。彼は昨朝、自分の前に置かれた札を素早く手で覆った。誰にも見せなかった。秋津が何を持っているかは分からない。

 占か。護か。共か。空か。狼か。

 あるいは、昨夜の時点で別の誰かに移ったのか。

 札は夜ごとに配られる。葉月はそう読んだ。ならば、今胸元にある霊も、今夜には別の者へ行くのかもしれない。そう考えると少し楽になった。だが、その一方で、今日一日だけでも霊であることが知られれば、直人は終わる。

 葉月が記録を閉じ、直人の方へ歩いてきた。

「眠れましたか」

「ほとんど」

「私もです」

 彼女の顔色は悪かった。目の下に薄く影ができている。それでも声は乱れていない。

「少し話せますか」

 直人は頷いた。

 二人は広間を出て、廊下の端にある小さな物置の前まで行った。昨夜、遠野と木箱を見た部屋だ。戸は閉まっている。中から古い紙と木材の匂いが漏れていた。

 葉月は誰も近くにいないことを確認してから、小声で言った。

「遠野さんの名前、まだ覚えていますか」

「覚えています」

「よかった」

「よかった?」

「今朝、何人かに聞きました。遠野さんのことを。名前をすぐ言えた人は半分くらいです」

 直人は息を呑んだ。

「もう?」

「完全に忘れたわけではありません。でも、輪郭が曖昧になっています。顔は思い出せるのに、名前が出てこない。名前を聞けば思い出す。でも、少し時間が経つとまた抜ける」

「名を失うというのは、そういうことなんですね」

「記録だけじゃない。記憶からも削れている」

 葉月は唇を噛んだ。

「柊さん、昨夜、何か聞きましたか」

 直人は返事をしなかった。

 葉月の目が、まっすぐ直人を捉える。

「あなたの札は霊ですね」

 胸の奥が冷えた。

「どうして」

「遠野さんが消えた後、あなたの様子が変わりました。名簿の空白を見た時より、夜中に廊下から戻ってきた時の方が、顔色が悪かった」

「それだけで?」

「それだけです。でも、あなたは嘘が苦手そうです」

 直人は苦笑しようとしたが、うまくいかなかった。

「よく言われます」

「遠野さんは、何と言いましたか」

 直人は廊下の窓を見た。雪が外側に張りついている。景色は見えない。見えないのに、山がそこにあることだけは分かる。

「言えば、僕が霊だと分かります」

「ここには私しかいません」

「葉月さんが誰にも言わない保証は?」

「ありません」

 葉月は即答した。

 その正直さに、直人は少し驚いた。

「ないんですか」

「あります、と言っても証明できません。だから、保証はありません」

「それで信じろと?」

「信じなくてもいいです。ただ、私も知りたい。供物盤が何をしているのか。遠野さんが本当に狼だったのか」

 直人は彼女を見た。

 葉月の顔には恐怖があった。だが、それを言葉の下に押し込めている。秋津とは違う。秋津は恐怖を整った言葉で管理しているように見える。葉月は恐怖の存在を認めたまま、それでも手を動かしている。

 直人は、昨夜聞いた声を思い出した。

「遠野さんは言いました。私は、狼ではない、と」

 葉月は目を伏せた。

「そうですか」

「驚かないんですね」

「驚いています。でも、半分は予想していました」

「なぜ」

「盤が最初に遠野さんの名前を出したことが、都合よすぎるからです」

「都合がいい?」

「遠野さんは、昔の供物盤を知っていました。村長も知っていますが、村長は白縫家の人間です。遠野さんは管理役だった。つまり、外から来たあなたや、若い村人たちに余計なことを話せる人でした」

 葉月は物置の戸に手を添えた。

「始まった直後に、その人が消された」

「盤が邪魔者を消したということですか」

「盤なのか、人なのかは分かりません」

 その言い方が引っかかった。

「人が遠野さんを消せるんですか」

「少なくとも、票を集めることはできます」

「でも、名前は盤に出ていた」

「名前が出たから、皆が票を入れた。そう考えることもできます。でも逆もあります。誰かが票を集めたい相手の名前を、盤が先に出した」

 直人は黙った。

 葉月の言葉は、直人の中にあった漠然とした疑いに形を与えた。

 遠野は盤によって選ばれたのか。

 それとも、誰かによって選ばれ、盤がそれを表示したのか。

「それだと、盤は人の意志を読んでいることになります」

「そうかもしれません」

「そんなことが」

「供物盤が存在している時点で、普通の理屈は半分役に立ちません」

 葉月は物置の戸を開けた。

「見せたいものがあります」

 中に入ると、昨夜遠野が取り出した木箱が棚の上に戻されていた。葉月はその下の段にある段ボール箱を引き出した。中には古い帳面が何冊も入っている。湿気で紙が波打ち、表紙には墨で「供物控」「盤守覚」「白縫祭記」などと書かれていた。

「ずっと役場の倉庫にあったものです。最近、公民館に移しました。祖父が亡くなる前に、私に整理しろと言いました」

「読んだんですか」

「全部ではありません。読めない字も多い。でも、昨夜から必要なところだけ探しています」

 葉月は一冊の帳面を開いた。

 そこには、古い筆文字で短い文が並んでいた。直人にはほとんど読めなかったが、ところどころに見慣れた文字がある。

 占。霊。護。共。空。狼。

 葉月が指で一行を示した。

「ここです。遠野さんが言っていた役の説明とほぼ同じ。ただ、狼についての記述が少し違います」

「何と?」

「狼は、人を食わず、名を食う」

 廊下の向こうで誰かが歩く音がした。二人は黙った。足音は近づかず、広間の方へ戻っていった。

 葉月は声を落として続けた。

「そして、もう一つ。狼は一人とは限らない」

「複数いる?」

「正確には、狼札は移る。誰かを供物にする意志が集まった時、その流れに乗って移る、と書いてあります」

 直人は眉をひそめた。

「どういう意味ですか」

「分かりません。ただ、これだけは書いてある」

 葉月は帳面の別の箇所を見せた。

「狼を探す者、狼となることあり」

 その言葉は、直人の胸に奇妙な重さで落ちた。

 狼を探す者が、狼になる。

 犯人を見つけようとする行為そのものが、誰かを供物にする流れを作る。そういう意味にも読める。

「それでは、何もできない」

「だから皆、昔は黙ったんだと思います」

「黙れば安全なんですか」

「安全ではありません。でも、責任は薄くなる」

 直人は、広間での投票を思い出した。遠野清作の名前が次々に読み上げられた時、投票した者たちは驚いた顔をしていた。自分の一票が結果を決めたわけではない。皆が同じように書いたからそうなった。そういう顔だった。

 狼は、誰か一人の中にいるのではないのかもしれない。

 その考えは、直人にとってあまりに厄介だった。個人を疑えば済むなら、まだ分かりやすい。だが、場の空気や言葉の流れそのものが狼だとしたら、どうやって戦えばいいのか。

 葉月が帳面を閉じた。

「遠野さんが狼ではなかったことは、まだ言わない方がいいです」

「なぜですか」

「あなたが危険になるからです」

「でも、言わなければ、遠野さんは狼だったことになる」

「今言っても、信じる人は少ない。むしろ、あなたが疑われます」

「霊だから?」

「それもあります。でも、それだけじゃない」

 葉月は直人を見た。

「皆は、遠野さんが狼だったと思いたいんです」

 その言葉は残酷だった。だが、直人には反論できなかった。

 遠野が狼だったなら、自分たちの投票は間違っていなかったことになる。供物盤が示した名を確認しただけだと信じられる。村を守るためだったと言える。

 だが、遠野が狼ではなかったなら。

 彼らは、無実の老人を匿名で選んだことになる。

 広間に戻ると、秋津が全員を集めていた。

 長机の上には、昨夜の投票箱代わりに使われた救急箱が置かれている。見ただけで、広間の空気が強張った。

 秋津は落ち着いた声で言った。

「今朝、供物盤を確認しました」

 直人と葉月は広間の入口で立ち止まった。

 確認した。

 その言葉がまた使われた。

「盤の中心に置かれていた遠野さんの札は消えていました。代わりに、外周の文字が変化しています」

「何て書いてあったんだ」

 倉持が聞いた。

 秋津は少し間を置いた。

「狼を探せ。日没までに、次の供物を選べ」

 広間がざわめいた。

「またかよ」

「昨日選んだばかりじゃない」

「選ばなかったら?」

 村長が目を閉じた。

「また、全員から名を取る」

 民子が「嫌」と呟いた。

 秋津は手を上げた。

「慌てないでください。昨日と同じことを繰り返す必要はありません。今日は情報を整理してから判断します。札の役について、話せる範囲で共有した方がいいかもしれません」

「さっきと言ってることが違うだろ」

 倉持が言った。

 秋津は頷いた。

「状況が変わりました。狼を探せと示された以上、完全に伏せたままでは進みません。ただし、全員が役を公開するのは危険です。まず、結果を持っている人だけが申し出る形にしましょう」

「結果って何だよ」

「占いの札を持っている人、あるいは霊の札を持っている人です」

 直人の背中に冷たい汗が流れた。

 葉月がわずかにこちらを見た。

 秋津は続けた。

「もちろん、強制ではありません。しかし、狼を見つけるためには情報が必要です。黙っていることで、村全体を危険に晒す可能性もある」

 言葉が、こちらへ向けられているように感じた。

 秋津は直人を見ていない。だが、直人には分かった。この場で霊札の存在を示唆されれば、持ち主は黙っているだけで罪悪感を抱く。言えば危険。言わなければ村全体を危険にする。どちらに転んでも追い詰められる。

 鹿島が恐る恐る手を上げた。

「私の札は、占です」

 広間が一斉に鹿島を見た。

 彼は青ざめていた。医師として冷静であろうとしているのだろうが、指先が震えている。

「昨夜、使ったんですか」

 秋津が聞いた。

「使った、という感覚ではありません。眠る前に札を握って、誰か一人の名を思い浮かべた。そうしたら、夢の中で白い石が見えました」

「誰を見たんですか」

 鹿島は躊躇した。

 その視線が、秋津に向いた。

「秋津先生です」

 ざわめきが起きた。

 秋津は表情を変えなかった。

「結果は?」

「白、だと思います。白い石でした」

 誰かが安堵の息を漏らした。

 秋津先生は白。

 その空気は、一瞬で広間に広がった。秋津はそれまでと同じ人物のはずなのに、鹿島の言葉ひとつで、彼への疑いが薄くなるのが分かった。

 直人は葉月の横顔を見た。

 葉月は唇を引き結んでいる。

 秋津は静かに言った。

「鹿島先生、ありがとうございます。ただし、これで私が完全に信用できるというわけではありません。占いの仕組みも分かっていませんから」

 自分からそう言えることが、かえって彼を信用させる。

 民子が涙声で言った。

「でも、秋津先生が白なら安心よ。先生がいてくれなかったら、昨日だってどうなっていたか」

 何人かが頷いた。

 直人は胸の中で、遠野の声を思い出した。

 私は、狼ではない。

 遠野が狼ではなかったなら、昨日の投票を導いた者は誰だったのか。

 秋津は命令していない。誰にも遠野を書けとは言っていない。ただ、盤が示した名を確認するという言葉で、投票を成立させた。もし狼が、名を食う者ではなく、名を食わせる場を作る者だとしたら。

 直人は考えを止めた。

 危険だった。

 秋津を疑うには、まだ材料が足りない。足りないまま口にすれば、直人の方が感情的な人間に見える。

 秋津が全員に向き直った。

「霊の札を持っている方はいますか」

 広間が静まった。

 直人は、心臓の音が自分以外にも聞こえているのではないかと思った。

 誰も手を上げない。

 秋津は急かさなかった。ただ、待った。待つこともまた、圧力になる。沈黙が長引くほど、沈黙している者がいるという事実だけが浮かび上がる。

 倉持が苛立って言った。

「いるなら言えよ。爺さんが狼だったか分かるんだろ」

 民子が頷いた。

「そうよ。遠野さんが何だったのか分かれば、少しは……」

 少しは、何なのか。

 安心できるのか。許されるのか。忘れられるのか。

 直人は手を上げそうになった。

 その瞬間、葉月が前に出た。

「霊が名乗る必要はありません」

 全員の視線が葉月に集まった。

 秋津が静かに聞いた。

「なぜですか」

「霊が本当にいるとして、その人が名乗れば、狼に狙われます」

「狼を見つけるためには情報が必要です」

「情報が必要なのと、情報源を晒すのは別です」

 葉月の声は硬かった。

 秋津は少しだけ目を細めた。

「葉月さんは、霊が誰か知っているのですか」

「知りません」

 直人は葉月の背中を見た。

 嘘だった。

 だが、彼女はまっすぐ言った。直人とは違う。彼女は嘘をつける。必要なら、目を逸らさずに。

 秋津は微笑んだ。

「分かりました。では、霊の方がいるなら、今は名乗らなくても構いません。ただし、結果があるなら、何らかの形で共有していただきたい。村全体のために」

 村全体のために。

 その言葉が、また広間に沈んだ。

 会議はその後も続いた。

 鹿島の占い結果によって、秋津は事実上の中心人物になった。本人は慎重な姿勢を崩さない。だからこそ、周囲は彼を頼る。倉持のように反発する者でさえ、最終的には秋津の言葉を待つ。

 投票をするかどうか。

 誰を疑うか。

 札を公開するか。

 議題はいくつも出たが、結論は出なかった。いや、出ないように進んでいるのだと直人は思った。結論を急がないことで、秋津は場を支配していた。皆が疲れ、判断力を失った頃、最も受け入れやすい案を出す。その時、それは強制ではなく、自然な流れに見えるだろう。

 昼過ぎ、葉月が直人を連れて台所裏の小部屋に入った。

 そこは食料庫だった。米袋、缶詰、古い漬物樽、灯油ポリタンクが並んでいる。隙間風が入り、広間より冷えた。

「秋津先生を疑っていますね」

 葉月が言った。

 直人は否定しなかった。

「確証はありません」

「確証がなくても、疑う理由はあります」

「鹿島先生の占いでは白でした」

「白が何を意味するか分かりません」

 葉月は帳面から書き写したらしい紙を取り出した。

「古い記録では、占札は『色を見る』とあります。でも、白黒とは書いていない。白い石が見えたという鹿島先生の解釈が正しいとは限らない」

「白が狼でないことを示すとは限らない?」

「はい。あるいは、占い自体が妨害されている可能性もある」

「妨害?」

「空札です」

 葉月は紙を指した。

「空についての記述が少ないんです。ほとんど空白。だから、何の役か分からない。でも、空という文字がわざわざ札になっている以上、無意味とは思えません」

「能力を無効にするとか?」

「可能性はあります」

 直人は棚の米袋に視線を落とした。

「だとしたら、鹿島先生の結果は当てにならない」

「はい。でも、今それを言えば、鹿島先生を疑うことになる。秋津先生を疑うことにもなる。そして、占いを否定するなら霊の結果はどうなんだ、という話にもなる」

「僕が出ることになる」

「そうです」

 葉月は紙を折りたたんだ。

「だから、今は言えません」

 直人は苛立ちを覚えた。誰に対してかは分からない。葉月か。秋津か。自分か。あるいは、この村そのものか。

「黙っていたら、また誰かが選ばれます」

「分かっています」

「遠野さんは狼じゃなかった」

「分かっています」

「じゃあ、どうすればいいんですか」

 声が少し荒くなった。

 葉月は目を伏せた。

「私にも分かりません」

 その答えは、直人の怒りを行き場のないものにした。

 分からない。

 この村に来てから、何度もその言葉にぶつかっている。分からないから怖い。分からないから誰かの言葉にすがる。秋津の整った言葉は、その空白を埋める。たとえ中身が危うくても、形が整っていれば人は安心する。

 直人には、その形を作れない。

「柊さん」

 葉月が言った。

「あなたは、嘘が苦手なんですよね」

「ええ」

「それは、今は弱点です。でも、たぶん最後まで弱点とは限りません」

「どういう意味ですか」

「分かりません」

 葉月は少しだけ笑った。初めて見る表情だった。笑みというには弱く、疲れた顔の隙間に出た小さな明かりのようだった。

「でも、遠野さんがあなたに声を残したのは、たぶん意味があります。嘘がうまい人ではなく、嘘が苦手な人に」

 直人は何も言えなかった。

 午後になると、広間の空気はまた投票へ傾き始めた。

 掲示板には変化がない。ただ、日没までに次の供物を選べという文があるだけだ。その期限が、人々の判断を少しずつ削っていた。

 誰を選ぶのか。

 最初に名が挙がったのは、浅井利彦だった。

 理由は単純だった。昨夜、遠野を疑う発言をした。投票でも遠野に入れたのではないか。遠野が狼でないなら、遠野に票を集めた者が怪しい。そういう流れだった。

 浅井は顔を真っ赤にして否定した。

「俺だけじゃないだろ! 皆だって書いたんだろ!」

 その言葉に、広間は気まずく沈黙した。

 皆。

 そう、皆だった。

 だからこそ、誰か一人を悪者にしなければならない。全員が悪いままでは、広間に座っていられない。

 秋津が言った。

「浅井さんだけを責めるのは公平ではありません。昨日は特殊な状況でした。誰もが混乱していた」

 浅井は救われたように秋津を見た。

 だが、秋津は続けた。

「ただし、遠野さんへの疑いを最初に言葉にしたのが誰だったのかは、確認する必要があります。疑いは、口に出された瞬間に方向を持ちますから」

 直人は秋津を見た。

 かばっているようで、逃がしていない。

 浅井の顔から血の気が引いた。

「先生、俺は別に」

「分かっています。責めているのではありません。事実を整理しているだけです」

 事実を整理。

 また、言葉が行為の輪郭を変える。

 直人は立ち上がりかけた。

 その時、胸元の霊札が熱を持った。

 掌に取る前から分かった。札が何かを伝えようとしている。直人は広間を抜け出し、廊下へ出た。葉月が気づいて後を追ってくる。

「どうしました」

「札が」

 直人は霊札を取り出した。

 文字が滲んでいた。

 霊。

 その周りに、黒い筋が浮かんでいる。まるで水面に墨を垂らしたように、細い線が木目を伝って広がっていく。

 直人は札を握った。

 視界が暗くなった。

 次の瞬間、彼は雪の中に立っていた。

 いや、立っているのではない。誰かの記憶を見ているのだと、直感で分かった。足元は覚束ない。息が苦しい。夜の公民館。広間の隅。遠野清作の目線。

 誰かが近づいてくる。

 顔は見えない。ランタンの逆光で、輪郭だけが黒く沈んでいる。

「あなたに票が集まります」

 声がした。

 男の声だった。

 落ち着いた、整った声。

「逃げても無駄です。皆、安心したがっている。盤が示した名前なら、選んでも自分を責めずに済む」

 遠野の記憶の中で、老人の声が響く。

「おまえが集めるのか」

 相手は答えない。

「私は、集めません。ただ、流れはそうなるでしょう」

「便利な言い方だ」

「遠野さん。あなたは知りすぎている。今ここで昔の話をすれば、村は割れる。子供も高齢者もいる。混乱は避けなければならない」

「そのために、わしを差し出すか」

「誰かが選ばれます」

「それを、わしにするのか」

 沈黙。

 そして声。

「あなたなら、意味を理解できる」

 そこで記憶は途切れた。

 直人は廊下の壁に手をついた。吐き気がした。葉月が肩を支える。

「何を見ました」

 直人は息を整えようとした。

 顔は見えなかった。

 だが、声は聞いた。

 秋津の声に似ていた。あまりにも似ていた。

 しかし、断言できるか。

 直人は自分に問いかけた。あの声は本当に秋津だったのか。記憶の中の声は歪んでいた。遠野の恐怖や怒りが混じっていたかもしれない。似ていると思った瞬間、自分の中の疑いが声を秋津に寄せた可能性もある。

 ここで秋津の名を出せば、どうなる。

 霊札の存在が露見する。

 証拠は声だけ。

 鹿島の占いでは秋津は白。

 広間の人々は秋津に頼っている。

 直人は、最悪の絵を想像した。

 自分が秋津を告発する。秋津は穏やかに否定する。鹿島が占い結果を口にする。村人たちは、霊を名乗る外来者を疑う。遠野と密談していたことも持ち出される。そうなれば、次に供物盤へ名前を書かれるのは自分かもしれない。

「柊さん」

 葉月が促した。

「遠野さんは、誰かに脅されていました」

「誰ですか」

「顔は見えませんでした」

「声は?」

 直人は答えられなかった。

 葉月はその沈黙だけで察したようだった。

「秋津先生ですか」

「分かりません」

「似ていた?」

「分かりません」

 嘘ではなかった。

 分からないのだ。

 分からないまま、誰かを疑うことはできる。だが、分からないまま、誰かを吊ることはできない。

 広間から浅井の怒鳴り声が聞こえた。

「だから俺じゃないって言ってるだろ!」

 投票の流れができ始めている。

 遠野の時と同じだ。

 最初は確認。次に整理。そして、誰か一人の名前へ空気が集まっていく。

 直人は廊下を歩き出した。

「どこへ」

 葉月が聞く。

「止めます」

「どうやって」

「分かりません」

 葉月は一瞬だけ目を見開き、それから小さく息を吐いた。

「本当に、嘘が下手な人ですね」

 広間に戻ると、秋津が浅井に向かって言っていた。

「浅井さんをすぐに供物にするという話ではありません。ただ、昨日の発言について、皆が納得できる説明が必要です」

「説明って何だよ。怖かっただけだよ。皆だって怖かっただろ!」

 浅井の声は裏返っていた。

 直人は中央に立った。

「昨日、遠野さんに票が集まったのは、浅井さん一人のせいではありません」

 全員が直人を見た。

 秋津もこちらを向いた。

「柊さん」

 穏やかな声だった。

「今は浅井さんの話を聞いています」

「聞いているようには見えません。浅井さんに、皆の罪をまとめて背負わせようとしているように見えます」

 広間がざわついた。

 秋津の表情は変わらない。

「罪、という言葉は強すぎます」

「強い言葉を避けると、したことも軽くなるんですか」

 自分でも驚くほど、声が硬かった。

 民子が泣きそうな顔で言った。

「じゃあ、私たちは罪人なの?」

 直人は答えに詰まった。

 そうだ、と言えば彼女を壊す。違う、と言えば遠野を裏切る。

 秋津が静かに言った。

「柊さん。皆さんは恐怖の中で、村を守るために選択しました。その行為を罪と断じるのは簡単です。しかし、それで何が救われますか」

 また、空気が秋津の方へ流れた。

 直人は歯を食いしばった。

 言葉で勝てない。

 秋津は、相手の言葉を受け止めるように見せながら、場の感情を自分の側へ移す。直人が何かを言えば言うほど、彼の方が乱暴に見える。

 だが、ここで黙れば同じことが繰り返される。

「遠野さんは、狼ではありませんでした」

 言ってしまった。

 広間が凍りついた。

 葉月が息を呑む気配がした。

 秋津の目が、わずかに鋭くなった。

「なぜ、そう言えるのですか」

 当然の問いだった。

 直人は、自分の胸元の札を意識した。

 霊だと名乗れば終わる。

 名乗らなければ、信じてもらえない。

 浅井が叫んだ。

「何で分かるんだよ!」

 民子も泣きながら言った。

「本当なの? じゃあ私たちは、遠野さんを」

 鹿島が青ざめた顔で直人を見ている。村長は俯いたまま震えている。倉持は何かを言いかけて、拳を握った。

 秋津が一歩近づいた。

「柊さん。大切なことです。遠野さんが狼ではなかったという根拠を示してください」

 直人は唇を開いた。

 その時、葉月が横から言った。

「記録です」

 全員の視線が葉月に移った。

 葉月は古い帳面を胸に抱えていた。

「古い記録では、最初に盤が名を示した者は、狼ではなく盤守であることが多いとあります。遠野さんは拝殿の管理をしていました。だから、狼ではない可能性が高い」

 直人は葉月を見た。

 その記録が本当にあるのかは分からない。少なくとも直人は読んでいない。だが、葉月は表情を変えなかった。

 秋津が聞いた。

「可能性、ですね」

「はい。断定はできません」

 葉月は直人を見ずに続けた。

「でも、遠野さんを狼と決めつけて安心するのは危険です」

 広間の空気が、少しだけ揺れた。

 秋津はしばらく葉月を見ていたが、やがて頷いた。

「分かりました。遠野さんが狼ではなかった可能性を考慮しましょう。浅井さんへの疑いも、いったん保留にします」

 浅井はその場に座り込んだ。

 直人は全身から力が抜けるのを感じた。

 止められた。

 少なくとも、今すぐ浅井に票が集まる流れは切れた。

 だが、その代償として、秋津の目は直人と葉月を明確に捉えた。

 疑いではない。

 警戒だった。

 午後の終わり、掲示板の文字がまた変わった。

 日没まで、あと一刻。

 狼を示せ。

 供物を選べ。

 人々は言葉を失った。

 秋津は投票を先延ばしにした。浅井への流れが崩れた以上、無理に押せば反発が出ると判断したのだろう。代わりに、全員に自分の行動記録を書かせることにした。昨夜、誰がどこにいたか。誰と話したか。札を使ったか。使わなかったか。

 直人は白い紙を前にして、また鉛筆を握った。

 昨夜、遠野と物置で話した。

 霊札で遠野の声を聞いた。

 遠野の記憶で、秋津に似た声を聞いた。

 どれも書けなかった。

 書けないことが増えるほど、自分が嘘つきになっていくようだった。

 夕方、公民館の廊下で秋津に呼び止められた。

「柊さん」

 直人は足を止めた。

 窓の外は薄暗くなり始めている。広間からは、押し殺した話し声が聞こえていた。

「少し、よろしいですか」

「何でしょう」

 秋津は微笑んだ。

「あなたは正義感の強い方ですね」

「そうではありません」

「では、なぜ遠野さんのことを?」

「間違っていると思ったからです」

「何が間違っていると?」

 直人は答えに詰まった。

 秋津は責めるような顔をしない。それがかえって、こちらの言葉を探られているようで嫌だった。

「遠野さんを狼だと決めつけることです」

「なるほど。では、あなたは誰が狼だと思いますか」

「分かりません」

「分からないのに、流れを止めた」

「分からないからです」

 秋津の目が、少しだけ細くなった。

「分からないから止める。立派な考えです。ただし、止め続ければ、いずれ全員が危険になる」

「誰かを選べば安全なんですか」

「安全とは限りません。しかし、選ばないことで起きる危険もある」

「だから、誰かを選ぶんですか」

「選ぶというより、可能性を絞るのです」

「言い方の違いでは?」

 直人がそう言うと、秋津は微かに笑った。

「言い方は大切です。言葉によって、人は傷つきもするし、動くこともできる」

「人を消すこともできる」

 秋津は黙った。

 廊下の空気が冷たくなる。

「柊さん」

 秋津の声は低くなった。

「あなたは、何か知っていますね」

 直人は何も答えなかった。

「遠野さんから何か聞いたのですか。それとも、札の力で何かを?」

 心臓が跳ねた。

 秋津は見逃さなかっただろう。

 だが、彼は追及しなかった。むしろ一歩引いた。

「隠し事を責めるつもりはありません。誰にでも、言えないことはあります。ただ、考えておいてください。あなたが真実だと思っているものが、村を救うとは限らない」

「どういう意味ですか」

「真実は、人を正しくするとは限らない。時に、ただ壊すだけです」

 秋津はそれだけ言うと、広間へ戻っていった。

 直人は廊下に残された。

 真実は、人を正しくするとは限らない。

 それは脅しだったのか。忠告だったのか。分からない。

 だが、その言葉は直人の中に残った。

 日没直前、投票は行われなかった。

 誰に票を集めるか、最後まで決まらなかったからだ。秋津は無理にまとめなかった。葉月が古い記録を持ち出し、盤守と狼の違いを論じたこともあり、村人たちは誰か一人を選ぶところまで進めなかった。

 選ばなければ、全員から名を取る。

 その恐怖はあった。だが、前夜に遠野を失ったばかりの村人たちは、もう一度すぐに誰かを選ぶことにも怯えていた。

 午後六時。

 鐘が鳴った。

 全員が広間で身を固くした。

 一度。

 二度。

 それだけだった。

 誰も消えなかった。

 代わりに、広間の壁に貼られていた避難者名簿から、全員の名前の一文字目だけが薄くなっていた。

 柊直人の「柊」が、かすれている。

 白縫葉月の「白」が、薄れている。

 秋津修平の「秋」も、鹿島圭介の「鹿」も、倉持剛の「倉」も、青山民子の「青」も、輪郭を失っていた。

 民子が悲鳴を上げた。

 村長が座り込んだ。

 倉持が名簿を壁から剥がそうとして、葉月に止められた。

「触らないで!」

 名簿の文字は、薄れたまま残っていた。消えてはいない。だが、このまま同じことが続けば、名前そのものが削れていく。そう全員が理解した。

 選ばなかった罰。

 直人は自分の名を見た。

 柊。

 祖母から受け継いだ姓。村に戻ってきた血の名前。その一字が、白くかすれている。

 その夜、誰も眠らなかった。

 広間ではすすり泣きが続き、怒鳴り声が何度か起き、そのたびに秋津が静めた。鹿島は頭痛を訴える者に薬を配った。倉持は玄関の前で腕を組んだまま座っていた。浅井は毛布をかぶり、何も喋らなかった。

 直人は廊下にいた。

 霊札はもう熱を持っていない。

 遠野の声も聞こえない。

 代わりに、記憶の中であの男の声が繰り返される。

 あなたなら、意味を理解できる。

 あれは本当に秋津だったのか。

 直人は、何度も自分に問いかけた。

 顔は見えなかった。

 断定はできない。

 けれど、あの声の整い方。人を責めないまま、相手を追い込む言葉。選択肢を与えているように見せて、最初から出口を一つにしている話し方。

 それは、秋津にあまりにも似ていた。

 葉月が廊下に来た。

「大丈夫ですか」

「大丈夫に見えますか」

「見えません」

 葉月は隣に座った。

「でも、立ってはいます」

 直人は小さく息を吐いた。

「今日、僕は何もできませんでした」

「浅井さんは消えませんでした」

「代わりに、全員の名前が削れた」

「それでも、誰か一人を選ぶ流れは止めました」

「次は止められないかもしれない」

「そうですね」

 葉月は否定しなかった。

 直人は窓の外を見た。雪はまだ降っている。白縫村は、完全に外から切り離されていた。

「葉月さん」

「はい」

「狼は、本当に人なんでしょうか」

 葉月はしばらく黙っていた。

「帳面には、狼札を持つ者、とあります」

「でも、遠野さんは狼じゃなかった。浅井さんも、たぶん違う。秋津先生がそうかもしれない。でも、もし違ったら」

「違ったら?」

「僕たちはまた、誰かを狼にする」

 葉月は答えなかった。

 その沈黙が、答えのようでもあった。

 広間の奥で、秋津の声が聞こえた。

「明日は、もっと冷静に話し合いましょう。大丈夫です。まだ、間に合います」

 大丈夫。

 まだ、間に合う。

 その言葉に、何人かが頷いていた。

 直人は、遠野清作の名を心の中で呼んだ。

 遠野清作。

 遠野清作。

 遠野清作。

 忘れないために。

 それが供物盤に対抗する力なのかどうかは分からない。だが、今の直人にできることは、それしかなかった。

 夜が深まるにつれ、公民館の外の雪はさらに厚くなった。

 村は白い檻になった。

 その檻の中で、人々はまだ、自分が狼ではないと信じていた。



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