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14/14

悪くない騒ぎ

数ヶ月が過ぎた。


オルディスの秋は、光がやわらかかった。


夏至祭の布飾りはとうに片づけられ、街路樹の葉は少しずつ色を変え始めている。

銀梟移転補助室は暫定の名を外され、王妃慈善局の新しい帳簿様式も無事に定着した。


王都から届く封書の数も、以前より減っている。


ただし、軽くなったわけではない。


マリアンヌ・ド・ベルティーユは、執務室の窓辺に座っていた。


膝の上には、王国から届いた報告書がある。


封蝋は、もう見慣れた王家単独のものではなかった。


王家の紋章の横に、新しい印が押されている。


王都臨時統治評議会。


マリアンヌは、その文字を静かに読んだ。


「王都は、評議会制になったそうですね」


背後から、腕が回った。


レオナールだった。


彼はマリアンヌの肩を抱き、外套越しにゆるく引き寄せる。

鍛えた腕の力は強い。

けれど、触れ方は驚くほど丁寧だった。


「そうだな」


声が近い。


近すぎる。


マリアンヌは、報告書から目を離さなかった。


「王家直轄の慈善局は解体。外務書簡の発行は評議会承認制。王太子教育局は一時停止」


「王太子だった者の教育局だ」


「レオナール」


「事実だ」


彼は悪びれなかった。


そのまま、マリアンヌの肩へ額を寄せる。


「そんな書類より、君を労いたいのだが」


「やめてください、レオナール」


マリアンヌは、片手で彼の頭をやさしく押し返した。


だが、レオナールは退かなかった。


退かないまま、卓上の別紙へ手を伸ばす。


「王国側の賠償案は、第三項の表現が甘い。『相当額』ではなく『算定済み額』とするべきだ」


「仕事はなさるのですね」


「当然だ」


彼は赤鉛筆で余白に書き込む。


その筆跡は乱れていなかった。


「君の肩に触れていても、文言の不備は見える」


「離れていれば、もっとよく見えるのでは」


「それは試したことがある」


「いつですか」


「この九年間」


マリアンヌは返答に困った。


レオナールは、その隙にまた彼女の肩へ額を戻した。


以前のマリアンヌなら、距離が近いと一歩退いた。


今は、退かない。


ただ、報告書を読む邪魔になる時だけ、彼の額をそっと押し返す。


その押し方があまりにやさしいので、レオナールは退く理由を見失っていた。


「エドガルド殿下は、王太子位を解かれました」


「妥当だ」


「継承順位からも外れ、北離宮で評議会監督下の再教育」


「甘いくらいだ」


「レオナール」


「では、妥当だ」


マリアンヌは報告書をめくった。


「エミリア嬢は、修道院付き教育院へ」


「その方が本人のためでもある」


「王妃教育局は一時停止。王宮慈善局は解体、再編。銀梟式帳簿の使用は正式契約制へ」


「ようやく正規の形になる」


「王国から、私への謝罪文も届いています」


そこで、レオナールの腕にわずかに力が入った。


「足りない」


「読み終えてから仰ってください」


「読んでも足りない」


マリアンヌは、少しだけ息を吐いた。


謝罪文は丁寧だった。


丁寧すぎるほどだった。


夜会での発言について。

高位女性に対する不当な侮辱について。

銀梟教育基金理事長への無理解について。

王宮としての監督不行き届きについて。


国王名義の署名。

宰相の副署。

王都臨時統治評議会の確認印。


それらはすべて、正しく整っていた。


だが、言葉が整っているからといって、過去が消えるわけではない。


「謝罪は受け取ります」


マリアンヌは静かに言った。


「ですが、戻る理由にはなりません」


「戻らせない」


レオナールの声は低かった。


「貴女を侮辱した廊下へ、もう二度と立たせるつもりはない」


「仕事上、必要があれば」


「その場合は私も行く」


「殿下」


「レオナール」


「レオナール」


彼は少しだけ不満そうに沈黙した。


マリアンヌは、報告書へ視線を戻す。


「アルベルティーヌ侯爵家への賠償は、評議会承認で支払われるそうです。レティシアの名誉回復文も、各国へ送付済み」


「フェリクスが写しを三通持っていた」


「三通も」


「一通は自室に。一通は執務机に。一通は、なぜか懐に」


マリアンヌは、窓の外を見た。


庭では、レティシアとフェリクスが並んで歩いていた。


秋の日差しの下、レティシアは淡い青のドレスを着ている。

胸元には、青石のネックレスが光っていた。


フェリクスは何かを真剣に説明している。

おそらく、明日の視察の話だろう。

北部の寡婦工房へ行く予定だと、朝に聞いている。


レティシアはそれを聞きながら、少しだけ笑った。


その背後で、青い尾羽の鳥が、侍女の持つ菓子皿を狙っている。


「レティシアは、明日、北部の寡婦工房へ行くそうです」


「フェリクスが張り切っている」


「王太子として?」


「婚約者として」


「仕事を混ぜてはなりません」


「それを君が言うのか」


マリアンヌは少しだけ黙った。


「私はよいのです」


レオナールが、低く笑った。


「君らしい答えだ」


「それに、レティシアはもう大丈夫です」


言ってから、マリアンヌは少しだけ目を伏せる。


「完全に傷が消えたわけではありません。けれど、あの子は自分で歩けます」


「君が歩けるようにした」


「いいえ」


マリアンヌは首を振る。


「歩いたのは、あの子です」


庭のレティシアが、空を飛ぶ鳥に気づいて顔を上げる。

フェリクスも同じように空を見た。


二人が並んでいる。


それだけで、胸の奥が静かになる。


「よい顔をするようになりました」


マリアンヌは言った。


「ええ」


「笑う時に、先に周囲を見なくなりました」


「ええ」


「嫌なものを嫌だと言えるようにもなりました」


「先日の青菜の件か」


「なぜご存じなのです」


「フェリクスが、レティシア嬢は苦味の強い青菜が苦手らしいと、真剣に報告してきた」


マリアンヌは、目を伏せた。


「王太子教育に、必要でしょうか」


「彼にとっては必要らしい」


「ならば、よろしいでしょう」


レオナールは、マリアンヌの肩を抱いたまま、卓上の別の文書を取った。


「こちらは評議会からの追加協議案だ」


「読まれましたか」


「読んだ。慈善局再編については、銀梟が直接戻る必要はない。外部監査と教育課程だけでよい」


「同意します」


「王都側は、君の帰還を望んでいるようだが」


「戻りません」


返事は早かった。


レオナールの腕が、ほんの少しだけ緩む。


「そうか」


「はい」


「では、ここに残る?」


マリアンヌは報告書を閉じた。


「私の仕事は、こちらにもあります」


レオナールは、その言葉を聞いて、ようやく少しだけ満足したようだった。


「では、部屋を増やしておこう」


「また誰かを拾う前提ですか」


「君は、拾うだろう」


マリアンヌは、少しだけ黙った。


それから、静かに笑う。


「否定は、いたしません」


レオナールは満足げに頷いた。


それから、何でもない顔で言う。


「ところで」


「はい」


「いつになったら敬語をやめてくれるんだ」


マリアンヌは、今度こそ報告書から顔を上げた。


「仕事中です」


「仕事後でも同じ答えだった」


「立場がございます」


「婚約者だ」


「王弟殿下です」


「君の婚約者だ」


静かな声だった。


だが、妙に強かった。


マリアンヌは、書類を閉じる。


「レオナール」


「はい」


「その呼び方では足りませんか」


「足りない」


「では、何と」


「レオ」


あまりに真面目な顔で言うので、マリアンヌはしばらく黙った。


窓の外では、秋の鳥が一羽、庭木に止まっている。


部屋の中には、王国の処理報告書。

銀梟の移転記録。

賠償案。

外交文書。

王都臨時統治評議会の印。


そのすべての真ん中で、オルディス王弟は、婚約者に愛称をねだっていた。


「……その件につきましては、検討いたします」


「却下だ」


「却下」


「検討という言葉は、断る時にも使える」


「よくご存じで」


「九年、待ったので」


また、その言葉だった。


マリアンヌは溜息をつく。


「それを出されると、こちらが不利になります」


「では、効果的に使う」


「殿下」


「レオ」


「レオナール」


「一歩前進と見なす」


彼は満足したように、王国からの別紙を取った。


そのまま、今度は冷静に指示を書きつける。


「エドガルド殿下の継承順位剥奪は妥当。だが、離宮蟄居だけでは弱い。評議会監督下での再教育記録を残すべきだ。後年、復権論が出た時に潰せる」


「言い方」


「正確だろう」


「正確ですが」


「君も同じことを考えていたはずだ」


「……記録は必要だと思いました」


「ほら」


レオナールは、少しだけ笑った。


「やはり、同じ地図を見ている」


その言葉に、マリアンヌは黙った。


夜明けの浜を思い出した。


白い布。

潮風。

カモメの声。

そして、同じ地図を見るための手。


マリアンヌは、静かに息を吐く。


「レオナール」


「はい」


「頭が重いです」


「離れた方がいいか」


「少し」


レオナールは、素直に身を引いた。


ただし、椅子の背に手を置いたままだった。


完全には離れない。


「これで」


「……まあ」


「君は寛大だ」


「貴方が強情なのです」


「婚約者に甘えているだけだ」


「仕事中に」


「仕事はしている」


実際、している。


卓上の書類には、すでに三つの修正案と二つの指示が書き込まれていた。

どれも的確だった。

腹立たしいほどに。


その時、部屋の外が少し騒がしくなった。


最初は、誰かが早足で廊下を通ったのだと思った。


だが、次に聞こえた声は、明らかに困り果てていた。


「王太子殿下のご婚約発表と、王弟殿下のご婚約手続きが重なっております」


「承知しています。招待状の格を分けてください」


「分けますと、紙が足りません」


「では、追加を」


「正式紙ですと予算が」


少しの沈黙。


「……予算が、足りません」


マリアンヌの羽根ペンが止まった。


レオナールは止まらなかった。


淡々と署名している。


「聞こえておりますね」


「聞こえている」


「よろしいのですか」


「よくはない」


レオナールは最後の一行を読み、余白に短く指示を書きつけた。


「だが、彼らは優秀だ。処理できる」


「予算が足りないと」


「婚礼外交費を使う」


マリアンヌは顔を上げた。


「そのような費目が?」


「ある」


「いつから」


「九年前から」


マリアンヌは、しばらく黙った。


レオナールは、平然と次の書類を取る。


「使う日が来た」


「……殿下」


「レオ」


「レオナール」


「はい」


「それは私との婚約を想定して作った費目ですか」


「もちろん」


「もちろんではありません」


廊下の向こうでは、また小さな混乱が起きている。


「王妃陛下が、合同祝賀会はいかがかと」


「合同はなりません。王太子殿下のご婚約と王弟殿下のご婚約では、招く相手も儀礼も異なります」


「ですが、王妃陛下が大変お喜びで」


「それは存じています。だからこそ、分けます」


声は抑えられている。


だが、切迫していた。


マリアンヌは、静かに書類を閉じた。


「手伝った方がよろしいのでは」


「手伝う」


レオナールは即答した。


「ただし、君が廊下に出ると、全員がさらに緊張する」


「なぜです」


「主賓だからだ」


彼は少し間を置いて、付け加える。


「それに、私の婚約者でもある」


マリアンヌは視線を逸らした。


「まだ正式発表前です」


「だから、廊下がああなっている」


その通りだった。


王太子フェリクスとレティシアの婚約。

王弟レオナールとマリアンヌの婚約。


どちらも国として大きい。

どちらも祝うべきことだった。


ただし、同時に発生した。


祝意はあっても、席次は組まなければならない。

招待状は刷らねばならない。

各国への通達文は、一文字も間違えられない。

衣装、警備、予算、儀礼、発表順。


幸福は、時に書記官を追い詰める。


廊下の向こうで、また声がした。


「銀梟側の招待者名簿は、どちらに」


「ベルティーユ女史がお持ちです」


「今、伺えますか」


少し間。


「……王弟殿下とご一緒です」


「では、後にしましょう」


マリアンヌは、そっと目を閉じた。


レオナールは咳払いをする。


「名簿はこちらにある」


「でしたら、すぐに渡しましょう」


「その前に」


「その前に?」


レオナールは、書類の束を整えながら、何でもない声で言った。


「本日の仕事が終わったら、レオと呼ぶ約束だった」


マリアンヌは、彼を見た。


「この状況で、それを持ち出しますか」


「この状況だからだ」


「理由になっておりません」


「なる。私は今、非常に効率よく働く必要がある」


「はい」


「君がそう呼んでくれれば、さらに働ける」


マリアンヌは、しばらく沈黙した。


廊下の向こうでは、予算担当らしき者が静かに追い詰められている。


「正式紙は高いのです」


「王太子殿下の婚約通知に安紙は使えません」


「王弟殿下の方もです」


「分かっています」


「では、どうすれば」


「増額申請を」


「どこへ」


「王弟殿下へ」


「今ですか」


また、沈黙。


マリアンヌは小さく息を吐いた。


「……レオ」


レオナールの手が止まった。


ほんの一瞬だった。


だが、確かに止まった。


「もう一度」


「仕事をなさってください」


「もう一度だけ」


「廊下で人が困っています」


「それは重要だが、これも重要だ」


「レオナール」


「戻った」


マリアンヌは、少しだけ睨む。


だが、その目元はやわらかかった。


「レオ」


今度こそ、レオナールは静かに目を伏せた。


深く、短く、息を吐く。


九年分の歓喜を、そのまま表に出さないようにしている顔だった。


「ありがとう」


「一度だけです」


「今日は」


「レオナール」


「分かった」


彼は立ち上がった。


机の上から名簿を取り、増額申請用の空欄に手早く署名をする。


その判断は速かった。

金額の確認も、支出元の指定も正確だった。


浮かれている。


しかし、仕事はしている。


そこが厄介だった。


レオナールは扉へ向かう。


マリアンヌも立ち上がった。


「まずは名簿と予算ですね」


「それから発表順だ」


「合同祝賀会は避けます」


「同意する」


「王妃陛下には?」


「私から説明する」


「ご納得なさいますか」


「しないだろう」


マリアンヌは少しだけ目を伏せた。


「では、私も参ります」


レオナールが彼女を見る。


その目が、先ほどより明るかった。


「頼もしいな」


「婚約者ですので」


言ってから、マリアンヌは少しだけ止まった。


レオナールも止まった。


廊下の向こうで、誰かが書類を落とす音がした。


マリアンヌは何もなかったように扉へ向かう。


「参りましょう、レオナール殿下」


「レオでは」


「仕事中です」


「なら、あとで」


「検討します」


「それは断る時にも使う」


「よくご存じで」


扉が開く。


廊下には、紙束を抱えた書記官と、予算表を持った会計官と、儀礼官がいた。


全員が一斉に礼を取る。


マリアンヌは、静かに名簿を差し出した。


「銀梟側の招待者名簿です。国別、職能別、儀礼上の優先順位別に分けてあります」


儀礼官の顔に、救われたような色が差した。


「ありがとうございます」


レオナールは増額申請書を会計官へ渡す。


「婚礼外交費から出せ。足りなければ王弟家の私費を足す」


会計官が目を見開く。


「よろしいのですか」


「必要な祝いだ」


その声は穏やかだった。


けれど、迷いはなかった。


廊下の空気が少しだけ変わる。


悲鳴に近かった慌ただしさが、仕事の速度へ戻っていく。


マリアンヌは、それを見て小さく頷いた。


王都は評議会制になる。


王家の廊下は、もう彼女を呼び戻せない。


そしてオルディスの廊下では、二組の婚約を整えるために、紙と人と予算が忙しく動いている。


それは、誰かを傷つける混乱ではなかった。


幸福に、手続きが追いついていないだけの混乱だった。


レオナールが、隣で低く言う。


「悪くない騒ぎだ」


マリアンヌは、廊下の先を見る。


レティシアとフェリクスの名が並んだ仮予定表。

自分とレオナールの名が添えられた別紙。

忙しく歩く書記官たち。


「ええ」


彼女は静かに答えた。


「悪くありません」


その声は、少しだけ笑っていた。

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