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12/14

祝砲は封書にて

夜明けの浜から戻る頃には、王都の空は明るくなっていた。


夏至祭の最後の朝だった。


海からの風はまだ冷たい。

けれど、街の方ではすでに鳥笛が鳴りはじめている。

布飾りは朝日に照らされ、赤は赤に、青は青に、白は白に戻っていた。


迎賓館の門前で、レオナールは一度だけ足を止めた。


マリアンヌも、それに倣う。


二人の間に、先ほどまでの浜の静けさが少しだけ残っていた。


けれど、館の中ではもう人が動き始めている。

外務官。

書記。

通信係。

銀梟移転補助室の者たち。


夏至祭の朝にしては、足音が多い。


マリアンヌは、その音を聞いて目を伏せた。


「予定通りですね」


「はい」


レオナールは答えた。


声は穏やかだった。


だが、その奥にあるものは穏やかではない。


「始めてください」


彼が言うと、控えていた側近が深く礼を取った。


「承知いたしました」


それだけだった。


怒号もない。

鐘も鳴らない。

剣も抜かれない。


ただ、扉の向こうで、人が動いた。


机の上に置かれていた封書が持ち上げられる。

封蝋が確かめられる。

宛名が読み上げられる。

通信鳥の脚環に、細く丸められた写しが結ばれる。


銀の梟。

オルディスの王冠。

ヴィルヘルムの緋扇。

アルベルティーヌの黒銀鷲。


それぞれの印が、朝の光を受けて鈍く光った。


マリアンヌは、その光景を静かに見ていた。


「祝砲のようですね」


「フェリクスは、そう言っていました」


レオナールは少しだけ目を伏せた。


「昨夜から、何度も」


「殿下は浮かれすぎです」


「ええ」


「王太子としては」


「ええ」


「ですが、気持ちは分からなくもありません」


マリアンヌは、卓上の封書へ視線を落とした。


「レティシアの名誉回復ですから」


レオナールは彼女を見る。


「貴女の名誉回復でもあります」


「私のことは」


「後回しにしないでください」


静かな声だった。


マリアンヌは返事を止めた。


昨日までなら、別の言葉で流していた。

自分のことはよい。

レティシアを先に。

銀梟を先に。


そう言っていた。


けれど、今はその言葉が少しだけ使いにくい。


夜明けの浜で、彼に手を取ったばかりだった。


「……では」


マリアンヌは一枚の書類を手に取った。


「私の分も、予定通りに」


「はい」


レオナールは、わずかに微笑んだ。


「王宮にとっては、少し騒がしい朝になるでしょう」


「正しい請求と正しい照会です」


マリアンヌは淡々と言った。


「痛いかどうかは、王宮のこれまで次第です」


側近たちの手が止まらず動く。


銀梟教育基金から、王宮慈善局への派遣停止正式通知。

王太子妃教育課程の契約終了確認。

未払い業務と契約外対応の精算請求。

名誉毀損に関する説明要求。


銀梟通商社から、外交関連物資の優先納入停止。

今後の取引条件見直し。

前払い制への移行。

監査義務の付加。


アルベルティーヌ侯爵家から、婚約破棄の正式根拠開示請求。

レティシア・フォン・アルベルティーヌの名誉回復要求。

慰謝料と損害賠償の予告。


ヴィルヘルム公国から、レティシアの保護に関する正当性通知。

召還要求拒否の事前通告。

アデレード大公妃後見下における安全確保の確認。


オルディス王国から、正式抗議。

レティシア・フォン・アルベルティーヌ嬢の実務能力と品格を評価する声明。

王太子フェリクス・オルディスによる婚約申込の事実通知。

マリアンヌ・ド・ベルティーユ女史への公的侮辱に関する説明要求。


さらに、東方三国。

北方公国。

西海都市同盟。

王立女子実務学院。

慈善組織連合。


文面はすべて丁寧だった。


丁寧すぎるほどに。


だからこそ、逃げ場がなかった。


通信鳥が飛び立つ。


一羽。

二羽。

三羽。


銀の脚環をつけた鳥たちが、夏至祭の空へ消えていく。


祝砲は鳴らなかった。


けれど、その朝、音のない砲火は確かに放たれた。



王国の朝は、曇っていた。


王都には湿った風が吹いている。

石畳はまだ乾ききらず、王宮の白い壁も鈍く沈んで見えた。


王宮の書記室に、最初の鳥が着いたのは朝食前だった。


銀の脚環をつけた通信鳥である。


当番の書記は、脚環を見て眉をひそめた。


「銀梟からです」


その声に、室内の者たちが振り返る。


ここ数日、銀梟の名は王宮で不吉な響きを持っていた。


書記は鳥から文書を外し、封蝋を確かめた。


銀の梟。


正式印だった。


「宰相閣下へ」


「すぐに」


その文書が運ばれる前に、二羽目が来た。


今度はオルディス王国の印。


続いて、ヴィルヘルム公国。

アルベルティーヌ侯爵家。

東方三国。

北方公国。


門からも使者が入った。


一人ではない。


次々と。


書記室の机に、封書が積み上がっていく。


若い書記官が、青ざめた顔で言った。


「これは、同じ日に?」


年配の書記官が封蝋を見た。


「同じ日に、ではない」


「では」


「同じ時刻に届くよう、手配されている」


その意味を理解した者から、黙っていった。


これは偶然ではない。


怒りに任せた抗議でもない。


準備された包囲だった。



国王は、朝食を取らなかった。


取れる状況ではなかった。


執務室には、封書が並べられている。


宰相。

外務卿。

宮内長官。

慈善局長。

侍女長。

老女官。


そして王太子エドガルドがいた。


エドガルドは、昨夜からほとんど眠れていない顔をしていた。

だが、目にはまだ怒りが残っている。


「今度は何です」


その声は苛立っていた。


国王は答えない。


宰相が、一通目を開いた。


「銀梟教育基金より、王宮慈善局への派遣停止を正式化する通知でございます」


慈善局長が、椅子の背を掴んだ。


「正式化……?」


「はい。現在までの一時停止を、契約上の停止措置へ移行すると」


「理由は」


宰相は文面へ目を落とす。


「基金理事長に対する公的侮辱、および王宮側による契約外業務の常態化。加えて、王太子妃教育課程の終了に伴う関連業務の停止」


王太子の顔が歪んだ。


「大げさな」


老女官が、そっと目を伏せた。


誰も同意しない。


宰相は次の封書を取った。


「銀梟通商社より、外交関連物資の優先納入停止。今後は前払い、監査義務つき契約のみ受付」


外務卿が額を押さえた。


「外交書簡用紙、儀礼封蝋、写本紙、贈答目録紙。すべてか」


「すべてです」


「今月の東方三国向け返書は」


「不足します」


沈黙が落ちた。


次に、アルベルティーヌ侯爵家。


黒銀の鷲の封蝋が破られる。


宰相は文面を読み、わずかに眉を動かした。


「婚約破棄の正式根拠、証拠、手続き記録の開示請求。レティシア・フォン・アルベルティーヌ嬢の名誉回復要求。損害賠償および慰謝料請求の予告」


国王は目を閉じた。


エドガルドが机を叩いた。


「私は婚約を破棄した。王太子である私の判断だ」


「ですので、その判断の根拠を示せと申しております」


宰相の声は冷たかった。


「根拠など」


「なければ、問題になります」


「エミリアが」


その名が出た瞬間、老女官が静かに顔を上げた。


エドガルドは言葉を続けられなかった。


エミリア・ロゼット子爵令嬢は、今も別室で王太子妃教育の基礎確認を受けている。

昨日の時点で、王国十二侯爵家の家名も半分以上を誤っていた。


エドガルドは、それを思い出して唇を噛む。


次に開かれたのは、ヴィルヘルム公国の封書だった。


緋扇の封蝋。


「レティシア嬢は、アデレード大公妃殿下の後見下にて保護。王国側からの召還要求は、本人の意思確認および後見人同席なしには受け付けない」


国王が、ゆっくりと息を吐いた。


「召還要求を先に封じてきたか」


「はい」


外務卿は青い顔で頷いた。


「こちらが動く前に」


「動くと思われていたのだ」


国王の声は苦かった。


そして、オルディス王国。


王冠の封蝋。


その封書だけは、厚かった。


宰相は開き、文面を追った。


読み進めるうちに、室内の空気が変わる。


「何だ」


エドガルドが言った。


「何が書いてある」


宰相は、顔を上げた。


「オルディス王国王太子フェリクス殿下が、レティシア・フォン・アルベルティーヌ嬢へ正式に婚約を申し込まれました」


部屋が凍った。


エドガルドは、初め意味が分からない顔をした。


「誰に」


「レティシア嬢に」


「なぜ」


国王は、息を止めた。


宰相は文書を読み上げる。


「同嬢の王太子妃教育課程における成績、王妃慈善局実習記録、王都南区寡婦工房の再建記録、孤児院冬衣配分記録、外交儀礼評価を確認し、その品格と実務能力を高く評価するものとする」


ひとつひとつの単語が、石のように落ちた。


エドガルドは唇を震わせた。


「そんなもの」


「殿下」


宰相は静かに言った。


「これは、他国王太子による正式な評価です」


「私が捨てた女を」


国王が、机を叩いた。


「お前が捨てたのだ」


エドガルドは黙る。


国王の声は低かった。


「公衆の面前で、婚約を破棄した。王太子妃にふさわしくないと示した。退去させた。そうして捨てた娘を、オルディス王太子が正式に求めた」


「父上」


「その意味が分かるか」


エドガルドは答えない。


国王は、宰相へ目を向けた。


「続けろ」


宰相は次の頁をめくる。


「さらに、オルディス王国は、マリアンヌ・ド・ベルティーユ女史への公的侮辱について、王国の正式見解を求めています」


エドガルドは視線を逸らした。


あの言葉。


婚期も逃した石女を、誰が雇ってやっていたと思っている。


一晩で何度も聞いた。

誰かが言い直すたび、王宮の者たちは黙った。


だが、いまやそれは王宮の廊下ではなく、他国の封書の中にある。


公的侮辱。


その四文字に変わっていた。


外務卿が、震える手で別の文書を差し出した。


「陛下。東方三国からも連名で」


国王はそれを見た。


九年前の席次調停への言及がある。


マリアンヌ・ド・ベルティーユ女史により、三国間の儀礼衝突が回避されたこと。

その功績を有する人物への侮辱について、王国の儀礼観を問うこと。


北方公国は、穀物協定の再審査を通知している。


慈善信用に重大な懸念。


西海都市同盟は、孤児船救出時の銀梟協力記録を添えて、今後の婦人慈善会窓口の見直しを求めていた。


どれも、丁寧だった。


丁寧に、王国の首を絞めていた。


「陛下」


宰相が静かに言った。


「これは抗議ではありません」


国王は顔を上げる。


「では何だ」


「処理です」


誰も、すぐには言葉を出せなかった。


「すでに各国は、王国を説得する段階を終えております。証言を集め、契約を見直し、保証を整えたうえで、本日一斉に通知してきた」


宰相は、机の上の封書を見る。


「許すかどうかではなく、どう処理するかを通告しているのです」


エドガルドは、初めて青ざめた。


「そんなことが、許されるのか」


「許されるかどうかを問う立場に、こちらがおりません」


外務卿の声は疲れていた。


「理由を作ったのは、王宮です」


その時、扉の外から小さな物音がした。


控えていた侍従が戸惑う。


「エミリア様が」


国王は目を閉じた。


「入れ」


入ってきたエミリアは、顔色が悪かった。


華やかなドレスを着ている。

だが、その目は赤い。


手には、教育室で渡されたらしい家系図の写しを握っていた。


「陛下……殿下」


エドガルドはすぐに彼女へ歩み寄った。


「エミリア、大丈夫だ。君は悪くない」


エミリアは、その言葉に縋るように顔を上げた。


だが、すぐに部屋の封書に気づく。


机の上に積み上がる、各国の印。

銀梟の封蝋。

オルディスの王冠。


「何が」


誰も答えなかった。


老女官が、静かに言う。


「王太子妃教育は、本日午後も続けます」


エミリアの肩が震えた。


「まだ、続けるのですか」


「はい」


「でも、こんな」


「王太子妃候補であるならば」


老女官の声は変わらない。


「情勢が難しい時ほど、学ばねばなりません」


エミリアは唇を噛んだ。


「私は、そんな」


愛されたかっただけだ。


選ばれたかっただけだ。


王太子が手を取ってくれた時、それで何かが変わると思った。

美しいドレスを着て、隣に立てば、皆が認めてくれると思っていた。


だが、王太子妃候補という席は、椅子ではなかった。


重い机だった。

上に置かれる書類を読み、数字を見て、家名を覚え、発言の意味を理解しなければならない場所だった。


その重さを、レティシアは十年背負っていた。


エミリアは今、その端に指をかけただけで、泣きそうになっている。


「エミリアを責めるな」


エドガルドが言う。


老女官は、彼を見た。


「責めてはおりません。教育しております」


その言葉は、静かに部屋へ落ちた。



午後には、王都の商人たちにも影響が出始めた。


外交書簡用紙の不足。

封蝋の追加契約停止。

慈善局の支払い遅延。

銀梟式帳簿を読める書記の不足。


王宮からの発注を受けていた商会は、急に条件を変えられ、慌てていた。


「前払いでなければ納品不可?」


「銀梟通商社がそう通知を」


「王宮相手にか」


「王宮相手だからだそうです」


商人は、文面を読んだ。


《今後は信用取引ではなく、明細確認後の前払いを基本とする》


「信用取引ではなく……」


その言葉が、妙に重かった。


王宮の信用が、削られている。


少しずつ。

しかし確実に。


慈善局では、もっと露骨だった。


帳簿が読めない。


数字はある。

項目もある。

だが、どこで詰まり、どこに無駄があり、どこを先に直せばよいのかが分からない。


銀梟から派遣されていた者たちは、そこを読んでいた。


目立たない。

声も大きくない。

だが、彼女たちがいないだけで、机の上の数字はただの数字に戻った。


「ベルティーユ女史の第三冊は」


「閲覧申請が必要です」


「誰に」


「銀梟へ」


「王宮内の手順書だぞ」


「銀梟作成です」


慈善局長は、椅子に座り込んだ。


何もかも、当然そこにあると思っていた。


その当然が、ひとつずつ外されていく。



夕刻。


国王は、再び執務室にいた。


朝よりも疲れている。


目の前には、一日で届いた封書の一覧が置かれていた。


宰相が読み上げる。


「銀梟教育基金、三通。銀梟通商社、二通。オルディス王国、四通。ヴィルヘルム公国、二通。アルベルティーヌ侯爵家、二通。東方三国、連名一通。北方公国、一通。西海都市同盟、一通。王立女子実務学院、一通。慈善組織連合、一通」


国王は、目を閉じた。


「多いな」


「はい」


「一日でか」


「いいえ」


宰相は静かに首を振った。


「一日で出したのではありません。届く日を揃えたのでしょう」


国王は、深く息を吐いた。


「ベルティーユ女史か」


「おそらくは」


「オルディス王弟もか」


「間違いなく」


国王は沈黙した。


マリアンヌ・ド・ベルティーユ。


家庭教師。

そう思っていた者もいた。


だが、いま机の上に積まれている文書の束は、その認識を粉々に砕いていた。


彼女は家庭教師だった。


同時に、制度の結び目だった。


王宮は、その結び目を自ら切った。


「陛下」


宰相が低く言う。


「王太子殿下の処遇を、急ぎ決める必要がございます」


国王は目を開けた。


「分かっている」


「オルディス王太子の婚約申込が公になる前に、こちらの見解を整えねばなりません」


「分かっている」


「エミリア嬢を王太子妃候補として維持するかどうかも」


国王の眉が動いた。


「維持できると思うか」


宰相は答えなかった。


答えないことが、答えだった。


その頃、エドガルドは自室で荒れていた。


机の上の花瓶が倒れている。

絨毯に水が染みていた。


「なぜだ」


彼は、低く呟いた。


「なぜ、あいつが」


レティシア。


捨てたはずの女。

静かすぎて、つまらないと思っていた女。

王太子妃にふさわしくないと決めた女。


その女が、他国の王太子に求められた。


正式に。

記録と評価を添えられて。


エドガルドの胸に、理解できない怒りが湧く。


自分が捨てたものに価値があったと、他人に示された怒りだった。


そしてそれ以上に。


自分には見えていなかったものを、他国の王太子は見ていたという事実への怒りだった。


「ふざけるな」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。


エミリアは隣室で泣いている。

教育係たちは容赦なく課題を積む。

父王は自分を見放しかけている。

宰相は、もうこちらを庇わない。


扉の外では、侍従たちの足音が遠ざかっていく。


誰も、すぐには入ってこない。


王太子である自分の怒りを、恐れてではなかった。


関われば巻き込まれると、皆が知り始めたからだった。



夜。


王宮の上を、一羽の鳥が飛んだ。


銀の脚環をつけた鳥だった。


昼間に届いた文書の控えを運び終え、帰路につく鳥である。


王都の灯りは、いつもより鈍かった。


王宮の白い壁。

濡れた石畳。

遅くまで灯る執務室。


その下では、人々が走り、書類を読み、計算し、項目を探し、失ったものの大きさをようやく測り始めていた。


鳥は、王宮の尖塔を越える。


脚環は空だった。


もう、落とすものは落とした後だった。


請求。

照会。

契約終了。

名誉回復。

正式抗議。

保証状。

婚約申込。


祝砲は鳴らなかった。


王都の人々は、大砲の音を聞かなかった。


けれどその日、王宮には確かに砲火が降った。


音もなく。


紙の形をして。

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