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7/14

見に行きましょう

朝食の卓には、焼いた卵と、薄いパンと、香草を刻んだ白身魚が並んでいた。


窓は開けられている。

別邸の庭から、朝の風が入ってきた。


王宮の朝とは違う。


侍従の足音も、遠くで鳴る鐘もない。

誰かが扉の前で待っている気配もない。

次の謁見のために、食事の速さまで計る必要もない。


レティシアは、もう食事の前に深呼吸をしなくなった。


最初の頃は、皿の前で指先を揃え、どこから手をつけるべきかを考えていた。

今は違う。


温かいうちにスープを飲む。

気に入った果物を小皿に取る。

苦手な香草は、少しだけ端へ寄せる。


コレットはそれを見ても、何も言わなかった。


マリアンヌも言わない。


ただ、塩入れを手に取った。


さらさらと、白い粒が白身魚の上に落ちる。


レティシアは、すぐに顔を上げた。


「先生」


「はい」


「また塩を多くかけられて」


マリアンヌの手が止まる。


レティシアは、真剣な顔だった。


「お体に悪いですよ」


マリアンヌは、少しだけ塩入れを見た。


それから、何事もなかったように置く。


「これぐらいが美味しいのですよ」


「昨日もそう仰っていました」


「昨日も美味しかったので」


「先生」


レティシアの声が、少しだけ強くなった。


マリアンヌは、白身魚を一切れ切り分ける。


「貴女は真似してはいけません。浮腫みますよ」


「先生も浮腫みます」


「私はもう少し年を重ねていますから」


「なおさらではありませんか」


マリアンヌは何も言わず、魚を口に運ぶ。


レティシアは、じっと見ていた。


やがて、マリアンヌは静かにナプキンで口元を押さえた。


「明日から少し控えます」


「今日からです」


「……今日の分は、もうかけてしまいました」


「半分、私のお皿のものと交換しましょう」


マリアンヌは、初めて少し困った顔をした。


「レティシア」


「はい」


「貴女は、少し強くなりましたね」


レティシアは瞬きをした。


それから、少しだけ笑う。


「先生に教わりました」


その笑みに、王宮の冷たい灯はなかった。


別邸での暮らしは、ゆっくりとレティシアの輪郭を戻していた。


朝には庭を歩く。

昼には手紙を書く。

夕方にはコレットと香草茶を選ぶ。


最初の頃は、すべてに許可を求めていた。


この花を摘んでよいか。

この茶を選んでよいか。

今日は散歩を休んでよいか。


だが、今は少し違う。


「今日は、こちらの茶にします」


そう言えるようになった。


「このリボンは、昼なら派手すぎませんか」


そう尋ねられるようになった。


そして、フェリクス王太子殿下との外出から帰ると、少しだけ早口で報告するようにもなった。


花鳥園。

南温室。

小さな劇場。

古地図室。

菓子職人の店。


どこへ行くにも、コレットと護衛がついた。

フェリクスはそれを当然のこととして扱った。


急がせない。

近づきすぎない。

けれど、レティシアが話したことは、次に会う時にはきちんと覚えていた。


「青い尾羽の鳥に、また菓子を取られました」


ある日の夕方、レティシアはそう言った。


マリアンヌは書類から顔を上げる。


「またですか」


「はい。今回はフェリクス殿下が、囮の菓子を用意していたのですが」


「用意がよろしいですね」


「囮ではない方を取られました」


マリアンヌは一瞬、黙った。


「賢い鳥ですね」


「はい。殿下もそう仰っていました」


レティシアは、そこで小さく笑った。


本当に、小さな笑みだった。


けれど、隠すためのものではなかった。


誰かの顔色を読むためでもない。

場を整えるためでもない。


思い出して、少しおかしくなっただけの笑みだった。


マリアンヌは、それを見ていた。


王宮で身につけた礼は、まだレティシアの中にある。

背筋を伸ばす癖も。

言葉を選ぶ癖も。

泣きそうな時に、目を伏せる癖も。


けれど、それだけではなくなっていた。


苦い香草を嫌がること。

甘い菓子を好きだと言うこと。

鳥に菓子を奪われた話を、少し楽しそうに語ること。

先生の塩を咎めること。


それらは、王太子妃候補としては余分なものだった。


だが、一人の娘としては、失ってはならないものだった。


その日の昼下がり。


マリアンヌは、レティシアと向かい合って座っていた。


卓の上には、オルディスから届いた資料が置かれている。

王妃慈善局の記録。

北部修道院の再建報告。

寡婦基金の新しい帳簿様式。

それから、王都では見慣れない街路図。


レティシアは、一枚ずつ丁寧に見ていた。


「オルディスの帳簿は、王国のものより項目が少ないのですね」


「ええ」


マリアンヌは頷いた。


「報告者の負担を減らすためです。報告に時間がかかりすぎると、配給そのものが遅れます」


「ですが、簡略化しすぎると不正が見えにくくなりませんか」


「見えます。ですから、残す項目を選びます」


レティシアは少し考えた。


「人名、数量、責任者」


「ええ。それから日付」


「日付」


「遅れは、嘘よりも先に出ます」


レティシアは、資料の余白に小さく書き込んだ。


その横顔を見ながら、マリアンヌはしばらく黙っていた。


まだ早いのではないか。


そう思わないわけではなかった。


レティシアは傷ついた。

ようやく笑えるようになったばかりだ。

今すぐ新しい国へ行く必要などない。


ここに留まることもできる。

ヴィルヘルム公国で後見を受けながら、しばらく学ぶこともできる。

アルベルティーヌ侯爵家と調整し、王国から距離を置いたまま過ごすこともできる。


選択肢はある。


だからこそ、見せるべきだった。


王国以外の空を。

王宮以外の席を。

フェリクスという青年が生まれ育った国を。


そして、マリアンヌ自身がかつて助け、助けられた国を。


「レティシア」


「はい」


「オルディスへ行ってみますか」


レティシアの手が止まった。


「オルディスへ、ですか」


「ええ」


マリアンヌは、先に言った。


「嫁ぐのではありません。決めるのでもありません。見に行くのです」


レティシアは、資料から顔を上げた。


「見に行く」


「あなたがこれから何を望むのか。どこに立ちたいのか。誰の隣にいると息ができるのか。王国の外も、見ておいた方がよろしいでしょう」


レティシアは黙った。


指先が、資料の端を押さえている。


「怖くないと言えば、嘘になります」


やがて、そう言った。


「王太子殿下の国へ行く、ということも。別の王家に近づく、ということも」


「ええ」


マリアンヌは否定しなかった。


「怖いままで構いません」


レティシアの目が揺れる。


「怖くないふりをして選ぶ必要はありません」


「……はい」


「ここに残ることもできます。王国へ戻らないこともできます。オルディスへ行くことも、行かないこともできます」


マリアンヌは静かに続けた。


「選択肢は、多い方がよろしいのです」


「多いと、迷います」


「迷ってよいのです」


レティシアは、小さく息を吐いた。


「王宮では、迷うことは悪いことでした」


「ええ」


「迷えば、未熟だと見なされました」


「ええ」


「王太子妃になるなら、正しい答えをすぐに選ばなければならないと」


「そう教えました」


マリアンヌは、否定しなかった。


「ですが、今のあなたは王太子妃候補ではありません」


レティシアは、じっとマリアンヌを見た。


「ですから、迷いなさい」


それは、静かな許可だった。


レティシアの胸の中で、何かがゆっくりほどける。


「先生は」


「はい」


「ご一緒してくださいますか」


「もちろんです」


返事は早かった。


その早さに、レティシアは少し笑いそうになった。


「では」


彼女は、資料の上に視線を落とす。


フェリクスの話していた花鳥園。

青い尾羽の鳥。

南温室。

菓子を狙う鳥を、真面目に警戒する王太子。


そして、目の前の資料にある北部修道院。

寡婦基金。

マリアンヌがかつて助けた国。


「行ってみたいです」


レティシアは言った。


「フェリクス殿下の国を。先生が助けた国を」


マリアンヌは頷いた。


「では、そのように整えましょう」


「はい」


レティシアは、少しだけ背筋を伸ばした。


だが、それは王宮で身につけた硬い姿勢ではなかった。


自分で選ぶために、少し前を向く姿勢だった。


マリアンヌは書類を閉じた。


「オルディスに行くなら、体調を整えませんとね」


「はい」


「貴女も、野菜を食べなさい」


レティシアの手が止まった。


昼食の皿には、香草と一緒に蒸された青菜が残っている。


「……これは苦味が強くていけません」


「好き嫌いをなさるのですか」


「味について、正確に申し上げているだけです」


「それを好き嫌いと言います」


マリアンヌは淡々と言った。


「大きくなれませんよ」


レティシアは、思わず顔を上げた。


「私、もう十六ですよ」


「では、健やかになれません」


「先生も、塩を控えるとお約束ください」


「今は貴女の野菜の話をしています」


「先生の塩も、お体の話です」


レティシアは少しだけ不満そうに青菜を見た。


それから、決意したように一口食べる。


苦かったのだろう。


眉がほんの少し寄った。


マリアンヌは見なかったふりをした。


「よろしい」


「先生」


「はい」


「明日は、もう少し苦くないものにしてください」


「料理人に伝えておきます」


「それから、塩は少なめで」


「……努力します」


レティシアは、そこで笑った。


王太子妃候補としての笑みではなかった。


礼法で整えた笑みでもない。


少し苦い野菜を飲み込んで、先生の塩を咎める、年相応の娘の笑みだった。


マリアンヌは、それを静かに見ていた。


オルディスへ行く。


それは、まだ未来の話だった。


けれど今は、目の前の皿を空にすることの方が大事だった。


レティシアはもう一口、青菜を食べた。


少しだけ、顔をしかめながら。

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