句読点と花鳥園
数日が過ぎた。
ヴィルヘルム公国の郊外にあるアデレード大公妃の別邸は、王宮よりも明るかった。
白い石壁。
広い窓。
風の通る廊下。
庭には低い薔薇と香草が植えられている。
朝には湯が用意され、昼には軽い食事が出た。
夕方には散歩を勧められ、夜には眠るように言われる。
当たり前のことばかりだった。
だが、レティシアにはそれが新しかった。
王宮では、食事も睡眠も、次の務めのために整えるものだった。
ここでは違う。
眠るために眠る。
食べるために食べる。
疲れたら座る。
そのたびに、レティシアは少し戸惑った。
そして少しずつ、慣れていった。
頬には色が戻った。
檸檬の菓子だけでなく、木苺のタルトも食べられるようになった。
コレットと庭を歩く時、花の名を尋ねるようにもなった。
アデレード大公妃は、容赦なく彼女を整えた。
「王宮の青は、しばらく禁止」
そう宣言し、仕立屋と髪結いと香油師を呼んだ。
淡い杏色。
白茶。
やわらかな若草色。
灰紫。
王太子妃候補のための色ではなく、レティシアの顔色が明るく見える色が選ばれた。
髪もきつく結い上げない。
少しだけ下ろす。
紅は、血色が自然に見えるものを。
鏡の中のレティシアは、少しずつ変わっていった。
王太子妃候補ではない。
ただ、若く、美しい令嬢だった。
本人だけが、そのことに慣れていなかった。
マリアンヌの右手の傷も、ほとんど塞がっていた。
包帯は薄いものに替わり、書類をめくる動きも戻っている。
医師からは、もう無理に固定しなくてよいと言われた。
すべては、穏やかに流れていた。
ただ一つ。
オルディス王国の臨時大使だけは、毎日来た。
「本日は、王国への抗議文の控えを」
そう言って、レオナール王弟殿下は、薄い菓子箱を卓に置いた。
箱の中には、ヴィルヘルムで流行しているという小さな蜂蜜菓子が並んでいた。
マリアンヌは、書類ではなく菓子箱を見た。
「殿下」
「はい」
「こちらは」
「道中で評判を聞きました。レティシア嬢が召し上がれるかと」
「昨日も菓子をお持ちでしたね」
「昨日は、王妃慈善局との連携案でした」
「菓子の話でございます」
「連携案には甘いものが必要かと」
レオナールは真顔だった。
マリアンヌは黙った。
アデレード大公妃が、扇の陰で笑う。
「臨時大使殿は、随分と甘い外交をなさるのね」
「甘味は会話を円滑にします」
「便利な言葉だこと」
レオナールは、否定しなかった。
その翌日は、アルベルティーヌ侯爵家への保護報告書の追記。
その次の日は、銀梟中立条項の注釈。
さらにその次の日は、ヴィルヘルム公国滞在中の護衛配置表。
毎日、名目はあった。
そして毎日、菓子箱もあった。
レティシアには、果物を使った軽い菓子。
アデレードには、華やかな砂糖細工。
マリアンヌには、甘さを抑えた焼き菓子。
最初は誰も指摘しなかった。
だが、四日目になると、コレットが菓子箱を受け取りながら少しだけ目を伏せるようになった。
五日目になると、レティシアが菓子を選ぶ時、マリアンヌの方を見て小さく微笑むようになった。
六日目になると、アデレードの扇の動きが明らかに楽しげになった。
マリアンヌだけが、まだ書類上の用件を確認していた。
その日の午後、レオナールはいつものように別邸を訪れた。
手には書類箱。
従者の手には、白い菓子箱。
アデレードは、それを一目見て扇を開いた。
「レティシア」
「はい、大公妃殿下」
「今日は劇場に参りましょう」
レティシアは瞬きをした。
「劇場、ですか」
「ええ。新しい喜劇がかかっているの。あなたには、難しい書類より笑う練習の方が必要よ」
「笑う、練習」
「そう。大事なことよ」
アデレードは、ちらりとマリアンヌとレオナールを見た。
「大人二人は、難しい話があるようだから」
マリアンヌは顔を上げた。
「大公妃殿下。私も確認を」
「あなたは残りなさい」
「ですが」
「銀梟中立条項の確認でしょう。あなたがいなくてどうするの」
アデレードは涼しい顔で言った。
レティシアは少しだけマリアンヌを見た。
それから、レオナールを見る。
何かを察したのか、頬にほんのり色が差した。
「では、行ってまいります」
コレットが外套を持ってきた。
アデレードは満足そうに扇を鳴らす。
「ええ。帰りに菓子も買いましょう。臨時大使殿に負けていられないわ」
レオナールは、何も言わなかった。
ただ、わずかに目を伏せた。
やがて、扉が閉まった。
部屋には、マリアンヌとレオナールだけが残る。
卓の上には、銀梟中立条項の草案。
インク壺。
封蝋。
それから、まだ開けられていない菓子箱。
マリアンヌは椅子に座り、書類を手に取った。
「それで、条項に何か不備がございましたか」
「はい」
レオナールは向かいに座る。
「どちらに」
「句読点が」
マリアンヌは、顔を上げた。
「句読点」
「はい」
レオナールは、真面目に頷いた。
「第七条二項です。句点の位置によって、主語が銀梟理事会にもオルディス王家にも読めます。将来の解釈争いを避けるなら、ここは分けるべきです」
マリアンヌは、しばらく彼を見ていた。
それから、書類に目を落とす。
確かに、読めなくはなかった。
読めなくはない。
だが、それを理由に王弟自ら来る必要はない。
「殿下」
「はい」
「この程度でしたら、書記官を通じてご指摘いただければ足りました」
「そうですね」
「では、なぜ」
レオナールは、少しだけ沈黙した。
窓の外では、庭の木々が風に揺れている。
アデレードとレティシアの馬車の音は、もう遠い。
彼は真面目な顔で答えた。
「貴女に会いたかったので」
マリアンヌは、動かなかった。
羽根ペンを持つ指だけが、ほんのわずかに止まる。
「……殿下」
「はい」
「外交文書に私情を混ぜるのは、あまり感心いたしません」
「文書には混ぜておりません」
「では、どこに」
「訪問理由に」
レオナールの声は、変わらず静かだった。
真顔で。
少しも逸らさず。
「句読点に不備があったのは事実です」
「ええ」
「菓子が流行しているのも事実です」
「ええ」
「ですが、それだけなら、私は書記官を寄越しました」
マリアンヌは返事をしなかった。
レオナールは、卓の上の草案へ目を落とす。
「貴女に会いたかったので、私が来ました」
庭の風が、薄いカーテンを揺らした。
マリアンヌは、ようやく羽根ペンを置いた。
社交辞令なら返せた。
条文の話なら続けられた。
菓子箱の中身を尋ねることもできた。
だが、そのどれでもない言葉が必要だった。
そして、彼女はまだそれを持っていなかった。
レオナールは菓子箱を開けた。
中には、薔薇蜜の焼き菓子が並んでいる。
「甘すぎないと聞きました」
マリアンヌは、その菓子を見た。
「……私の好みを、どなたから」
「九年前の会議で、貴女は砂糖を半分残しました」
マリアンヌは黙った。
この男は、書類だけではなく、余計なことまで覚えている。
そしてその余計なことが、どうにも胸に悪かった。
※
それから、さらに数日が過ぎた。
別邸の生活は、少しずつ形を持ちはじめていた。
レティシアは朝の散歩に出るようになった。
コレットと庭の香草を見て、名前を覚える。
昼にはアデレード大公妃の選んだ茶を飲み、気に入ったものを一つずつ記録する。
王宮の青は、まだ着ない。
その代わり、淡い杏色や、若草色や、白茶のドレスを着た。
髪は強く結い上げず、少しだけ下ろす。
頬には自然な血色が戻り、唇には明るい薔薇色がのるようになった。
本人はまだ、その変化に慣れていない。
鏡の前で何度も瞬きをし、コレットに尋ねる。
「少し、華やかすぎないかしら」
コレットは、背後でリボンを整えながら答えた。
「いいえ。ちょうどよくお似合いです」
「本当に?」
「本当です。大公妃殿下なら、物足りないと仰るくらいです」
それを聞いて、レティシアは少しだけ笑った。
その午後、レオナール王弟殿下はいつもより早く別邸を訪れた。
手には書類箱。
従者の手には菓子箱。
そこまでは、いつも通りだった。
違っていたのは、彼の後ろにもう一人、若い男が立っていたことだ。
レオナールは、珍しく言葉を選ぶように間を置いた。
「ベルティーユ女史」
「はい」
「甥が、どうしても貴女にご挨拶したいと」
マリアンヌは、すぐに察した。
オルディス王国王太子。
フェリクス・オルディス。
レオナールの後ろから、若い男が一歩進み出た。
明るい金茶の髪。
よく動く目。
王族らしい品はあるが、レオナールほど静かではない。
彼はまずアデレード大公妃へ礼を取った。
「アデレード大公妃殿下。突然の訪問をお許しください」
「ようこそ、フェリクス殿下。随分と眩しい甥御様ね」
「恐れ入ります」
フェリクスは少し笑い、それからマリアンヌへ向き直った。
先ほどまでの明るさを、礼儀の中へきちんと収める。
「マリアンヌ・ド・ベルティーユ女史」
「はい」
「我が国の恩人にお会いできて光栄です」
彼は深く礼を取った。
若いが、礼は崩れていなかった。
「北部修道院の冬越し、王妃慈善局の帳簿整理、寡婦基金の再建。幼い頃から、叔父と王妃陛下より何度も伺っておりました」
マリアンヌは静かに礼を返した。
「過分なお言葉にございます。私一人の功ではございません」
「もちろんです。けれど、仕組みを作った方への礼を省く理由にはなりません」
フェリクスは明るく言った。
その言い方に、マリアンヌは少しだけ目を細めた。
軽いようで、軽くない。
アデレードは扇の陰で笑っている。
「フェリクス殿下。今日の本音は?」
フェリクスの表情が、ほんの少し固まった。
「……我が国の恩人に」
「上品な方ね」
アデレードは楽しげに扇を揺らした。
「叔父上が九年も返事を待っていた女史を、どうしても一目見たかったのでしょう?」
「大公妃殿下」
レオナールの声が低くなる。
フェリクスは咳払いをした。
「否定は、いたしません」
マリアンヌは返答に困った。
その時だった。
庭の方から、軽い足音が近づいてきた。
「大公妃殿下、コレットが新しい香草茶を――」
レティシアが、言いかけたまま立ち止まった。
淡い杏色のドレス。
白いリボンで少しだけ下ろした髪。
頬には、ここへ来たばかりの頃にはなかった血色がある。
王宮の夜に泣いていた令嬢ではなかった。
まだ傷はある。
だが、その傷だけではなくなっていた。
レティシアは、知らない若い男を見て、瞬きをした。
「……どなた?」
言ってから、すぐに自分の言葉に気づいたのだろう。
頬が赤くなる。
「失礼いたしました」
彼女は慌てて礼を取ろうとした。
フェリクスは、その前に礼を取った。
「こちらこそ、突然お邪魔しております」
声は先ほどより、少しだけ柔らかかった。
「フェリクス・オルディスと申します」
レティシアは動きを止めた。
オルディス。
王太子。
すぐに気づいたのだろう。
彼女は姿勢を整え、改めて礼を取った。
「レティシア・フォン・アルベルティーヌと申します」
フェリクスは、その名を聞いて一瞬だけ息を止めた。
レティシア。
レティシア・フォン・アルベルティーヌ。
その名を、彼は知っていた。
王都南区の寡婦工房の再建記録。
孤児院の冬衣配分。
王妃慈善局の若年令嬢実習報告。
刺繍糸と賃金欄を分け、中抜きを見えるようにした報告書。
叔父から渡された教材の中に、その名は何度もあった。
几帳面な字。
過不足のない記述。
感情を混ぜすぎず、それでも人を数字にしない報告。
その名前の主が、目の前にいる。
想像よりも若かった。
そして、美しかった。
ただ、派手な美しさではない。
泣いたあとに、もう一度息を整えた人の顔だった。
傷ついて、それでも礼を忘れなかった人の立ち方だった。
フェリクスは、浮ついた言葉を飲み込んだ。
ここで軽く褒めれば、きっと失礼になる。
彼は、もう一度丁寧に頭を下げた。
「お目にかかれて光栄です、レティシア嬢」
レティシアは少し戸惑った。
「私を、ご存じなのですか」
「はい。お名前だけは、以前より」
フェリクスは慎重に言葉を選んだ。
「王都南区の寡婦工房の再建記録を、王太子教育の資料として読んだことがあります。支出欄の整理と、賃金記録の扱いが、とても分かりやすかった」
レティシアの目が見開かれる。
「……あれを、ご覧に?」
「はい。叔父から、よい実務記録だと渡されました」
フェリクスは、少しだけ笑った。
「恥ずかしながら、最初は刺繍糸と賃金欄を分ける意味が分かりませんでした。ですが、読み進めるうちに、あれで中抜きが見えるようになるのだと気づきました」
レティシアは、言葉を失った。
王太子妃候補としての衣装。
礼法。
笑み。
席次。
そうしたものではなく。
彼は、彼女の報告書を読んでいた。
レティシアは、少しだけ視線を落とした。
「殿下に読んでいただくほどのものでは」
「いいえ」
フェリクスの返答は、静かだった。
「人を守るための記録は、読む価値があります」
マリアンヌが、わずかに目を伏せた。
アデレードは扇を開いたまま、黙っている。
レオナールも何も言わなかった。
フェリクスは、それ以上踏み込まなかった。
婚約破棄のことには触れない。
王国王太子の名も出さない。
慰めも、同情も、口にしない。
ただ、空気を少し変えるように言った。
「もしご負担でなければ、花鳥園へ参りませんか」
レティシアは瞬きをした。
「花鳥園、でございますか」
「はい。ヴィルヘルムの南温室に、青い尾羽の鳥が来ているそうです」
フェリクスは、ほんの少し表情をやわらげた。
「人に慣れていて、菓子を狙うらしいので、油断はできませんが」
「菓子を、狙うのですか」
「ええ。しかも、かなり正確に甘いものだけを選ぶそうです」
コレットが小さく笑いをこらえた。
フェリクスは、すぐに真面目な顔に戻る。
「難しい話は、今日は大人の方々にお任せしてもよいかと。もちろん、レティシア嬢が望まれるなら、ですが」
また、望むなら。
レティシアはマリアンヌを見る。
マリアンヌは、静かに言った。
「あなたが行きたいなら」
レティシアは少し考えた。
花鳥園。
王宮でも、視察でも、儀礼でもない。
ただ、花と鳥を見るための外出。
「……行ってみたいです」
フェリクスの顔が、少し明るくなった。
「では、菓子は隠して参りましょう」
アデレードが立ち上がる。
「コレット、帽子を。派手すぎず、けれど地味でもないものを」
レオナールは甥を見る。
「フェリクス」
「はい」
「急かすな」
「承知しています、叔父上」
フェリクスは、今度は真面目に答えた。
「気晴らしに、お誘いしただけです」
そしてレティシアへ、改めて礼をする。
「怖くない外出にしましょう」
レティシアは、少しだけ笑った。
「はい」
コレットと護衛二名が付き、レティシアとフェリクスは花鳥園へ向かうことになった。
馬車の前で、フェリクスはもう一度レティシアに礼を取る。
「足元にお気をつけください」
「ありがとうございます」
レティシアは差し出された手に、少しだけ迷ってから指先を重ねた。
フェリクスの姿勢は崩れなかった。
けれど、耳のあたりがほんのわずかに赤い。
それを、アデレードは見逃さなかった。
マリアンヌも見ていた。
二人を乗せた馬車が、護衛とともに門を出ていく。
車輪の音が遠ざかる。
庭には、大人たちだけが残った。
アデレードが扇を開く。
「あら」
マリアンヌは静かに目を伏せた。
「あらまあ」
レオナールは、額に手を当てた。
「あいつ……」
アデレードの扇が、楽しげに揺れる。
「よろしいではありませんか。気晴らしに誘っただけ、なのでしょう?」
「本人はそのつもりです」
レオナールの声は低かった。
「今のところは」
マリアンヌは、門の向こうを見た。
レティシアが、自分で行きたいと言った外出だった。
それだけでも、悪いことではない。
「急かさないでいただけるなら」
レオナールはすぐに答えた。
「もちろんです」
少し間を置いて、彼は深く息を吐いた。
「帰ったら、よく言って聞かせます」
アデレードは笑った。
「まあ。叔父上がそれをおっしゃるの?」
レオナールは返答しなかった。
ただ、扇の音だけが、夕方の庭に軽く響いた。




