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13/14

花嫁衣装を選んでくれますか

音のない砲火は、王都へ向けて放たれた。


午前は、その処理で過ぎた。


通信鳥の到着報告。

返書の控え。

外務局からの確認。

銀梟移転補助室への追加指示。

王都側の反応を知らせる第一報。


マリアンヌは、それらをひとつずつ読み、必要なものだけに赤い印を入れた。


いつも通りだった。


昼を過ぎた頃。


ようやく客間へ戻ると、そこには茶の香りが満ちていた。


窓は細く開けられている。

夏至祭の名残の鳥笛が、遠くからかすかに聞こえた。


卓の上には、温められた茶器。

小さな蜂蜜菓子。

それから、二人分のカップ。


レティシアが、茶を淹れていた。


淡い青の昼着を着ている。

胸元には、マリアンヌが贈った青石のネックレスがあった。


「先生」


彼女は顔を上げた。


「お戻りなさいませ」


「ただいま戻りました」


マリアンヌは答えた。


声はいつも通りだった。


外套も整っている。

髪も乱れていない。

手袋も、書類をめくる時と同じように白い。


けれど、レティシアは茶器を置いたまま、少しだけ動きを止めた。


朝から、迎賓館の空気はどこか違っていた。


誰もはっきりとは言わない。

けれど、レオナール王弟殿下の側近たちは、妙に晴れやかな顔をしていた。

フェリクスは「叔父上が」と言いかけて、珍しく途中で咳払いをした。

コレットは、レティシアの茶器を磨きながら、何度も微笑みを隠していた。


そして今。


目の前のマリアンヌの顔を見て、レティシアは確信した。


厳しさが消えたわけではない。

静けさが崩れたわけでもない。


ただ、目元の奥にあった長い緊張が、ほんの少しほどけている。


どこか遠くまで歩いて、戻ってきた人の顔だった。


人の顔色を読む癖は、王宮で身についたものだった。


けれどこの日、レティシアは初めて、その癖を嬉しいことに使った。


「先生」


「はい」


茶器を置く音が、少しだけ揺れた。


「レティシア?」


呼ばれた瞬間、涙が落ちた。


マリアンヌが、わずかに目を見開く。


「どうしました」


レティシアは首を振った。


「違います、ごめんなさい」


涙がもう一つ落ちる。


けれど、口元は笑っていた。


「先生」


「はい」


「おめでとうございます」


マリアンヌは、息を止めた。


あまりにも早く、見抜かれてしまった。


「……まだ、正式には」


「はい」


レティシアは涙を拭わずに頷いた。


「でも、分かります」


「分かるのですか」


「先生のお顔が、違います」


マリアンヌは、自分の頬に触れかけてやめた。


「そのように分かりやすい顔をしておりましたか」


「いいえ」


レティシアは、泣きながら少し笑った。


「きっと、私にしか分かりません」


その言葉に、マリアンヌは何も言えなくなった。


レティシアは、胸元で手を握る。


「先生」


「はい」


「私、先生と本当の家族になれるんですね」


マリアンヌは、すぐには答えられなかった。


制度上は、少し複雑だった。


レティシアがフェリクス王太子と婚姻し、マリアンヌがレオナール王弟と婚姻すれば、関係は義理の叔母に近い。

王家の系譜では、そのように整理されるだろう。

儀礼上の呼称も、席次も、いずれ定める必要がある。


説明しようと思えば、いくらでも説明できた。


けれど、レティシアが求めているのは制度の説明ではなかった。


「ええ」


マリアンヌは言った。


「家族になります」


その一言で、レティシアの顔が崩れた。


「嬉しいのです」


「ええ」


「私、嬉しいのです。フェリクス殿下のことも。オルディスに来られたことも。先生が、レオナール殿下と……お幸せになられることも」


涙がぽろぽろ落ちる。


「でも」


レティシアは、胸元を押さえた。


「本当は」


声が震えた。


「本当は、一番婚約を祝ってほしかったのは、先生なんです」


マリアンヌは、何も言えなかった。


レティシアは泣きながら続ける。


「母は、もうおりません。父や家族が私を思ってくれていることは分かっています。でも、王宮で私に紅を選んでくださったのも、初めての夜会で手袋の色を直してくださったのも、毒杯から守ってくださったのも、泣かない方法を教えてくださったのも、先生でした」


「レティシア」


「王太子妃候補としての支度なら、いくらでもしてきました」


レティシアは、涙で濡れた顔を上げた。


「でも、花嫁になる支度は、したことがないのです」


その言葉は、静かに落ちた。


王太子妃候補の衣装。

王太子妃候補の礼。

王太子妃候補の歩き方。

王太子妃候補の微笑み。


それらは、いくらでも教えてきた。


だが、花嫁になる支度。


レティシアが、自分の心で選んだ相手のもとへ向かうための支度。


それは、まだ一度もしていない。


「フェリクス殿下は、とても優しい方です」


「ええ」


「怖いままでよいと仰ってくださいました。急がなくていいと」


「ええ」


「だから、私は今度こそ、ちゃんと嬉しいと思いたいのです」


レティシアは、涙で濡れた顔のまま、まっすぐマリアンヌを見た。


「先生」


「はい」


「どうか、一緒に花嫁衣装を選んでください」


マリアンヌは、言葉を失った。


「王太子妃候補の衣装ではなくて」


レティシアは、震える声で言う。


「誰かに正しく見せるための衣装ではなくて」


「……」


「私が、フェリクス殿下のところへ行きたいと思って選ぶ、花嫁衣装を」


マリアンヌは、少し困ったように目を伏せた。


「そのお役目は、王妃陛下とお選びにならなくてよろしいのですか」


レティシアは、涙の残る顔で頷いた。


「王妃陛下とは、披露宴の衣装を選ぶことになっています」


「披露宴の」


「はい。王妃陛下が、式の衣装まで取り上げてはマリアンヌ様に叱られてしまうわ、と」


マリアンヌは、しばらく黙った。


オルディス王妃の、あの柔らかくも逃げ道のない微笑みが目に浮かぶ。


「……王妃陛下は、何もかもご存じなのですね」


「はい」


レティシアは、少しだけ笑った。


「それから、先生ならきっと、歩けないほど重い衣装にはなさらないでしょう、とも」


「それは当然です」


マリアンヌは即答した。


「食事ができないほど締める胴衣も却下です」


「はい」


「袖が燭台に触れるほど長いものも却下です」


「はい」


「露出は控えめにいたします」


レティシアは瞬きをした。


それから、泣きながら小さく笑った。


「先生」


「何でしょう」


「まだ何も選んでいません」


「方針は大切です」


マリアンヌは、仕方なさそうに笑った。


「花嫁衣装も、髪飾りも、靴も、手袋も、すべて一緒に選びましょう」


レティシアの目から、また涙が落ちた。


「本当に?」


「ええ」


マリアンヌは、今度は迷わなかった。


立ち上がり、レティシアの肩を抱く。

静かに、自分の方へ引き寄せた。


「貴女が、貴女の心で選んだ方の元へ行くための衣装です。私も、心して選びます」


レティシアは、マリアンヌの肩に額を寄せた。


「先生」


「はい」


「ありがとうございます」


「ええ」


「家族に、なれるのですね」


「ええ」


「先生のままで、お呼びしてもよろしいですか」


マリアンヌは、少しだけ目を伏せた。


「もちろんです」


「いつか、別の呼び方にも慣れるでしょうか」


「急がなくてよろしいのです」


それは、マリアンヌがレティシアに何度も言った言葉だった。


レティシアは泣きながら頷いた。


「はい」


窓の外で、朝の鳥が鳴いた。


茶は少し冷めていた。


けれど、二人はしばらくそのままでいた。

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― 新着の感想 ―
「泣かない方法を教えてくださった」のところで二人がどんなやりとりをしたのだろう。とつい想像してしまいました。
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