第一章 雪崩の夜、札が届く
白縫村に着いたとき、柊直人はまず、音が少ないと思った。
雪のせいだけではなかった。山肌に沿って伸びる一本道は、途中から舗装の色を失い、両脇の杉林に吸い込まれるように細くなっていた。風が吹けば枝が軋むはずなのに、その音さえ、どこか遠慮がちだった。世界そのものが息を潜めて、よそ者の足音を聞いている。そんな気配があった。
バス停は、錆びた標識と小さな待合小屋だけだった。時刻表は白く褪せ、午後の便は直人が乗ってきた一本で終わっている。携帯電話の画面には、かろうじて一本の電波が立っていた。頼りない線だった。少し指で触れただけで折れてしまいそうな、そんな線。
直人は肩に掛けた鞄を持ち直し、待合小屋の外に出た。
空は低かった。山の上から灰色の雲が垂れ下がり、村全体を蓋のように押さえつけている。四月も終わりに近いというのに、道端には溶け残った雪が汚れた綿のように固まっていた。
「柊さん、ですか」
声をかけられて振り向くと、若い女が立っていた。黒いコートの襟を立て、片手に古びた傘を持っている。年は直人と同じくらいか、少し下だろう。髪は肩のあたりで切りそろえられ、顔立ちは整っているが、愛想よく笑うタイプではなさそうだった。
「はい。柊直人です」
「白縫葉月です。村役場の臨時職員をしています。今日は役場から迎えに来るよう言われました」
葉月は事務的に頭を下げた。言葉は丁寧だが、歓迎の熱はない。直人はそれに少し安心した。過度に親切にされるのは苦手だった。
「すみません。わざわざ」
「荷物、それだけですか」
「ええ。二泊の予定なので」
そう答えたあとで、直人は自分の言葉に小さな違和感を覚えた。二泊の予定。それは今朝までの予定だった。山の天気を見れば、予定というものがいかに人間側の都合にすぎないかが分かる。
葉月は直人の鞄を一瞥し、歩き出した。
「お祖母さまの家は、まだ残っています。ただ、屋根の一部が傷んでいますから、今日は公民館に泊まっていただくことになると思います」
「祖母の家には、入れませんか」
「昼のうちなら。けれど今夜はやめた方がいいです。雪が崩れるかもしれません」
「この時期に雪崩ですか」
「この村では、春の雪の方が怖いんです」
葉月はそれだけ言うと、黙った。
直人もそれ以上は聞かなかった。彼は昔から、会話の継ぎ目を作るのが下手だった。相手が沈黙すると、こちらも沈黙する。その沈黙を気まずいものにしないための冗談や相槌が、うまく出てこない。大学でも職場でも、それで何度か損をした。
柊直人は、嘘が苦手だった。
正確に言えば、嘘をつこうとすると顔に出る。隠したいと思うほど声が固くなり、目線が逸れ、言葉が余計になる。だから彼は、なるべく嘘をつかないように生きてきた。ただし、嘘をつかずに生きることと、正直に生きることは同じではない。言わずに済ませる。聞こえなかったふりをする。曖昧に笑う。それくらいの処世は身につけたつもりだった。
だが白縫村に入った瞬間、その曖昧さが役に立たなくなるような気がした。
村は、山腹にへばりつくように広がっていた。家々はどれも古く、黒い瓦屋根の上に雪を残している。道は細く曲がり、民家の軒先には使われなくなった農具や薪束が置かれていた。人影は少ない。たまに年寄りが窓の奥からこちらを見るが、すぐに障子の向こうへ消えていく。
「皆さん、外から来る人に慣れていないんです」
葉月が言った。直人が視線に気づいたことを見抜いたようだった。
「観光地ではないですからね」
「昔は、もう少し人が来ました。供物盤を見るために」
直人は足を止めそうになった。
「供物盤?」
「ご存じないんですか」
「祖母から、少しだけ聞いたことはあります。でも、詳しくは」
葉月は横顔のまま、道の先を見ていた。
「村の拝殿に残っている古い祭具です。盤の上に名前を書いた札を置いて、山の神に捧げる人を決めたと言われています。もちろん、今は使われていません」
最後の一文だけ、少し早口だった。
「人を捧げたんですか」
「伝承です」
「伝承ということは、実際にあったかどうかは分からない」
「そういう言い方をすると、村の人は嫌がります」
直人は口を閉じた。相手が嫌がると分かっていても、聞かずにいられないことがある。彼の悪い癖だった。
祖母の名は、柊澄江といった。三年前に亡くなった。白縫村の出身だったが、若い頃に村を出て、それきり戻らなかったらしい。直人が子供の頃、祖母は村の話をほとんどしなかった。ただ一度だけ、酔った親戚が「澄江さんは、村から逃げたんだ」と言ったことがある。その時、祖母は笑わなかった。怒りもしなかった。ただ、湯呑みを両手で包んだまま、長いこと畳の目を見ていた。
今回、直人が白縫村を訪れたのは、祖母の家を処分するためだった。役場から、空き家整理の通知が届いた。相続人として確認してほしいものがあるという。直人の父はすでに他界し、親戚は誰も村に関わりたがらなかった。
だから直人が来た。
ただ、それだけのはずだった。
公民館は村の中心部にあった。木造二階建てで、玄関の脇には掲示板がある。消防団の訓練予定、健康診断のお知らせ、猿の出没注意。それらに混じって、古びた紙が一枚、画鋲で留められていた。
白縫祭 供物盤一般公開中止のお知らせ
紙は黄ばんでいた。日付は十年前になっている。
葉月が直人の視線を追った。
「昔、外から来た人が騒ぎを起こしたんです。それ以来、公開はしていません」
「騒ぎ?」
「行方不明者が出ました」
葉月は玄関の引き戸を開けた。古い床板の匂いがした。ワックスと湿った木材と、石油ストーブの匂いが混じっている。
中には数人の村人がいた。受付台のような長机の向こうで、白髪の老人が立ち上がった。背は低いが、姿勢は真っ直ぐで、細い目が油断なく直人を見た。
「柊澄江の孫か」
「はい。柊直人です」
「村長の白縫宗一だ」
老人は名乗ったあと、握手は求めなかった。代わりに、直人の顔をしばらく見つめた。
「似ているな」
「祖母にですか」
「目がな」
そう言ったきり、村長は黙った。直人は返事に困った。祖母に似ていると言われても、喜んでいいのかどうか分からない。
公民館の奥には、ほかにも人がいた。
黒縁眼鏡をかけた四十代の男が、石油ストーブのそばで書類を整理している。葉月が「秋津先生」と呼んだ。村の小中学校で教えている教師らしい。柔らかな物腰で、立ち上がると丁寧に頭を下げた。
「秋津修平です。遠いところ、お疲れさまでした」
「柊です」
「お祖母さまの件、心よりお悔やみ申し上げます。澄江さんは、村にとっても忘れられない方でした」
その言い方が少し気になった。大切な人だった、ではなく、忘れられない方。直人はその違いを問いただしたかったが、秋津の穏やかな目を見ていると、言葉が喉で止まった。
隅の長椅子には、赤ら顔の大柄な男が座っていた。消防団の法被を羽織っている。名前は倉持剛。村の土建会社に勤め、除雪作業もしているという。彼は直人を見るなり、「都会の人間は薄着だな」と笑った。悪意はなさそうだが、声が大きい。
その隣に、白衣を着た若い男がいた。村の診療所の医師で、名は鹿島圭介。白衣の上にダウンベストを羽織っている姿が、どこか落ち着かなかった。鹿島は疲れた顔で会釈だけした。
台所の方では、恰幅のいい中年女性が湯呑みを並べていた。青山民子。村の婦人会の中心人物で、初対面の直人にも「お茶くらい飲んでいきなさい」と言った。
そして、窓際に一人の老人がいた。
背中を丸め、両手を膝に置いて座っている。目元は穏やかで、誰よりもこの場の空気から遠いところにいるように見えた。葉月が小声で教えた。
「遠野清作さんです。昔、拝殿の管理をしていました」
遠野は直人の方を見ると、小さく頷いた。
「澄江さんの孫か」
「はい」
「あの人は、よう覚えとった」
「何をですか」
遠野の皺だらけの唇が、かすかに動いた。
「名前を」
その時だった。
遠くで、何かが鳴った。
最初は雷かと思った。だが音は空からではなく、山の奥から来た。低く、重く、腹の底を押すような響きだった。公民館の窓ガラスが震えた。湯呑みがかすかに鳴った。
倉持が立ち上がった。
「崩れたな」
誰も「何が」とは聞かなかった。
数分後、消防団の無線が入り、村は一変した。
北側の県道が雪崩で塞がれた。東の林道も土砂と雪で通行不能。携帯電話の電波はさらに弱くなり、固定電話も一部で不通になった。停電はまだ起きていないが、送電線が危ないという。
公民館に村人が集まり始めた。年寄り、子供、若い夫婦、農家の男たち。皆が口々に同じことを言った。まさかこの時期に。予報では大した雪じゃなかった。倉持さん、道はいつ開く。先生、学校はどうなる。村長、役場に連絡はついたのか。
混乱の中心で、秋津は静かに動いていた。声を荒らげることはない。必要な人に必要な指示を出す。高齢者は奥の和室へ。子供には毛布を。発電機の確認は倉持に。診療所の薬は鹿島が取りに行く。葉月には名簿の作成を頼む。
言葉が整っている人だ、と直人は思った。
秋津の言葉には、余分な棘がなかった。誰かを責めず、誰かを不安にさせず、全員が自分から動いたように感じる余地を残している。学校の教師という職業がそうさせるのか、それとも生まれつきなのかは分からない。
直人は何をすればいいか分からず、壁際に立っていた。すると葉月が名簿を持って近づいてきた。
「柊さん、字は読めますか」
「読めます」
「すみません。祖母の家の確認より、こちらを手伝ってください。集まった人の名前を確認しています」
直人は頷いた。何か役に立てるなら、その方が楽だった。
公民館に避難してきた者は、全部で二十六人だった。村人が二十三人。外から来ていた業者が二人。そして直人。全員の名前を書き出すうちに、直人は小さな異変に気づいた。
「この名簿、古いですね」
葉月が顔を上げた。
「ええ。元は避難訓練用のものです」
「線で消されている名前が多い」
「亡くなった方や、村を出た方です」
「でも、ここだけ不自然です」
直人は名簿の中ほどを指した。数行分、名前が書かれていたらしい跡がある。しかし墨で塗り潰されたわけでも、修正液で消されたわけでもない。紙そのものから文字だけが抜け落ちたように、そこだけ白くなっていた。
葉月は一瞬だけ目を伏せた。
「古い紙ですから」
「そういう消え方には見えません」
「柊さん」
葉月の声が固くなった。
「この村では、見えないものを無理に読まない方がいいです」
それは忠告だった。親切にも聞こえたし、脅しにも聞こえた。
夕方になる前に、雪は本格的に降り始めた。季節外れという言葉では片づけられない降り方だった。大粒の湿った雪が、山から吹き下ろす風に巻かれて窓を叩く。公民館の外はすぐに白く霞み、道路の境目が分からなくなった。
発電機が動いたものの、電力は限られていた。夜は一階の大広間で過ごすことになった。食料は婦人会が管理し、毛布は倉庫から出された。直人も男たちと一緒に長机を片づけ、畳の上に毛布を敷いた。
午後七時を過ぎた頃、停電した。
蛍光灯が瞬き、次の瞬間、建物全体が闇に落ちた。誰かが悲鳴を上げた。子供が泣いた。すぐに発電機の明かりがついたが、広間の半分ほどしか照らせない。残りは薄暗く、壁際にいる人々の顔は影に沈んだ。
その時、遠野清作が口を開いた。
「拝殿を見に行かんといかん」
広間の空気が変わった。
倉持が眉をひそめた。
「爺さん、何言ってる。こんな雪で外に出る気か」
「盤が鳴っとる」
「盤?」
直人は思わず聞き返した。
遠野は、直人ではなく村長を見ていた。
「宗一。おまえにも聞こえとるはずだ」
村長の顔は青ざめていた。先ほどまでの威厳は消え、老いた男が寒さに耐えているように見えた。
「今さら、そんなものが動くはずがない」
「雪で道が閉じた。外との筋が切れた。数が揃っとる。よそ者もおる」
遠野の視線が直人に向いた。
「それに、澄江さんの血が戻った」
全員の目が直人に集まった。直人は背筋に冷たいものを感じた。
「どういう意味ですか」
答えたのは葉月だった。
「行きましょう。ここで騒ぐより、確認した方が早いです」
「葉月」
村長が止めようとしたが、葉月は引かなかった。
「隠しても仕方ありません。音が聞こえた人は、ほかにもいるはずです」
沈黙が落ちた。広間の隅で、青山民子が胸の前で手を握りしめていた。鹿島は目を伏せ、倉持は舌打ちした。
秋津が静かに立ち上がった。
「人数を絞りましょう。外は危険です。村長、遠野さん、倉持さん、葉月さん、柊さん。私も行きます。鹿島先生はここで待機してください。怪我人が出るかもしれません」
誰も異論を言わなかった。
直人は「なぜ自分も」と聞きたかった。だが、聞けば答えを得てしまう気がした。得たくない答えというものがある。彼はそのことを、この村に来てから何度も感じていた。
拝殿は公民館から歩いて十分ほどの場所にあった。雪はすでに足首まで積もっていた。倉持が懐中電灯を持って先頭を歩き、秋津がその後ろにつく。直人は葉月と並んだ。
「供物盤というのは、本当にあるんですか」
直人が聞くと、葉月は前を向いたまま答えた。
「あります」
「人を選んだという話も」
「あります」
「伝承ではなく?」
「記録として」
雪を踏む音が、やけに大きく聞こえた。
「なぜ、そんなものを残しているんですか」
「捨てられないからです」
「文化財だから?」
「いいえ」
葉月はそこで言葉を切った。白い息が闇に溶ける。
「捨てた人が、戻らなかったからです」
拝殿は杉林の奥にあった。小さな建物だった。屋根は低く、軒先には古い注連縄が下がっている。扉には錆びた南京錠がかかっていたが、村長が震える手で鍵を開けた。
中は冷え切っていた。木の匂いと埃の匂いがする。祭壇には何もない。ただ、床板の中央に不自然な継ぎ目があった。
遠野が膝をつき、床板の端に指をかけた。
「昔は、ここを開けるのは盤守だけだった」
「盤守?」
直人が聞くと、遠野は掠れた声で言った。
「供物を数える役だ」
床板が持ち上がった。
その下に、黒い円盤があった。
直径は一メートルほどだろうか。石とも木ともつかない材質で、表面には同心円状の溝が刻まれている。外周には細かな文字が彫られていた。古い漢字のようでもあり、記号のようでもある。その中心には、空白の四角い窪みがあった。名札を置くための場所に見えた。
葉月が懐中電灯を向けた。
円盤の縁に、文字が浮かんでいた。
嘘を数えよ。
供物を選べ。
名を捧げよ。
直人は喉が乾くのを感じた。
「最初から彫ってあったんですか」
誰も答えなかった。
秋津だけが、冷静な声で言った。
「光の角度で、そう見えるだけかもしれません」
直人は秋津を見た。秋津の表情は穏やかだった。しかし、その穏やかさが今は不自然に見えた。ここで平静を保てる人間は、何かを知らない人間か、知りすぎている人間のどちらかだ。
その時、円盤が鳴った。
音というより、振動だった。低く、短く、腹の奥を叩くような響き。床板が震え、拝殿の埃が舞った。村長が後ずさり、柱に背をぶつけた。
「閉じろ」
村長が叫んだ。
「今すぐ閉じろ!」
倉持が床板を戻そうとした。だが遠野がその手を掴んだ。老人とは思えない力だった。
「もう始まっとる」
「何がだよ!」
「札が配られる」
遠野の目は、円盤の中心を見つめていた。
「今夜、必ず来る」
その言葉の意味を、直人はその時まだ理解していなかった。
公民館に戻ると、広間の空気はさらに重くなっていた。拝殿に行った六人の表情を見れば、何もなかったとは誰も思わない。子供たちは眠り、年寄りたちは毛布にくるまっている。大人たちは小声で話していたが、直人たちが入ると会話を止めた。
秋津が全員に向けて説明した。
「拝殿に異常はありませんでした。ただ、床下の祭具を確認したため、念のため今夜は公民館から出ないようにしてください。雪崩の危険もあります。朝になれば状況を整理できます」
異常はありませんでした。
直人はその言葉を聞いて、胸の奥が少しざらついた。嘘ではないのかもしれない。祭具があること自体は、村の者にとって異常ではないのだろう。文字が浮かんでいたことも、盤が鳴ったことも、見方によっては「確認した」と言えるのかもしれない。
だが、大事なことが抜け落ちている。
直人はそれを言おうとして、言えなかった。ここで口を挟めば、場が乱れる。乱れた場を収める言葉を、自分は持っていない。
葉月が隣で名簿に何かを書き込んでいた。
「秋津先生は、嘘をついていると思いますか」
直人が小声で聞くと、葉月はペンを止めた。
「先生は嘘をつく人ではありません」
「そうですか」
「ただ、全部を言う人でもありません」
その答えは、直人には妙に納得できた。
夜は長かった。広間の明かりは最低限に落とされ、発電機の低い音だけが続いた。外では雪が窓を叩いている。時おり山の方から、遠い地鳴りのような音がした。そのたびに、眠っていた者が身じろぎした。
直人はなかなか眠れなかった。畳の上に敷いた毛布は薄く、床から冷気が上がってくる。近くでは倉持が大きないびきをかいていた。遠くで子供が寝言を言った。
目を閉じると、拝殿の円盤が浮かんだ。
嘘を数えよ。
供物を選べ。
名を捧げよ。
直人は祖母のことを考えた。祖母はこの盤を見たことがあったのだろうか。村を出た理由は、ここにあるのだろうか。
澄江さんは、よう覚えとった。
遠野の言葉が耳に残っている。
何を覚えていたのか。誰の名前を覚えていたのか。
ふと、近くで衣擦れの音がした。
直人は目を開けた。広間は薄暗い。発電機の明かりが壁に揺れている。人々は眠っているように見えた。
その中で、遠野清作だけが座っていた。
老人は直人の方を見ていた。暗がりのせいで表情は読めない。しばらくして、遠野は口元に指を当てた。黙っていろ、という仕草だった。
直人の心臓が強く打った。
遠野はゆっくりと立ち上がり、広間の奥の廊下へ歩いていった。足音はしなかった。直人は迷った末、毛布を押しのけた。葉月が少し離れた場所で眠っている。秋津は壁にもたれて目を閉じていた。
直人は遠野の後を追った。
廊下は寒かった。窓の外は白く、闇の中で雪だけがぼんやり光っている。遠野は突き当たりの小部屋の前で立ち止まった。物置として使われている部屋だった。戸を開けると、古い机や段ボール箱が積まれていた。
「柊さん」
遠野が初めて直人の名前を呼んだ。
「あんたは、嘘が下手な顔をしとる」
「よく言われます」
「それは、この村では命取りになる」
遠野は物置の棚から、小さな木箱を取り出した。蓋には紙が貼られており、墨で「避難札」と書かれている。
「これは?」
「昔の遊び道具だと、村の若い者には言ってある」
遠野は蓋を開けた。
中には、木製の札が入っていた。古い将棋駒ほどの大きさで、一枚一枚に文字が刻まれている。
占。
霊。
護。
共。
空。
狼。
直人は息を呑んだ。
「これが、配られる札ですか」
「これは写しだ。本物は盤が出す」
「盤が、出す?」
遠野は直人を見た。
「札を持った者は、夜に役を得る。占は人の色を見る。霊は消えた者の声を聞く。護は一人を守る。共は互いを知る。空はまだ分からん。狼は名を食う」
「人狼ゲームみたいですね」
「人狼?」
「村人の中に狼がいて、議論で処刑するゲームです」
遠野はゆっくり首を振った。
「ゲームなら、終われば皆で笑える。この村のは違う。吊った者の名が消える」
直人は喉の奥が冷たくなるのを感じた。
「消えるというのは、死ぬということですか」
「死ぬ方がましなこともある」
遠野は木箱を閉じた。
「昔、あんたの祖母は、消えた者の名を呼んだ。皆が忘れた名前を、一人で覚えておった。そのせいで村にいられなくなった」
「誰の名前ですか」
「それを言えば、わしも呼んだことになる」
老人の声が震えた。恐怖のためなのか、寒さのためなのかは分からない。
「柊さん。今夜、札が来ても、人に見せるな。特に霊なら、絶対に言うな」
「なぜです」
「霊は、最初に吊られる」
その時、廊下の向こうで床板が鳴った。
直人と遠野は同時に振り向いた。
薄暗い廊下に、秋津が立っていた。
「お二人とも、眠れませんか」
秋津の声は穏やかだった。こんな夜中に物置で密談している二人を見ても、少しも驚いた様子がない。
遠野は木箱を背中に隠した。
「年寄りは夜が浅い」
「そうですか。柊さんは?」
「眠れなくて」
直人は答えた。嘘ではない。だが、全部ではなかった。
秋津はゆっくり近づいてきた。
「遠野さん、昔話はほどほどにした方がいい。こういう夜は、ただでさえ皆が不安になっています」
「昔話で済めばいいがな」
「済ませるしかありません」
秋津の声は変わらず静かだった。しかしその静けさの中に、硬い芯のようなものがあった。
「不安なとき、人は意味を求めます。雪崩にも、停電にも、偶然にも、何か理由があると考えたくなる。ですが、意味を与えすぎると、人は間違えます」
「意味を消しすぎても、人は間違える」
遠野が言った。
二人の視線がぶつかった。直人はその場に立ったまま、どちらの言葉にも頷けなかった。二人とも正しいようで、二人とも何かを隠しているように見えた。
秋津は先に視線を外した。
「広間に戻りましょう。朝まで、全員一緒にいるべきです」
その言い方には逆らいにくい力があった。命令ではない。提案の形をした拘束だった。
直人は広間に戻った。
それから、いつ眠ったのか分からない。
夢を見た気がする。雪の中を、誰かが歩いている夢だった。顔は見えない。背中だけが見える。白い雪の上に、黒い足跡が続いている。その人は何度も振り返ろうとするが、振り返るたびに顔がぼやける。直人は名前を呼ぼうとする。けれど、名前が出てこない。
目を覚ましたとき、広間はまだ暗かった。
発電機の音が止まっていた。窓の外は、夜明け前の灰色に沈んでいる。誰かが小さく呻いた。誰かが毛布を引き寄せた。
直人は体を起こした。
その瞬間、胸の上から何かが滑り落ちた。
乾いた音が畳に響いた。
木札だった。
直人は息を止めた。札は手のひらほどの大きさで、古びた木目の中央に一文字が刻まれていた。
霊。
物置で見た写しとは違う。文字が黒く濡れているように見えた。彫られているのではなく、木の内側から滲み出しているようだった。
直人は周囲を見回した。
同じように、何人かが目を覚ましていた。葉月が毛布の上で一枚の札を握りしめている。倉持は自分の胸元を見下ろし、顔を引きつらせていた。鹿島は札を裏返し、もう一度表に返している。青山民子が口元を押さえて震えていた。
遠野は、目を閉じたまま座っていた。
まるで、こうなることを知っていたかのように。
「何だ、これ」
倉持が声を荒げた。
「誰が置いた!」
その声で、広間の人々が次々に目を覚ました。子供が泣き出した。大人たちは自分の毛布を探り、札を見つけては青ざめた。
秋津も目を開けた。彼は自分の前に置かれた札を見つめたあと、静かにそれを手で覆った。直人は、その文字を見ることができなかった。
葉月が立ち上がった。
「全員、札を隠してください」
「隠す?」
倉持が怒鳴った。
「こんなもの、誰が何を持ってるか分かった方がいいだろうが!」
「分かった途端に、狙われます」
葉月の声は震えていなかった。むしろ、昨夜よりも冷静だった。
「札には役があります。役を知られれば、その人の行動は縛られます」
「何でそんなこと知ってる」
「村の記録係ですから」
葉月はそれだけ言った。
直人は自分の札を握った。木は冷たく、湿っていた。まるで雪の中から掘り出したばかりのようだった。
その時、公民館の外で鐘が鳴った。
低く、乾いた音だった。
一度。
二度。
三度。
誰かが「掲示板」と呟いた。
皆が玄関へ向かった。直人もその流れに押されるように外へ出た。
雪は止んでいた。だが、村は一晩で別の場所になっていた。道路も畑も屋根も白く埋まり、空は鉛色に沈んでいる。公民館の掲示板だけが、雪を払われたように露出していた。
そこに、新しい紙が貼られていた。
墨で、たった一行。
今朝、最初の供物を選ぶ。
誰も声を出さなかった。
直人は紙から目を離せなかった。文字は乾いているはずなのに、今しがた誰かが書いたばかりのような生々しさがあった。
村長がよろめきながら拝殿の方へ歩き出した。秋津が支えようとしたが、村長はその手を振り払った。
「盤を見なければ」
雪を踏み分け、何人かが拝殿へ向かった。直人も後に続いた。昨夜よりも道は歩きにくかった。誰も口を利かない。雪の白さが、かえって人の顔色の悪さを際立たせていた。
拝殿の床板は、すでに開いていた。
誰が開けたのかは分からない。
黒い円盤の中心に、木札が一枚置かれていた。昨夜は空白だった四角い窪みに、ぴたりとはまっている。
そこには、一人の名前が刻まれていた。
遠野清作。
直人は振り返った。
遠野は皆の後ろに立っていた。自分の名前を見ても、驚いた様子はなかった。ただ、長い時間をかけて息を吐いた。
「わしか」
その声は、奇妙に穏やかだった。
倉持が叫んだ。
「ふざけんな! 誰がやった! こんな悪趣味なこと」
青山民子が泣き出した。鹿島は盤を覗き込み、何か医学的な説明を探すように額に手を当てた。村長は膝から崩れ落ちそうになり、葉月が支えた。
秋津だけが、円盤と遠野を交互に見ていた。
そして、ゆっくり口を開いた。
「皆さん、落ち着きましょう」
その声は、雪に閉ざされた村の中で、不自然なほどよく通った。
「まだ、何かが起きたわけではありません。名前が書かれているだけです。まずは、事実を整理しましょう」
事実。
直人はその言葉を聞いて、自分の手の中の札を強く握った。
霊。
遠野が昨夜言った言葉が蘇る。
霊は、消えた者の声を聞く。
まだ誰も消えていない。そう思いたかった。だが、供物盤に刻まれた名前を見た瞬間から、直人の中で何かが始まっていた。
遠野清作は、直人の方を見た。
老人の目は静かだった。その目が、言葉にならない何かを訴えていた。
覚えておけ。
そう言われた気がした。
外でまた、山が鳴った。
誰もが音の方を見た。雪崩か、風か、それとも別の何かか。分からなかった。
ただ、直人にはその音が、巨大な扉の閉まる音のように聞こえた。
村は閉じた。
そして、最初の名前が選ばれた。




