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歪む把手

レティシアが戻ってきた時、様子が違っていた。


泣いている。


そう分かった瞬間、マリアンヌの中で何かが静かに切り替わった。


別邸の客間には、夕方の光が入っていた。

薄い布越しに落ちる光はやわらかい。

卓の上には、飲みかけの香草茶と、レティシアのために用意された小さな菓子皿がある。


けれど、レティシアは菓子に手をつけていなかった。


扉のところに立ち、両手を胸の前で握っている。

頬は赤い。

目は潤んでいる。

コレットが少し困った顔で、その後ろに控えていた。


「先生」


レティシアの声は震えていた。


その震えを聞いた瞬間、マリアンヌは立ち上がった。


「……フェリクス殿下に、何か」


声は静かだった。


静かすぎた。


レティシアは、慌てて首を振る。


「違うのです、先生」


「違う、とは」


「フェリクス殿下は、何も悪いことを」


マリアンヌは、すでに扉へ向かっていた。


「確認してまいります」


「先生」


「ご安心なさい。外交問題にはいたしません」


マリアンヌは扉の把手に手をかけた。


「まずは私的に」


めき、と小さな音がした。


コレットが息を呑む。


真鍮の把手が、わずかに歪んでいた。


マリアンヌは、そこで初めて自分の手元を見た。


しばらく沈黙する。


それから、何事もなかったように手を離した。


「後ほど修繕費を払います」


「先生、そうではなくて」


レティシアは涙を浮かべたまま、必死に言った。


「フェリクス殿下は、本当に何も悪くありません」


「では、なぜ泣いているのです」


「嬉しくて」


マリアンヌの動きが止まった。


「……嬉しくて」


「はい」


レティシアは、胸元を押さえた。


「嬉しいのです。嬉しいのに、怖いのです」


マリアンヌは扉の前で、しばらく立っていた。


外交的制裁。

私的制裁。

王太子教育上の再発防止計画。

フェリクス王太子殿下への確認事項。


頭の中で並びかけていた項目が、静かに消えていく。


マリアンヌは、ゆっくり振り返った。


「コレット」


「はい」


「温かいミルクを用意してきてください。蜂蜜は少しで。香辛料は入れすぎないように」


「承知いたしました」


コレットはすぐに礼を取った。


けれど、退室する前に、扉の把手をちらりと見てしまう。


マリアンヌは、何もなかった顔で言った。


「修繕は、後で手配します」


「……承知いたしました」


コレットは静かに退室した。


扉が閉まる。


部屋に、マリアンヌとレティシアだけが残った。


マリアンヌはレティシアの前まで戻る。


「座りなさい」


「はい」


「泣いている時に立っているものではありません」


レティシアは、促されるまま椅子に腰を下ろした。


マリアンヌも向かいに座る。


少しだけ、間が空いた。


「フェリクス殿下は」


「はい」


「何と」


レティシアは、膝の上で両手を握った。


「婚約を、申し込んでくださいました」


マリアンヌは、静かに頷いた。


「そうですか」


「はい」


「それで、あなたは」


「保留にしました」


「よろしい判断です」


レティシアは、驚いたように顔を上げた。


「よろしい、のですか」


「ええ。即答しなければならない話ではありません」


「でも」


そこで、また涙が落ちた。


「嬉しいんです」


声が崩れる。


「嬉しいのです、先生」


マリアンヌは、すぐには何も言わなかった。


この涙は、止めればよいものではない。

泣かないように教えるものでもない。


レティシアは、何度か息を整えた。


けれど涙は止まらなかった。


「花鳥園の奥に、小さな温室があるのです」


ぽつりと、彼女は言った。


「夏至祭の鳥が、夜はそこへ戻るのだと、フェリクス殿下が教えてくださいました」


「ええ」


「青い尾羽の鳥が、また菓子を狙っていて」


そこで、レティシアは少しだけ笑った。


涙の中で、かすかに。


「殿下は今度こそ守ると仰っていたのに、やっぱり取られてしまって」


「またですか」


「はい。またです」


レティシアは涙を拭った。


「それで、殿下がとても真面目なお顔で、鳥との交渉には改善の余地があると仰って」


マリアンヌは、少しだけ目を伏せた。


フェリクス王太子の顔が浮かぶ。


明るく、よく動く目。

けれど、礼は崩さない青年。

一目でレティシアに心を奪われ、それでも軽い言葉を飲み込んだ青年。


「それから」


レティシアは、声を小さくした。


「温室の奥で、殿下が、私に」


言葉が詰まる。


マリアンヌは待った。


急かさない。


「私を慰めたいから申し込むのではないと、仰ったのです」


レティシアは、涙を浮かべた目でマリアンヌを見る。


「王国で傷ついた私を、拾いたいのでもないと」


その言葉に、マリアンヌはわずかに息を止めた。


「私の報告書を、覚えていると。王都南区の寡婦工房も、孤児院の冬衣も、刺繍糸と賃金欄のことも」


レティシアの指が、胸元を握る。


「それから、鳥に菓子を取られて笑う私も、好ましいと」


涙が落ちる。


けれど、口元は笑っていた。


「そんなことまで仰るのです。先生。私、どうしたらよいのでしょう」


マリアンヌは、黙って聞いていた。


レティシアは、言葉をたどるように続ける。


「殿下は、私に王太子妃としてすぐ隣に立ってほしいのではない、と仰いました」


「ええ」


「私が怖いなら、怖いままでいいと」


マリアンヌの指が、ほんの少しだけ動いた。


「返事は急がない。断っても、私の居場所も、安全も、敬意も変わらないと」


レティシアは、もう一度涙を拭う。


「それなのに」


「ええ」


「それなのに、私」


声が震えた。


「嬉しかったのです」


その一言で、涙がまたこぼれた。


「嬉しかったのです、先生」


マリアンヌは、ゆっくり息を吐いた。


「そうですか」


「はい」


「よい申し込みでしたね」


「はい」


レティシアは、泣きながら頷いた。


「とても、素敵なプロポーズでした」


その顔は、婚約破棄された夜のものではなかった。


あの時のレティシアは、自分が壊れないように立っていた。

震えを押し殺し、涙を飲み込んで、礼だけを守っていた。


いま目の前にいる彼女は、泣いている。


けれど、壊れていない。


嬉しいから泣いている。

怖いから泣いている。

どちらも本当だから、泣いている。


「でも、怖いのです」


レティシアは言った。


「また王太子殿下です」


「ええ」


「また、王家です」


「ええ」


「また、誰かの隣に立つことになります」


マリアンヌは頷く。


否定しない。


「今度こそ失敗したら、私は」


「失敗したのは、貴女ではありません」


マリアンヌは、はっきりと言った。


レティシアの言葉が止まる。


「何度でも言います。失敗したのは、貴女ではありません」


「でも」


「ええ。怖いでしょう」


マリアンヌは、静かに続けた。


「嬉しいのに怖い。怖いのに嬉しい。どちらも本当です」


レティシアは、泣きながら頷いた。


「本当、です」


「ええ」


「私、フェリクス殿下のところへ行きたいと思ってしまうのです」


「ええ」


「それが、怖いのです」


「ええ」


マリアンヌは、少しだけ腕を迷わせた。


どう抱きしめればよいのか、正しい作法など知らなかった。


王太子妃候補の背筋を直す方法なら知っている。

泣きそうな目元を隠す角度も。

毒杯を避ける手順も。

席次の火種を消す言葉も。


だが、嬉しくて泣く娘を抱きしめる作法など、どの教本にもなかった。


それでも、今は必要だった。


マリアンヌは立ち上がり、レティシアのそばへ行く。


そして、そっと抱きしめた。


レティシアの肩が震える。


「私の教え子を泣かせた件については、あとで請求いたします」


レティシアが、泣きながら小さく笑った。


「先生……フェリクス殿下は、悪くありません」


「泣かせた事実は残ります」


「嬉しくて泣いているのに」


「なおさら高くつきます」


「そんな」


「高額です」


レティシアは、マリアンヌの肩に額を寄せた。


「先生」


「はい」


「私、嬉しいのです」


「ええ」


「でも、怖いのです」


「ええ」


マリアンヌは、静かに背を撫でた。


「怖いままで、よろしいのです」


レティシアは、しばらく泣いた。


声を殺す必要はなかった。

目元を隠す必要もなかった。

涙の量を気にする必要もなかった。


ここは王宮ではない。


泣いたことで評価が落ちる場所ではない。


ようやく涙が落ち着いたころ、扉が控えめに叩かれた。


コレットが、温かいミルクを盆に乗せて戻ってくる。


「失礼いたします」


「ありがとう、コレット」


レティシアは少し恥ずかしそうに顔を上げた。


「目元を冷やす布もお持ちしました」


「助かります」


コレットは、歪んだ把手を見ないようにしている。

見ないようにしすぎて、かえって見ている。


マリアンヌは、何も言わなかった。


コレットはミルクを卓に置き、静かに下がろうとする。


「コレット」


「はい」


「しばらく、誰も通さないように」


「承知いたしました」


今度こそ、コレットは部屋を出た。


温かいミルクには、蜂蜜が少しだけ入っていた。

香辛料は控えめで、湯気がやわらかく立っている。


レティシアは両手で器を包んだ。


「子どものようです」


「泣いたあとは、温かいものを飲む方がよいのです」


「先生も、泣いたあとは?」


「私は泣きません」


「先生」


「訂正します」


マリアンヌは静かに言った。


「私は、泣いたあとの作法を学ぶ機会が少なかったのです」


レティシアは器の縁を見つめた。


それから、小さく言う。


「では、一緒に覚えましょう」


マリアンヌは少し黙った。


「……ええ」


レティシアはミルクを一口飲んだ。


甘すぎない。

けれど、喉を通る時に胸が少し温かくなる。


涙が落ち着いたのを見て、マリアンヌは立ち上がった。


小さな机の引き出しから、黒い革張りの箱を取り出す。


「レティシア」


「はい」


「こちらへ」


レティシアは不思議そうに顔を上げた。


マリアンヌは箱を卓の上へ置く。


「貴女に」


「私に?」


「ええ」


レティシアは、そっと箱を開けた。


中には、細い金の鎖と、淡い青石のついたネックレスが入っていた。


派手ではない。


だが、石の澄み方と細工の細かさで、ただの装飾品ではないと分かる。

青石は、朝の空を少しだけ閉じ込めたような色をしていた。


レティシアは息を呑んだ。


「いただけません。こんな高価なもの」


「受け取りなさい」


マリアンヌの声は静かだった。


「これは、貴女のものです」


「ですが」


「装飾品として身につけてもよろしい。必要であれば、売ってもよろしい」


レティシアは、思わず顔を上げる。


「売る?」


「ええ」


マリアンヌは当然のように答えた。


「どこへ行っても、当面暮らせる額にはなります」


レティシアは言葉を失った。


胸の奥が、また熱くなる。


祝福。

支度。

装飾品。

嫁入り道具。


そういうものなら、分かる。


だが、マリアンヌが渡そうとしているのは、それだけではなかった。


逃げ道だった。


「先生」


「愛も誓いも大切です」


マリアンヌは、ネックレスを取り上げた。


「ですが、逃げ道も同じくらい大切です」


レティシアは、何も言えなかった。


マリアンヌは彼女の後ろへ回り、そっと鎖を首にかける。


細い金の鎖が、肌に触れた。

青石が、胸元で静かに収まる。


「冷たくありませんか」


「大丈夫です」


「重くは」


「いいえ」


マリアンヌは留め具を確かめた。


「王太子妃になるためではありません」


レティシアは、鏡の中の自分を見る。


泣いた後で、目元は少し赤い。

けれど、胸元の青石は静かに光っていた。


「誰かの妻になるためでもありません」


マリアンヌは、鏡越しにレティシアを見る。


「貴女が、貴女の心の向くままに進むためのお守りです」


レティシアの唇が震えた。


「私の心で、選んでよいのですか」


「ええ」


マリアンヌは頷いた。


「王国のためでも、オルディスのためでも、アルベルティーヌ家のためでも、私のためでもありません」


少しだけ、間を置く。


「貴女の、心の向くままにしたらよろしいのです」


レティシアは鏡の中の自分を見た。


王宮の青ではないドレス。

強く結い上げていない髪。

泣いた後の目元。

胸元の青石。


そこにいるのは、王太子妃候補ではなかった。


婚約破棄された令嬢でもない。


レティシア・フォン・アルベルティーヌだった。


「ようやく、そのための場所まで来たのです」


マリアンヌは言った。


レティシアは、胸元の石にそっと触れる。


「先生」


「はい」


「私は、フェリクス殿下に、お返事をしたいです」


「ええ」


「まだ怖いです」


「ええ」


「でも、嬉しいのです」


「ええ」


「この嬉しさを、なかったことにしたくありません」


マリアンヌは、静かに微笑んだ。


「よろしい」


その一言で、レティシアは少しだけ笑った。


まだ涙のあとが残る顔で。


けれど、はっきりと。


「行ってまいります」


「ええ」


マリアンヌは、レティシアの肩に手を置いた。


「背筋を伸ばして」


レティシアは少しだけ首を傾げる。


「王太子妃候補として?」


「いいえ」


マリアンヌは答えた。


「レティシア・フォン・アルベルティーヌとして」


レティシアは、胸元の青石に一度だけ触れた。


それから、深く頷く。


「はい」


扉の外で、コレットが待っていた。


目元を冷やす布と、薄い外套を持っている。


レティシアが出てくると、コレットは一瞬だけ目を見開いた。

泣いたあと。

けれど、どこかすっきりした顔。

胸元には、見たことのない青石。


「コレット」


「はい」


「フェリクス殿下のところへ参ります」


コレットは、すぐに礼を取った。


「承知いたしました」


二人が廊下へ出る。


マリアンヌは、部屋の中からその背を見送った。


レティシアの歩幅は、以前より少しだけ大きくなっていた。


王宮で叩き込まれた歩き方ではない。

誰かの隣へ、自分の意思で向かう歩き方だった。


扉が閉まる。


部屋に一人残ったマリアンヌは、しばらく立っていた。


卓の上には、温かいミルクの器が残っている。

蜂蜜の香りが、まだ少し漂っていた。


彼女は、歪んだ扉の把手を見る。


それから、静かに息を吐いた。


「……修繕費に加えて」


小さく呟く。


「請求額は、少し上乗せですね」


その声は、怒っているようで。


どこか、笑っているようでもあった。

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