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8/14

幕間 たかが家庭教師の不在

王宮の朝は、いつも通り始まるはずだった。


鐘が鳴る。

厨房に火が入る。

侍女たちが廊下を磨き、書記官が執務室の扉を開ける。


白い石床。

磨かれた銀器。

整えられた花。

香油の薄い匂い。


何も変わっていないように見えた。


だが、その朝は違った。


王妃慈善局の帳簿室に、人が来なかった。


最初に気づいたのは、茶を運んだ若い侍従だった。


いつもの時刻に、いつもの盆を持って、いつもの廊下を曲がる。

帳簿室の扉は開いている。


中は、静かだった。


帳簿係の席。

配給監査官の席。

冬季炊き出しの責任者の席。

孤児院支援記録を扱う書記の席。


すべて空いている。


机の上には、揃えられた鍵と、封書が三通置かれていた。


銀の梟の封蝋。


若い侍従は、その意味を知らなかった。


ただ、嫌な予感だけは分かった。


彼は盆を置くことも忘れて、封書を持って走った。


半刻後。


王宮は、走る者で満ちていた。


「慈善局の派遣契約が停止?」


「本日付でございます」


「本日付とは何だ。今朝からという意味か」


「はい」


「冬季炊き出しの帳簿は」


「担当者が不在です」


「代わりを出せ」


「代わりが、帳簿の形式を読めません」


「形式など、帳簿であろう」


「銀梟式です」


その言葉で、部屋が黙った。


銀梟式。


それは、王宮のあちこちで使われていた。


慈善局の配給記録。

孤児院への布支給。

寡婦基金の再就職訓練。

地方修道院からの医療報告。

王妃主催の冬季炊き出し。


どれも、マリアンヌ・ド・ベルティーユが整えた形式だった。


項目は少ない。

だが、誤魔化しにくい。


人名。

数量。

日付。

責任者。


余計な飾りはなく、必要なものだけが残っている。


読める者には、異常がすぐ分かった。

読めない者には、ただ数字が整っているようにしか見えなかった。


そして今、読める者たちは来ていない。


「なぜ来ない」


慈善局長は、封書を握りしめていた。


手が震えている。


「契約に基づく一時停止、と」


「誰が許可した」


「銀梟教育基金の理事会です」


「理事会など、王宮が命じれば」


そこで、側にいた年配の書記が顔を上げた。


「銀梟教育基金は、王宮の下部機関ではございません」


慈善局長は口をつぐんだ。


その通りだった。


知っていた。


だが、知っていても普段は考えないようにしていた。


王宮に必要な時、銀梟は人を出した。

王宮に必要な時、帳簿を整えた。

王宮に必要な時、寡婦や孤児の中から働ける者を訓練し、送り込んだ。


だから、そこにあるものだと思っていた。


水のように。

灯りのように。

朝になれば、当然あるもののように。


それが、今朝からない。


それだけのことだった。


だが、王宮はそれだけで躓いた。


外務棟では、別の混乱が起きていた。


外交書簡に使う紙が足りなかった。


「昨日、補充を頼んだはずだ」


「納入条件見直しの通知が来ております」


「どこから」


「銀梟通商社です」


「また銀梟か」


「外交書簡用紙、儀礼用封蝋、外国語写本、贈答用目録紙。すべて確認対象に入ると」


外務卿は、額を押さえた。


その机の上には、すでに封書が積まれていた。


東方三国。

北方公国。

西海都市同盟。

ヴィルヘルム公国。

オルディス王国。


どの封書にも、丁寧な文面が記されている。


丁寧だった。


丁寧すぎて、余計に悪い。


《昨夜の王宮夜会における、マリアンヌ・ド・ベルティーユ女史への発言につき、貴国王家の見解を伺いたく――》


《高位女性に対する公的侮辱の事実確認を求め――》


《銀梟教育基金理事長への不当な扱いについて、正式な説明を――》


外務卿は、一通ずつ開けるたびに顔色を悪くした。


苦情ではない。


照会。

確認。

説明要請。


どれも、外交上は正しい。


だからこそ、無視できない。


「夜会で、何があった」


今さら、外務官の一人が呟いた。


誰も答えなかった。


答えは、すでに王宮中に広がっている。


王太子エドガルド殿下が、婚約披露宴の場でレティシア・フォン・アルベルティーヌ嬢との婚約を破棄した。


エミリア・ロゼット子爵令嬢を新たな王太子妃候補にすると宣言した。


その場でマリアンヌ・ド・ベルティーユ女史に、子爵令嬢の教育を命じた。


断られた。


そして、言った。


婚期も逃した石女を、誰が雇ってやっていたと思っている。


王宮は、昨夜のその言葉を、朝までに何度も飲み込んだ。


飲み込むたびに、喉が焼けた。


国王は、朝の謁見を取りやめた。


取りやめざるを得なかった。


執務机の上には、封書が積まれている。


国王は、一通目を開いた。


東方三国からだった。


文面は礼儀正しい。

しかし、そこには席次調停の記録が添えられていた。


九年前。

マリアンヌ・ド・ベルティーユが、東方三国の会議を流血寸前で収めた時のものだ。


次に、北方公国。


穀物協定の更新手続きについて、確認を要するとあった。


確認。


それだけで、十分だった。


西海都市同盟は、孤児船救出に関する過去の銀梟協力記録を添えている。


ヴィルヘルム公国からは、レティシア・フォン・アルベルティーヌ嬢がアデレード大公妃の後見下にて一時保護されている旨の通知。


オルディス王国からは、正式抗議。


さらに、アルベルティーヌ侯爵家からは、婚約破棄の根拠と正式手続きの開示を求める書簡。


国王は、一通ずつ読んだ。


読み終えるころには、顔から血の気が引いていた。


向かいに立つ王太子は、まだ怒っていた。


「父上。これは、少し騒ぎすぎではありませんか」


国王は、ゆっくりと顔を上げた。


「騒ぎすぎ」


「ええ。婚約破棄は、私の判断です。レティシアは王太子妃にふさわしくなかった。エミリアの方が」


「黙れ」


静かな声だった。


だから、余計に部屋が冷えた。


王太子は目を見開く。


国王は、机の上の封書を指で押さえた。


「お前は、一晩で何国を敵に回した」


「敵など」


「東方三国は説明を求めている。北方公国は穀物協定を止めかけている。ヴィルヘルム公国はレティシア嬢を保護した。オルディスは正式に抗議した。アルベルティーヌ侯爵家は、婚約破棄の正当性を問うている」


王太子の唇が動いた。


何かを言おうとして、言葉にならない。


宰相が静かに言った。


「加えて、銀梟教育基金が王宮慈善局への派遣を一時停止しました」


外務卿も続ける。


「銀梟通商社は、外交関連の納入条件見直しに入りました」


宮内長官が、青い顔でさらに言う。


「王宮内の銀梟実務学院出身者のうち、一部が休暇申請を出しております。規則上、却下できる理由がございません」


「なぜだ」


王太子は叫んだ。


「なぜ、家庭教師一人のことで、そこまで」


国王は、目を閉じた。


その言葉が、すべてだった。


家庭教師一人。


王太子はまだ、そう思っている。


「ベルティーユ女史は、家庭教師としてだけ王宮にいたのではない」


宰相が言った。


「王妃殿下付き筆頭書記官。王女外遊随行官。慈善局制度設計者。銀梟教育基金理事長。王立女子実務学院共同創設者。銀梟通商社主要出資者」


一つずつ、肩書きが落ちる。


「加えて、諸外国における慈善協力の窓口でもあります」


王太子は、苛立った顔で言う。


「だから何だ。王家が命じれば戻るだろう」


宰相は、少しだけ目を伏せた。


「殿下が、出ていけと命じられました」


王太子の顔が歪む。


「言葉の勢いだ」


「王宮の大広間で、各国貴賓の前でのご発言です」


外務卿が答えた。


「勢いでは済みません」


国王は、ヴィルヘルム公国からの通知を机に置いた。


「ベルティーユ女史とレティシア嬢は、現在ヴィルヘルム公国の保護下にある。さらに、オルディス王家の保証状も出ている」


「呼び戻せば」


「どうやって」


国王の声は低かった。


「お前が婚約破棄し、退去を認めた娘を。お前が侮辱し、出ていけと命じた女を。中立国の保護下から、どうやって呼び戻す」


王太子は答えられなかった。


そこへ、扉が叩かれた。


入ってきたのは、老女官だった。


王太子妃教育を補佐してきた女である。


顔は固い。


「陛下。エミリア・ロゼット子爵令嬢の基礎確認について、ご報告が」


王太子はすぐに顔を上げた。


「エミリアを責めるな。彼女はこれから学ぶ」


老女官は、王太子を見なかった。


国王へ向けて、深く礼を取る。


「責めてはおりません。確認結果の報告でございます」


「言え」


国王が促す。


「王国十二侯爵家の家名、領地、主要婚姻関係。三問中、正答なし」


王太子の顔が赤くなる。


「いきなりそんなものを」


「基礎でございます」


老女官は静かに続けた。


「宮中席次、主要祝祭の順序、王妃慈善局の基礎会計、三ヶ国語の挨拶、外交儀礼上の禁句。いずれも、現時点では習熟に至っておりません」


「だから、これから学ぶと言っている!」


「はい」


老女官は頷いた。


「十年ほど必要かと」


部屋が凍った。


王太子は、彼女を睨みつける。


「嫌味か」


「いいえ」


老女官の声は変わらない。


「レティシア様は、十年前に同じところから始められました。八歳で」


その名が出た瞬間、王太子の顔に不快の色が走った。


「彼女と比べるな」


「比較ではございません」


老女官は言った。


「王太子妃候補に必要な最低限の課程を申し上げております」


国王は、椅子に深く沈んだ。


王太子は歯を食いしばる。


「マリアンヌがいれば、エミリアも」


「ベルティーユ女史はおりません」


宰相が遮った。


「殿下が追放されました」


「追放ではない!」


「では、ご自身で婚約を破棄し、退去を認め、教育担当者に退去を命じられました」


王太子は何も言えなくなった。


一方、白い教育室では、エミリア・ロゼットが泣きそうな顔で座っていた。


目の前には、厚い本が五冊。

地図が三枚。

家系図が一巻。

数字の並んだ帳簿が一冊。


老女官が去ったあとも、代理教師たちは無言で控えている。


エミリアは、王太子に選ばれた。


愛されている。

そう思っていた。


王太子妃になるということが、何を意味するのかは、考えていなかった。


王太子が笑ってくれた。

手を取ってくれた。

君こそ私を分かってくれると言ってくれた。


それで十分だと思っていた。


だが、目の前の本は笑わない。


地図も、帳簿も、家系図も、彼女を愛してはくれない。


「ロゼット嬢」


代理教師が言った。


「次は、王国北部三公領の主要産物を」


エミリアの唇が震えた。


「少し、休ませてください」


「始めて四半刻でございます」


「でも」


「レティシア様は、一日に六刻の課程を受けておられました」


また、その名。


エミリアは、ぎゅっと手を握った。


「レティシア様、レティシア様って……」


声が震える。


「私は、レティシア様じゃありません」


「はい」


代理教師は静かに答えた。


「ですから、これから学ぶ必要がございます」


「殿下は、私ならできると」


「では、始めましょう」


逃げ道のない言葉だった。


エミリアは、地図を見た。


線が多い。

名前が多い。

似たような家名が並んでいる。


頭が痛くなる。


自分はただ、愛されたかっただけなのに。


そう思った。


その瞬間、老女官の言葉が蘇る。


王太子妃になるとは、愛される席ではございません。


エミリアは、初めてその意味を少しだけ理解した。


理解したくはなかった。


昼前には、別の問題が起きた。


王宮侍女長のもとに、休暇届が積まれていた。


銀梟実務学院出身の侍女たちである。


理由は、家族の看病。

実家の用事。

体調不良。

修道院への奉仕。

恩師の見舞い。


どれも、規則上は認められる理由だった。


侍女長は、一枚ずつ確認した。


字が整っている。

日付も正しい。

代理者の記載もある。

担当業務の引き継ぎも添えられている。


完璧だった。


完璧だから、拒めない。


「これを、全員が」


隣の副侍女長が青ざめている。


「はい」


「示し合わせたのかしら」


「証拠はございません」


「証拠が必要ないくらい、見事に揃っているわ」


侍女長は、最後の一枚を置いた。


そこには短い追記があった。


《緊急時の代替手順は、ベルティーユ女史作成の第三冊、王宮内務補助記録に記載済み》


侍女長は、しばらくその文を見つめた。


ベルティーユ女史は、いない。


だが、手順は残している。


怒って出ていったはずなのに。

侮辱されて、血を流して、それでも去ったはずなのに。


引き継ぎだけは、完璧だった。


だから、余計に言い訳ができない。


午後になり、宰相はマリアンヌの旧執務机を開けた。


王宮の片隅にある小さな部屋だった。


飾り気はない。

書棚と机と、予備の椅子。

窓辺に、古いインク壺。


ここで、彼女は何年も働いていた。


王太子妃教育の計画を立て、慈善局の帳簿を読み、外務書簡の文面を直し、銀梟へ連絡を取り、王宮の若い侍女たちの推薦状を書いていた。


机の中は、ほとんど空だった。


私物はない。


ただ、分類された書類だけが残っていた。


《未承認事項一覧》


《王太子妃教育課程における未処理課題》


《慈善局制度上の脆弱点》


《王宮が銀梟に依存している項目》


宰相は、最後の紙を開いた。


項目が並んでいる。


慈善局帳簿人員。

外交書簡物資。

王妃教育教材。

実務学院派遣者。

孤児院支援記録。

寡婦基金配給監査。

王宮内務補助人員。

王女外遊時の臨時通訳。

各国婦人慈善会との窓口。


その横に、代替案が記されていた。


王宮内で育成すべき人員。

契約を分散すべき商社。

銀梟に依存しすぎている部署。

緊急時に最低限維持すべき手順。


すべて、書いてあった。


宰相は、指先で紙を押さえた。


マリアンヌ・ド・ベルティーユは、王宮を見捨ててはいなかった。


少なくとも、昨夜までは。


何度も警告していた。

何度も代替案を出していた。

何度も、銀梟に依存しすぎていると示していた。


それを、王宮が読まなかった。


読んで、後回しにした。


後回しにしても、彼女が整えると思っていた。


宰相は目を閉じた。


扉の外では、また誰かが走っている。


遠くから、王太子の怒鳴る声が聞こえた。

さらに遠くで、エミリアの泣き声も聞こえた。


王宮は広い。


だが、その日ばかりは、どこも逃げ場がなかった。


夕刻。


国王は、再び執務室にいた。


朝よりも封書は増えている。


王太子は、疲れた顔で立っていた。

怒りは残っている。

だが、その奥に焦りが見え始めていた。


「父上」


声は、朝より少し弱かった。


「では、どうすれば」


国王は答えない。


王太子は続けた。


「マリアンヌを呼び戻せば」


宰相は、目を閉じた。


外務卿は顔を伏せた。


国王は、机の上にヴィルヘルム公国からの通知書を置いた。


《レティシア・フォン・アルベルティーヌ嬢は、当面、アデレード大公妃殿下の後見下にて心身の安全を確保する》


次に、オルディス王国の保証状。


《マリアンヌ・ド・ベルティーユ女史およびレティシア嬢の安全と名誉に関し、必要な支援を行う》


さらに、アルベルティーヌ侯爵家の委任状。


《当家は、レティシアの当面の安全確保をベルティーユ女史およびヴィルヘルム公国アデレード大公妃殿下に委任する》


国王は、最後に王太子を見た。


「呼び戻す、とは」


王太子は答えられなかった。


出ていけと言った女は、もう王宮の廊下にはいない。


呼べば来る家庭教師では、もうなかった。


王太子は、初めてそのことを理解した。


あるいは、理解しかけた。


国王は、深く息を吐いた。


「王宮は、回らないな」


誰も返事をしなかった。


王宮は、回らない。


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