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11/14

夜明けの布

夏至祭は、七日間続く。


王都の中心は、連日明るかった。


鳥が飛び、布飾りが揺れ、子どもたちの鳥笛が鳴る。

水路には花びらが流れ、市場には果物と蜂蜜菓子が積まれた。

昼は長く、夜は短い。

人々はその短い夜さえ惜しむように、灯りを消さなかった。


その祭りも、最終日を迎えていた。


夜明け前。


まだ空に紺色が残る時刻、マリアンヌは迎賓館の玄関へ下りた。


廊下には人影が少ない。

夜勤の侍従が一人、控えめに礼を取っただけだった。


外には、レオナールが待っていた。


濃紺の外套。

銀縁の眼鏡。

いつもの書類箱はない。


それだけで、少し奇妙に見えた。


「お早うございます、ベルティーユ女史」


「お早うございます、殿下」


海からの風が、玄関先まで届いていた。


塩の匂いがする。


「このような時刻に呼び出す理由は、やはり仕事ではございませんね」


「仕事の前です」


レオナールは静かに答えた。


「夏至祭の終わりを、見ていただきたい場所があります」


「夜明けが綺麗だと、昨日は仰いましたね」


マリアンヌは少しだけ目を伏せる。


「では、参りましょう」


馬車は使わなかった。


北の浜までは、迎賓館の裏手から緩い坂を下りていけばよいという。


石段を降りるたび、海の音が近づいた。

王都の祭りのざわめきは遠い。

時折、眠り残った街のどこかで、鈴の音が鳴る。


道の脇には、夏至の布飾りがまだ揺れていた。


夜露を含んだ布は、昼間より重たげに見える。

赤も、青も、黄色も、まだ薄暗い中では色を沈めている。


だが、東の空だけが少しずつ白み始めていた。


北の浜には、まだ夜が残っていた。


砂は冷たい。

波は低く、寄せては消える。

暗い海の上で、カモメが一羽鳴いた。


浜には、枝を組んで建てた細い飾り柱が点々と並んでいた。


赤い布。

白い布。

青い布。

黄色い布。


枝と枝を結ぶ紐には、小さな貝殻や鈴がついている。

潮風が吹くたびに、かすかに鳴った。


人影はほとんどない。


遠くに、灯りを持った老夫婦が一組いるだけだった。

二人は布飾りの前で短く祈り、ゆっくり浜を離れていく。


マリアンヌは足を止めた。


「静かな場所ですね」


「南の浜は、人が多いのです。王都の者はそちらへ行きます」


レオナールは、少し先を歩きながら言った。


「北の浜は、古い習わしを残した者たちが来る場所です」


「古い習わし」


「冬を越した家が、夏至の終わりに布を立てます。亡くした者のために。生き残った者のために。次の一年、帰る場所を失わないように」


風が、布を揺らした。


白い布の端が、夜明け前の空に淡く浮かぶ。


マリアンヌは、しばらくその布を見ていた。


「帰る場所」


「はい」


レオナールは頷いた。


「鳥だけではありません。人も、戻る場所があるから遠くへ行ける」


その言葉に、マリアンヌは返事をしなかった。


二人は浜を歩いた。


砂に靴跡が残る。

次の波が来れば消えるほど、浅い跡だった。


カモメがまた鳴いた。


遠く、水平線が少しずつ明るくなる。


「昨日から」


レオナールが静かに言った。


「フェリクスが浮かれっぱなしで困っています」


マリアンヌは、横顔を見た。


彼の声は困っているようで、そうでもなかった。


「よいことではありませんか」


「王太子としては、もう少し落ち着いてほしいところです」


「レティシアも、昨夜はよく眠れたようです」


「それは何よりです」


レオナールの声が、少しやわらいだ。


マリアンヌは、浜に立つ布飾りへ視線を戻す。


昨日のレティシアの顔が、まだ目に残っていた。


泣いたあと。

胸元に青石をつけて。

それでも、自分で歩いていった背中。


あの子は、自分で返事をした。


誰かの命令でも、家のためでも、王国のためでもなく。


自分の心の向くままに。


「……幼くして、母を亡くした子でした」


マリアンヌは、ぽつりと言った。


波の音が、その言葉を少しだけさらっていく。


レオナールは何も言わなかった。


ただ、隣を歩く速度を少し緩めた。


「初めて会った時、あの子は泣きませんでした」


「泣かなかったのですか」


「ええ」


マリアンヌは頷いた。


「泣かないように、もう覚えてしまっていました」


まだ幼い娘だった。


小さな手。

細い肩。

礼だけは、教本の挿絵のように正しかった。


王太子妃候補として紹介された時、周囲の大人たちは彼女を褒めた。


利発だ。

落ち着いている。

将来が楽しみだ。


だが、マリアンヌには違って見えた。


落ち着いているのではない。


落ち着かざるを得ない場所に、立たされているだけだった。


「泣く場所を、知らない子でした」


マリアンヌは言った。


「母を亡くして、王宮へ入って、王太子妃候補として見られて。あの子は、幼いまま幼さをしまい込んでいました」


レオナールは、波の方を見ている。


何も急がせない。


「私は礼を教えました。言葉を教えました。視線の置き方も、沈黙の守り方も、敵意を受け流す方法も」


そこで、一度言葉を切る。


「毒杯を避ける方法も」


潮風が、外套の裾を揺らした。


「ですが、休むことを教えられませんでした」


レオナールは、少しだけ彼女を見た。


「それで、あの方は生き延びました」


「ええ」


「貴女の教育は、彼女を守った」


「分かっております」


マリアンヌは静かに答えた。


「それでも、足りなかったことも分かっています」


しばらく、波の音だけが続いた。


マリアンヌは、夜明け前の海を見た。


「昨日、あの子は泣きました」


「はい」


「嬉しくて、怖くて、泣いていました」


「はい」


「その時、私はようやく、少し安心したのです」


彼女は、自分の言葉を確かめるように続ける。


「泣けるようになったのだと」


レオナールは、静かに頷いた。


「あの子は、フェリクス殿下の元へ行くのでしょう」


「彼女が望むなら」


「ええ。望んでいました」


マリアンヌは、ほんの少し目を細めた。


「嬉しそうでした」


それは、よいことだった。


間違いなく。


けれど、胸の奥に残るものがある。


鋭い痛みではない。

後悔でもない。

もっと静かで、名前のつけにくいもの。


「嬉しいのです」


マリアンヌは言った。


「ええ」


「本当に、嬉しいのです。あの子が自分で選びました。自分の心で、行きたい場所を選んだ」


「はい」


「それなのに、少し」


言葉が止まる。


潮風が通る。


枝に結ばれた貝殻が、小さく鳴った。


「少し、寂しいのですね」


レオナールが、静かに言った。


マリアンヌはすぐには答えなかった。


否定しようと思えばできた。


自分は母ではない。

ただの家庭教師だ。

役目を終えたことを寂しがるなど、筋が違う。


そう言葉を整えることはできた。


けれど、レオナールはそれを求めていなかった。


マリアンヌは、海を見たまま言った。


「……そう、なのかもしれません」


初めて認めた気がした。


自分が、あの子を娘のように思っていたことを。


レオナールは、何も笑わなかった。


何も慰めなかった。


ただ、そばにいた。


「寂しいと思えるほど、育てられたのですね」


マリアンヌは目を伏せた。


「私は、母ではありません」


「はい」


「ただの家庭教師です」


「ただの家庭教師は」


レオナールは、少しだけ声をやわらげた。


「婚約の返事に泣く娘へ、逃げ道になる宝石を渡したりはしません」


マリアンヌは足を止めた。


「ご存じでしたか」


「コレット嬢が、青石がよくお似合いだったと」


「余計な報告です」


「よい報告でした」


彼の声には、静かな笑みが含まれていた。


マリアンヌは、言い返せなかった。


波が足元近くまで来て、また戻っていく。


「夏至祭の最終日」


レオナールは、浜に並ぶ布飾りを見た。


「この浜では、冬を越した家が布を立てます」


「ええ」


「あの飢饉の翌年、この浜に布が戻りました」


マリアンヌは彼を見る。


「戻った、とは」


「布を立てる余力が戻ったのです」


レオナールは静かに言った。


「あの年、北部から避難してきた者たちも、この浜に布を立てました。亡くした者のために。生き残った者のために。次の年、もう一度帰る場所を作るために」


布飾りが、潮風に揺れる。


赤。

白。

青。

黄色。


夜明け前の薄暗さの中で、色はまだ沈んでいる。


だが、そこに確かにある。


「貴女に見ていただきたかったのは、夏至祭の始まりだけではありません」


レオナールは言った。


「終わりも、です」


「終わり」


「人は祝ったあと、また暮らしに戻ります。その戻る場所を守ったのが、貴女の仕事です」


マリアンヌは、しばらく言葉を失った。


書類の中には、戻る場所など書かれていない。


そこにあるのは、物資。

日付。

人員。

数量。

責任者。

不正を防ぐための項目。

配給を遅らせないための様式。


けれど、その向こう側に、この布がある。


朝を待つ浜がある。


冬を越して、もう一度布を立てた人がいる。


マリアンヌは、胸元で手を握った。


「私は」


声が少しだけ低くなる。


「できることを、しただけです」


「はい」


レオナールは頷いた。


「そのできることを、必要な時に、必要な形でできる人は多くありません」


水平線が、白くほどけ始めている。


彼は、そこで立ち止まった。


浜の北端に、ひときわ古い飾り柱があった。


流木を組み、白い布を結んだものだ。

貝殻の飾りは少なく、ほとんど何もついていない。


だが、布は丁寧に結ばれていた。


「九年前」


レオナールは言った。


「私は会議場で貴女に求婚しました」


マリアンヌは、静かに息を吸った。


「ええ」


「あれは、よい場所ではありませんでした」


「実務家には十分な場所でした」


「私には足りませんでした」


その言い方があまりに真面目で、マリアンヌは少しだけ彼を見る。


レオナールの視線は、海の向こうへ向いていた。


「冷めた茶と、修正された席次表と、疲れた書記しかありませんでした」


「それで十分に整っております」


「貴女なら、そう仰ると思いました」


彼は、ようやく彼女を見た。


「ですから、次に申し上げる時は、貴女が救ったものの前で、と決めていました」


風が吹いた。


白い布が、夜明け前の光を受けて淡く揺れる。


マリアンヌは、何も言わなかった。


だが、逃げもしなかった。


レオナールは、ゆっくりと向き直る。


「マリアンヌ・ド・ベルティーユ女史」


「はい」


「貴女の仕事を終わらせたいのではありません」


彼の声は、静かだった。


波の音に紛れないほど、はっきりしていた。


「貴女が見つける次の綻びを、隣で支えたい」


マリアンヌは、彼を見る。


「貴女を私の国に閉じ込めたいのでもありません」


レオナールは続けた。


「貴女がどこへでも行けるよう、戻る場所を共に作りたい」


カモメが鳴いた。


遠くで、空がまた少し明るくなる。


「私の伴侶になっていただけませんか」


言葉は、派手ではなかった。


けれど、九年分の時間がそこにあった。


待つと言った日の朝。

断られた理由。

減らすと告げた理由。

用意された条項。

作られた部門。

見せたかった祭り。

この夜明け前の浜。


すべてが、その一言の後ろに立っていた。


マリアンヌは、すぐには答えなかった。


代わりに、ゆっくりと口を開く。


「銀梟は」


「中立を保証します」


即答だった。


「各国理事会の設置も、財産分離も、婚姻による権限移転の禁止も、すでに草案を最終版に移しています」


「レティシアは」


「彼女自身の望む道を選べるよう支えます」


「私の仕事は」


「終わらせません」


「王国は」


「必要な手続きは進めます。貴女が戻らずに済む形で」


「私が、また誰かを拾ったら」


レオナールは、ほんの少しだけ間を置いた。


「部屋を増やします」


マリアンヌは、そこで初めて少しだけ目を伏せた。


笑ったわけではない。


けれど、何かがほどけた。


「殿下は、私を甘やかしすぎです」


「九年待ちましたので」


「それは理由になりますか」


「私にとっては」


マリアンヌは、白い布飾りを見た。


潮風に揺れる布。

夜明けを待つ海。

遠くに残るカモメの声。


昨日、自分はレティシアに言った。


貴女の、心の向くままにしたらよろしいのです。


その言葉が、今度は自分の前に戻ってきていた。


自分の心はどこへ向くのか。


国のためでもない。

銀梟のためでもない。

誰かを守るためだけでもない。


自分自身は、どこへ行きたいのか。


マリアンヌは、長く息を吐いた。


「私は昨日、あの子に言いました」


「はい」


「心の向くままにしたらよい、と」


「はい」


「言ったからには、私もそうするべきなのでしょうね」


レオナールは、何も急かさなかった。


答えを待つ。


九年前と同じように。


けれど、今度は彼女が断る理由を、彼はひとつずつ取り除いてきた。


マリアンヌは彼を見た。


「では、私の仕事ごと」


「はい」


「私の教え子ごと」


「はい」


「私の面倒なところごと」


「九年前から、存じています」


その答えがあまりに穏やかで、マリアンヌは少しだけ目を閉じた。


それから、はっきりと言った。


「……お受けいたします」


レオナールの表情が変わった。


大きく笑うわけではない。

声を上げるわけでもない。


ただ、眼鏡の奥の目が、長い緊張から解かれたようにやわらぐ。


彼は、深く息を吸った。


それから、ひどく慎重に吐いた。


まるで、胸の内側にあるものを、そのまま外へ出してしまわないように。


「……ありがとうございます」


低い声だった。


ほんの少しだけ、掠れていた。


マリアンヌが顔を上げる。


「殿下?」


返事はなかった。


次の瞬間、レオナールの腕が、そっと彼女の背に回った。


強くはない。


逃げようと思えば逃げられるほどの力だった。

けれど、抱きしめる腕は確かだった。


マリアンヌは、動かなかった。


彼の外套から、潮風と、かすかな香木の匂いがした。


波の音が近い。


カモメが鳴く。


白い布が、朝日に淡く光っている。


「一つだけ」


レオナールは言った。


「悔いていることがあります」


マリアンヌは、彼の胸元に手を置いたまま尋ねる。


「何でしょう」


「九年間、貴女の隣に立てなかったことです」


その声は静かだった。


けれど、痛いほど真剣だった。


「貴女が多くのものを支え、育て、守っている間、私は遠くから書類を送り、条項を整え、待つことしかできませんでした」


「それで十分すぎるほどでした」


「私には、足りませんでした」


レオナールの腕に、ほんの少しだけ力が入る。


「これからは、隣に立たせてください」


マリアンヌは、返事をしなかった。


言葉の代わりに、彼の外套をそっと握った。


それは、拒絶ではなかった。


レオナールは、息を吐く。


長い年月の緊張が、ようやく解けるような息だった。


「……九年は、長かった」


その一言だけ、少しだけ少年のようだった。


マリアンヌは、胸元で小さく笑った。


「お待たせいたしました」


「はい」


レオナールは、彼女を大事そうに抱きしめたまま答えた。


「本当に」


東の空が、いよいよ明るくなる。


沈んでいた赤が、赤に戻る。

青が青に戻る。

黄色が、朝の中で明るく浮かぶ。

白い布が、まぶしいほど淡く光った。


波が、静かに寄せて返す。


マリアンヌは、彼の腕の中で夜明けを見ていた。


それは、誰かの家に入る朝ではなかった。


仕事を終える朝でもない。


同じ地図を見る人の隣に立つ、最初の朝だった。

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