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9/14

夏至の鳥

鳥が、空を横切った。


一羽ではない。


赤。

青。

黄。

白。


夏の光を受けた羽が、街の上でひらめいている。


レティシアは、馬車の窓からそれを見上げた。


「鳥が……」


小さく呟く。


オルディス王国の王都は、夏至祭の最中だった。


石造りの家々の窓には、色鮮やかな布飾りが垂らされている。

赤い布。

黄色の布。

青と緑を縫い合わせた長い帯。

白い薄布は風を受け、光を透かして揺れていた。


通りには花が置かれている。

水路には、細い花びらが流れている。

子どもたちは鳥の形をした紙飾りを持って走り、商人たちは果物と蜂蜜菓子を高く積んでいた。


どこかで、鳥笛が鳴る。


高く、明るい音だった。


王国の王都とは違う。


あちらの王都は、石と秩序の街だった。

席次と門限と、誰がどこを歩いてよいかの線が、見えないところに引かれている街だった。


ここにも、もちろん秩序はあるのだろう。


だが、今のレティシアの目に映るオルディスは、風と色と羽の街だった。


「夏至祭です」


隣に座るフェリクスが、静かに言った。


「今日は、街中の鳥籠が開きます」


「逃げてしまわないのですか」


「戻ってきます。餌と寝床の場所は覚えていますから」


彼は少しだけ窓の外を見る。


「戻る場所がある鳥は、遠くまで飛べるのです」


何気ない言葉だった。


けれどレティシアは、しばらく返事をしなかった。


戻る場所。


その言葉が、胸の奥にゆっくり落ちた。


フェリクスは、それ以上続けなかった。

説明を重ねたり、慰めに変えたりはしなかった。


ただ、少し間を置いてから尋ねる。


「人が多いです。苦しくなったら、すぐに言ってください」


「はい」


「祭りは逃げません。無理に全部見る必要はありません」


「……ありがとうございます」


レティシアは、窓の外へ目を戻した。


色とりどりの鳥が、また空を横切る。


馬車はゆっくり進んだ。


夏至祭のため、王都の中心通りは馬車の速度が制限されているという。

それをフェリクスは「ちょうどよい」と言った。


急がなくていい。


今は、その言葉が少しずつ信じられるようになっている。


マリアンヌは、別の馬車から街を見ていた。


向かいには、レオナールが座っている。


彼は、今日も濃紺の礼装だった。

ただし、旅のための堅い装いではない。

夏至祭に合わせて、袖口には細い銀の刺繍が入っている。


マリアンヌは、窓の外へ視線を移した。


布飾りが風に揺れる。

鳥の影が石畳を走る。

高い塔の鐘が、長く鳴った。


「随分と、華やかな祭りですね」


「ええ」


レオナールは頷いた。


「一年で最も昼の長い日を祝います。冬の長い北部では、夏至は特別な日です」


「鳥を放つのは」


「戻るもの、伝えるもの、空を読むものの象徴です」


レオナールは少しだけ視線を落とした。


「それから、冬を越した証でもあります」


マリアンヌは、その言葉の意味を考えた。


冬を越す。


オルディスの北部。

早い雪。

凍った港。

遅れた配給。


九年前、銀梟から送った塩と乾燥豆。

帳簿様式。

寡婦を配給係に置くこと。

孤児を無賃で働かせないこと。


書類の中の記録だった。


けれど今、窓の外には鳥が飛んでいる。


書類の外側にあるものが、そこにあった。


やがて、馬車は王家の迎賓館へ入った。


王宮そのものではない。


夏至祭の間、諸外国の客人が街を見やすいように使われる館だという。

王都中心部の高台にあり、街並みと水路がよく見えた。


庭には、夏至の布飾りが垂らされている。

石の柱と柱の間に、赤と青の布が渡され、風が吹くたびに大きく膨らんだ。


先に降りたのはフェリクスだった。


彼はレティシアへ手を差し出す。


「足元にお気をつけください」


「ありがとうございます」


レティシアは、その手を借りて馬車を降りた。


コレットと護衛が、少し後ろに控える。


街からは、鳥笛と笑い声が聞こえた。


フェリクスは、レティシアの様子を確かめてから言う。


「よろしければ、少し街を見て回りませんか。南通りなら人も少ないはずです」


レティシアは、すぐには答えなかった。


少し迷ってから、マリアンヌを見る。


マリアンヌは、静かに頷いた。


「あなたが行きたいなら」


それは、何度も聞いた言葉だった。


けれど、聞くたびに少しずつ違って聞こえる。


レティシアは、窓の外ではなく、今度は自分の足元を見た。

それから、顔を上げる。


「行ってみたいです」


フェリクスの顔が明るくなった。


だが、すぐに気を引き締める。


「では、無理のない範囲で。コレット嬢と護衛にも同行していただきます」


「はい」


「菓子は隠しておいた方がよいかもしれません。先ほど申し上げた鳥は、本当に賢いので」


レティシアは、小さく笑った。


「では、気をつけます」


フェリクスとレティシアは、コレットと護衛を連れて南通りへ向かった。


二人の背を、マリアンヌはしばらく見送った。


「では」


隣で、レオナールが言った。


「我々も見て回りましょう」


マリアンヌは、当然のように首を横へ振りかけた。


「私には仕事がございます」


「はい」


レオナールは頷いた。


「存じています」


「では」


「すでに部門を作りましたので、問題ありません」


マリアンヌは、少しだけ黙った。


「部門」


「銀梟移転補助室です。暫定ですが、書記、会計、法務、通信を分けました。昨日の時点で稼働しています」


「昨日」


「貴女が本日、夏至祭を見る時間を確保するためです」


マリアンヌは、王弟を見た。


彼は真顔だった。


冗談ではない。

本当に部門を作った顔だった。


「殿下」


「はい」


「本部移転は、そう簡単なものではございません」


「承知しています。ですので、王妃慈善局の元補佐官二名、銀梟式帳簿を読める会計官三名、外交書簡に通じた法務官二名、通信係四名を入れました」


「人選まで」


「貴女の確認用に一覧を用意してあります」


「各国理事会への返信は」


「三種の定型案を作成済みです」


「王国側からの追加照会は」


「外務部門が受け、緊急度別に分類します。貴女が直接読むべきものには赤紐を」


「……殿下」


「はい」


「用意がよすぎます」


レオナールは、少しだけ視線を伏せた。


「九年分の反省がありますので」


マリアンヌは返答に詰まった。


街の方から、鳥笛の音がした。

高く、明るい音だった。


レオナールは、夏の光に満ちた通りを見る。


「この祭りを、貴女に見ていただきたかったのです」


マリアンヌは、彼を見る。


「あの飢饉の年、北部では夏至祭を中止する予定でした。鳥を放つ家も、布を飾る家もありませんでした」


「……」


「貴女の支援で、翌年、祭りが戻りました」


「私は、書類を送っただけです」


「その書類で、人が冬を越しました」


レオナールの声は、静かだった。


「貴女が救ったものが、今日の街にあります」


風が吹く。


赤と黄の布飾りが、建物の間で大きく揺れた。


マリアンヌは、しばらくその布を見ていた。


書類には、数字が並ぶ。


配給数。

死者数。

支出額。

在庫。

人員。


だが、その向こうに、今日のような空があることを、彼は見せようとしている。


マリアンヌは、小さく息を吐いた。


「一刻だけです」


「二刻、確保してあります」


「殿下」


「では、一刻半」


「……戻ったら、赤紐の書類だけ確認します」


「そのように」


レオナールは、静かに手を差し出した。


「参りましょう、ベルティーユ女史」


マリアンヌは、その手を見た。


一瞬だけ迷う。


それから、手袋越しに指先を重ねた。


「一刻半です」


「はい」


レオナールは少しだけ表情をやわらげた。


「大切に使います」


街へ出ると、祝祭の音が近くなった。


市場には果物が積まれていた。

夏蜜柑に似た丸い果実。

薄く切られた干し果物。

蜂蜜を塗った焼き菓子。

鳥の形をした砂糖菓子。


香辛料の匂いがする。

焼いた肉の匂いも、甘い酒の匂いも混じっていた。


通りの上には布飾りが揺れ、店先には小さな鳥籠が吊られている。

中は空だった。


「本当に、鳥籠を開けるのですね」


「ええ」


「戻らない鳥もいるのでは」


「います」


レオナールは答えた。


「戻らない鳥は、そういう鳥です」


マリアンヌは少しだけ彼を見る。


「随分と寛容ですこと」


「戻る場所を用意することと、閉じ込めることは違います」


その言葉は、まっすぐだった。


マリアンヌは、返事をしなかった。


通りの先で、子どもが鳥笛を吹いた。

その音に合わせるように、青い羽の鳥が屋根から屋根へ飛ぶ。


人々が笑う。

誰かが手を振る。

布飾りがまた風に膨らむ。


マリアンヌは、つい店の並びを見た。


水路に近い店は食料品。

乾物は日陰側。

焼き菓子は人の流れが緩む角に置かれている。

簡易の給水壺は三つ。

混雑する広場の手前に、休める石段がある。


「仕事の目ですね」


レオナールが言った。


マリアンヌは、少しだけ視線を戻す。


「癖です」


「悪い癖ではありません」


「祝祭を見ろと仰ったのは殿下です」


「はい。ですから、数字の外側もご覧ください」


レオナールは、広場の方を見る。


そこには、細い布を売る老婆がいた。


老婆の店には、赤い布が多かった。

けれど、棚の端には銀色の糸で梟の刺繍が入った小さな飾り布が置かれている。


マリアンヌの足が止まった。


「……あれは」


「北部の飾りです」


レオナールは言った。


「冬を越した家が、夏至に窓へ結びます」


「なぜ梟を」


「夜に道を知る鳥だから、と」


老婆が二人に気づき、深く礼を取った。


「殿下」


「祭りの最中です。楽に」


老婆は顔を上げ、それからマリアンヌを見た。


目を細める。


「もしや、銀梟の」


マリアンヌは答えるより先に、老婆が胸元へ手を当てた。


「うちの孫は、冬を越しました」


短い言葉だった。


それ以上はなかった。


けれど、それだけで十分だった。


「そうですか」


マリアンヌは静かに答えた。


「よろしゅうございました」


老婆は、棚から小さな銀梟の飾り布を一つ取り、差し出した。


「夏至の布です。どうか」


「代金を」


「いりません」


「いただけません」


マリアンヌは即座に言った。


「祝祭の商いを崩してはいけません」


老婆は目を丸くした。


それから、声を立てて笑った。


「では、半額で」


「正価で」


「頑固なお方だ」


レオナールが横で静かに言う。


「彼女は、そういう方です」


結局、マリアンヌは正価で飾り布を買った。


銀の梟が、赤い布の端で小さく羽を広げている。


その布を受け取った時、マリアンヌは少しだけ黙った。


紙ではない。

数字でもない。

報告書でもない。


自分が送った書類の向こうで、人が冬を越し、孫が生き、夏至の布が縫われている。


その事実は、重かった。


だが、悪い重さではなかった。


二人はまた歩き出した。


通りの向こうから、フェリクスの声が聞こえた。


「それは囮です。そちらではありません」


次の瞬間、青い羽の鳥がぱっと飛び立った。


くちばしには、菓子がある。


レティシアの笑い声が聞こえた。


小さく、けれど確かに。


マリアンヌは足を止めた。


レオナールも同じ方を見る。


人垣の向こうで、フェリクスが真剣な顔で空の手を見下ろしている。

レティシアは、口元を押さえながら笑っていた。

コレットも、肩を震わせている。


「囮が通用しなかったようですね」


レオナールが言う。


「そのようです」


マリアンヌは答えた。


レティシアが笑っている。


王宮の大広間ではない。

誰かの評価のためではない。

ただ、鳥に菓子を奪われた王太子があまりに真面目な顔をしているから、笑っている。


それだけのことだった。


だが、それだけのことが、今はとても大きかった。


「よいお顔になられましたね」


レオナールが静かに言った。


マリアンヌは頷いた。


「ええ」


「フェリクスは、まだ若い」


「はい」


「急かすなとは言ってあります」


「存じております」


「それでも、足りなければ言ってください。私からさらに言い聞かせます」


マリアンヌは少しだけ彼を見た。


「九年待った方が、それを仰るのですか」


レオナールは黙った。


マリアンヌは、ほんのわずかに目を細める。


「冗談です」


「……貴女の冗談は、時折よく刺さります」


二人の間に、短い沈黙が落ちた。


それは気まずいものではなかった。


通りの向こうでは、鳥笛がまた鳴っている。


やがて、レオナールは少し歩調を緩めた。


「ベルティーユ女史」


「はい」


「この先に、古い橋があります。夏至祭の日には、鳥が塔へ戻るのをよく見られる場所です」


「一刻半の範囲内ですか」


「範囲内です」


「書類は」


「赤紐だけです」


「……では」


マリアンヌは、手の中の銀梟の飾り布を見た。


「参りましょう」


古い橋は、水路の上に架かっていた。


広い橋ではない。

だが欄干には、色とりどりの布が結ばれている。

風が吹くたびに、それらがいっせいに揺れた。


橋の上からは、王都の塔がよく見えた。


高い鐘楼。

白い壁。

夏至の飾り布。

その上を、鳥たちが旋回している。


赤い鳥。

青い鳥。

白い鳥。

黄色い鳥。


一羽ずつ、塔の近くへ戻っていく。


夕方にはまだ早い。

けれど、昼の長さが少しずつ傾き始める時間だった。


マリアンヌは、橋の上で空を見上げた。


鳥の影が、顔の上を過ぎる。


レオナールは隣に立っている。


近すぎない。

遠すぎない。


彼は、彼女にこの景色を見せるために部門を作った。


書記を集め、会計を置き、通信を分け、赤紐の分類まで決めた。


仕事を奪うのではなく。

仕事を軽んじるのでもなく。

仕事を言い訳に逃げる余地を、仕事で塞いできた。


マリアンヌは、空を見たまま言った。


「殿下」


「はい」


「この祭りを見せてくださったこと、感謝いたします」


レオナールは、しばらく答えなかった。


やがて、静かに言う。


「礼を言うのは、こちらです」


「私は何も」


「貴女はよく、そう仰る」


鳥が、一羽、橋のすぐ上を飛んだ。


白い羽が光を受ける。


「書類を送っただけだと」


レオナールは続けた。


「帳簿を直しただけだと。人を配置しただけだと。ですが、それで生き延びた者がいます」


マリアンヌは、唇を引き結んだ。


「それが私の仕事です」


「はい」


彼は頷いた。


「ですから今日は、その仕事が人の暮らしになったところを見ていただきたかった」


風が吹く。


マリアンヌの手の中で、銀梟の飾り布が揺れる。


「九年前」


レオナールは言った。


「この景色を、いつか貴女に見せたいと思いました」


塔の鐘が鳴る。


夏至祭の鐘だった。


高く、広く、街全体へ流れていく。


その音に合わせて、鳥たちがいっせいに空を回った。


マリアンヌは、橋の向こうの街を見る。


知らない国。

けれど、自分の仕事が少しだけ根を張っている国。


そして隣には、九年かけてその根を守る準備をしてきた男がいる。


「一刻半には、まだ少しありますか」


マリアンヌが言った。


レオナールは、わずかに目を見開いた。


それから、時計を確認する。


「はい。まだございます」


「では、もう少しだけ」


マリアンヌは空を見上げた。


「数字の外側を見ます」


レオナールは、静かに微笑んだ。


「喜んで」


鳥が、また一羽、空を横切った。


戻る場所を知っている鳥は、遠くまで飛べる。


その言葉を、マリアンヌも思い出していた。

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