大公妃
朝は、まだ薄かった。
銀梟の避難所の窓には、白い布が掛けられている。
外から見れば、古い薬種店にしか見えない。
夜の名残を抱いた看板。
閉ざされた表扉。
二階に残る、小さな灯り。
だが、その内側では、夜のうちにいくつもの書簡と符牒が動いていた。
マリアンヌ・ド・ベルティーユは、通信室の机に座っていた。
包帯を巻いた右手は使わない。
左手で封書を揃え、銀梟の印が押された文書を順に確かめる。
机の上には、三種類の書類が並んでいた。
王宮との契約確認。
レティシアの身分証明。
それから、アルベルティーヌ侯爵家への連絡記録。
扉が静かに開く。
ミレーヌが入ってきた。
「アルベルティーヌ侯爵家より、返答が届きました」
マリアンヌは顔を上げた。
「早いですね」
「早馬です。表向きの書簡と、梟鈴の符牒が別便で」
「読みます」
ミレーヌは、まず封書を差し出した。
黒銀の鷲。
アルベルティーヌ侯爵家の紋章だった。
マリアンヌは封を確認し、開いた。
文面は整っていた。
夜半の急報を受け取ったこと。
レティシアの安全確保を、当面マリアンヌに一任すること。
必要な費用、人員、証明書類は、侯爵家より速やかに手配すること。
本人の心身の安定を第一に取り計らってほしいこと。
王家への不信は、どこにも書かれていない。
当然だった。
大貴族の当主が書面で王家を信用できないなどと記せば、それだけで火種になる。
王家はそれを反逆の兆しと受け取ることもできる。
あるいは、そう受け取りたい者が現れる。
アルベルティーヌ家は強い。
だからこそ、軽率な言葉を紙に残さない。
マリアンヌは書簡を畳んだ。
「符牒は」
ミレーヌが、小さな紙片を広げた。
「青薔薇、霜に触れる。温室の窓は閉じる。古い庭師を信じる。娘を冬越しさせよ」
マリアンヌは目を伏せた。
青薔薇。
それはレティシアを示す符牒だった。
霜に触れる。
危険に晒された、という意味。
温室の窓は閉じる。
王宮へは戻さない。
古い庭師を信じる。
マリアンヌに一任する。
娘を冬越しさせよ。
国境の外、または中立地で保護せよ。
「よい判断です」
マリアンヌは静かに言った。
ミレーヌが頷く。
「侯爵家は動きますか」
「動くでしょう。ですが、今すぐ剣を抜く家ではありません」
マリアンヌは紙片を丁寧に畳んだ。
「だから強いのです」
その時、階上からかすかな足音がした。
レティシアだった。
髪はまだ下ろしている。
夜着の上に、薄い外套を羽織っていた。
目元には疲れが残っている。
けれど昨夜よりは、呼吸が深かった。
「先生」
「お目覚めですか」
「はい。……眠れました」
「よろしい」
レティシアの視線が、机の上の封書へ落ちた。
「それは」
「アルベルティーヌ侯爵家からです」
レティシアの指が、外套の端を握った。
「家から……」
マリアンヌは立ち上がった。
「侯爵家は、あなたを見捨てておりません」
その一言で、レティシアの目が揺れた。
「……本当ですか」
「ええ」
マリアンヌは封書を差し出す。
「表向きの書面では、あなたの安全確保を私に一任するとあります。必要な費用、人員、証明書類も、すべて侯爵家が負担すると」
レティシアは震える手で封書を受け取った。
文字を追う。
途中で視界が滲んだのだろう。
何度か瞬きをした。
「王宮へ戻れとは、書かれていないのですね」
「はい」
「家へ戻れとも」
「はい」
レティシアは封書を胸に抱いた。
「私は、捨てられたのではないのですね」
「ええ」
マリアンヌははっきりと言った。
「あなたは捨てられておりません。王太子殿下が、ご自身の価値を落としただけです」
レティシアは、泣きそうな顔で少しだけ笑った。
「先生は、ときどき容赦がありません」
「必要な時には」
「はい」
レティシアは、静かに息を吸った。
「では、私はこれから、どうすればよいのでしょうか」
マリアンヌは答えを急がなかった。
机の上から、別の書類を取る。
「一つ、選択肢があります」
「選択肢」
「ヴィルヘルム公国のアデレード大公妃殿下が、一時後見を申し出てくださっています」
レティシアの目が見開かれた。
「大公妃殿下が、私を」
「ええ」
「なぜ」
「私の古い仕事仲間です。銀梟の遠方支援において、何度も窓口を務めてくださいました。ヴィルヘルム公国は王国とオルディスの中継に位置します。大公妃殿下の後見下に入れば、王国はあなたを簡単には呼び戻せません」
レティシアは黙った。
別の国。
別の大公妃。
後見。
一晩で、あまりにも多くのものが変わっている。
マリアンヌは、それを見て静かに続けた。
「ですが、これは一つの選択肢です」
レティシアが顔を上げる。
「あなたが望むなら、他の方法もあります」
「他の方法……?」
「王国内の安全な修道院へ入ることもできます。アルベルティーヌ家の別領へ移ることもできます。身分を伏せ、銀梟の保護下で暮らすこともできます」
そこで、わずかに声を落とす。
「必要であれば、別名義の戸籍を整え、遠方へ逃がすことも可能です」
レティシアは息を呑んだ。
マリアンヌは、平然としていた。
できないことを言っている顔ではなかった。
「どれを選んでも、私はあなたを見捨てません」
部屋は静かだった。
上階では、誰かが湯を沸かしている。
廊下の奥では、コレットが衣装箱を整えている音がした。
レティシアは、手元の封書を見る。
家は、自分を捨てていない。
先生は、道を示してくれる。
けれど、決めるのは自分だ。
昨夜まで、レティシアの行き先はいつも誰かが決めていた。
王太子妃候補として。
侯爵家の娘として。
王宮に入る者として。
けれど今、マリアンヌは待っている。
「先生」
「はい」
「私は、まだ怖いです」
「当然です」
「王家も、王宮も、もう信じてよいのか分かりません。別の国の高貴な方と聞いても、怖いと思ってしまいます」
「正しい反応です」
マリアンヌの声は、やわらかかった。
「怖いまま、会ってよいのです」
レティシアは目を伏せた。
そして、ゆっくり顔を上げる。
「先生が信用できる方なら、お会いしたいです」
小さな声だった。
だが、自分で選んだ声だった。
「そのうえで、自分で決めたいです」
マリアンヌは頷いた。
「よく言えました」
その一言に、レティシアはまた少しだけ泣きそうになった。
だが、泣かなかった。
扉が開く。
若い侍女が、旅装を抱えて入ってきた。
柔らかな栗色の髪を結い、動きやすい濃灰の服を着ている。
年はレティシアより少し上だろう。
目元は穏やかだが、手つきに迷いがない。
マリアンヌが紹介する。
「こちらはコレット。しばらく、あなたの身の回りを整えます」
コレットは深く礼を取った。
「コレットと申します。銀梟実務学院第六期生です。口の固さと荷造りの速さで採用されました」
レティシアは一瞬、目を瞬いた。
マリアンヌが言う。
「その二つは、今もっとも必要な資質です」
コレットは、真面目な顔で頷いた。
「お任せください。噂話は聞かず、荷物は軽く、足元は暖かく整えます」
レティシアの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「よろしくお願いします、コレット」
「こちらこそ、レティシア様」
コレットは旅装を広げる。
深緑の外套。
白茶のドレス。
灰紫のリボン。
王宮の青ではない。
だが、格は落ちない。
コレットはレティシアの髪を梳き、必要なものだけを選び、不要な飾りを外した。
王宮で身につけていた重たい宝石は、小箱に分けられる。
代わりに、歩ける靴と温かな手袋が用意された。
「こちらの方が、お顔色が落ち着いて見えます」
コレットが、灰紫のリボンを合わせながら言った。
「王宮色を避けるよう、女史よりご指示がありました」
レティシアは鏡を見た。
青ではない自分がいる。
それだけで、少し知らない人のようだった。
けれど、嫌ではなかった。
「では、参りましょう」
マリアンヌの声で、レティシアは立ち上がった。
出立は、朝の門が混み始める前だった。
銀梟の馬車は、裏通りを抜ける。
徽章はない。
窓には厚い布が掛けられている。
御者は王都馬車組合の者だった。
だが、普段の組合章を外していた。
護衛は四人。
商人の護衛にも、貴族家の従僕にも見える。
けれど、馬車の速度に合わせて動く間合いはよく訓練されていた。
レティシアの隣には、コレットが座っている。
マリアンヌは向かいに座り、書類を確認していた。
包帯を巻いた右手をかばいながら、左手で頁をめくる。
「先生」
「はい」
「アデレード大公妃殿下は、どのような方なのですか」
マリアンヌの指が、紙の上で少しだけ止まった。
「強い方です」
「先生がそう仰るほどに?」
「ええ」
レティシアは小さく息を吐いた。
「それは、とても強い方なのですね」
コレットが、笑わないように目を伏せた。
マリアンヌは気づいていたが、咎めなかった。
馬車は王都を離れた。
朝靄の中を進み、街道へ出る。
途中で一度、馬を替えた。
昼前には王国の北東境へ近づき、夕方にはヴィルヘルム公国の関所を越えた。
銀梟の紹介状は、そこで効いた。
関所の役人は、封蝋を見ただけで態度を改めた。
長く待たされることはなかった。
合流地点は、ヴィルヘルム公国の古い駅館だった。
かつて郵便馬車の中継所として使われ、今は貴賓用の休憩所になっている。
石造りの建物。
蔦の絡む壁。
手入れの行き届いた前庭。
門には、公国の紋章が掲げられている。
馬車が止まった。
レティシアの心臓が、一つ大きく鳴る。
先に降りたのは、護衛だった。
続いてコレットが降りる。
マリアンヌが手を差し出した。
「大丈夫です」
「はい」
レティシアはその手を取って、馬車を降りた。
夕方の光が、駅館の玄関を染めている。
その扉が、内側から開いた。
姿を見せたのは、背の高い女性だった。
深い紅のドレス。
駅館の玄関にはいささか華やかすぎるほどの装いだったが、不思議と場に合っていた。
濃い髪は高く結い上げられ、唇には強い色の紅が引かれている。
手には、大きな扇。
彼女はその扇を、ばさりと開いた。
「久しぶりね、マリアンヌ」
声はよく通った。
「梟鈴越しでなく顔を見るのは、八年ぶりかしら?」
マリアンヌは、深く礼を取った。
「七年と十か月ぶりでございます、アデレード大公妃殿下」
「相変わらず、情緒より数字を優先するのね」
「必要な場面では」
「ええ、知っているわ。あなたのそういうところ、昔から便利だったもの」
アデレードは扇の向こうで笑った。
「そして、とても頼もしかった」
レティシアは、その女性から目を離せなかった。
高い。
強い。
明るい。
だが、軽くはない。
部屋の灯りより先に、その人の存在が場を照らしているようだった。
アデレードの視線が、レティシアへ移る。
「あなたがレティシアね」
「はい。レティシア・フォン・アルベルティーヌと申します」
レティシアは礼を取った。
昨夜より体は疲れている。
それでも、膝の角度は崩さなかった。
アデレードは、その礼をじっと見た。
そして、扇を閉じる。
「顔を上げなさい」
レティシアは顔を上げた。
「泣いたわね」
胸が、ひやりとした。
「はい」
「それでも、礼は崩れていない」
アデレードは頷いた。
「よろしい。マリアンヌ、いい子を育てたわね」
マリアンヌは答えない。
ただ、わずかに目を伏せた。
アデレードは、卓上に置かれた書類へ扇を向ける。
「確認しておくけれど、私はあなたを哀れんで後見するのではないわ」
レティシアの肩が、わずかに強張る。
「はい」
「マリアンヌが十年育てた娘を、安く扱うほど私の目は悪くありません」
胸の奥が、熱くなった。
「書面上は被後見人。社交上は、私の庇護下にある令嬢。王国が気軽に呼び戻せる娘ではなくなる」
レティシアは、静かに息を吸った。
「……私が、それを望めば、でしょうか」
アデレードは、そこで初めて笑った。
「ええ。ここは王宮ではないもの」
レティシアは一度、マリアンヌを見た。
マリアンヌは何も言わなかった。
待っている。
レティシアは、少しだけ目を伏せた。
昨夜から何度も聞いた言葉だった。
あなたが望むなら。
あなたの同意があれば。
自分で決めてよい。
そのたびに、胸の奥の固いものが少しずつ解けていく。
「アデレード大公妃殿下」
「ええ」
「どうか、私の後見をお引き受けいただけますでしょうか」
「喜んで」
返答は早かった。
アデレードは扇を開く。
「では今日は、好きな菓子を一つ選んで、湯を使って眠りなさい。書類はこちらで整えるわ」
レティシアは瞬きをした。
「それだけで、よろしいのですか」
「それだけが、今のあなたの仕事よ」
仕事。
その言葉で言われると、受け取りやすかった。
レティシアは小さく頷いた。
「……承知いたしました」
コレットがそっと付き添い、卓上の菓子の皿を示す。
小さな焼き菓子。
果物の砂糖煮。
薄く焼いた蜂蜜菓子。
檸檬の香りのするもの。
木苺を挟んだもの。
レティシアは迷いながら、指先を伸ばした。
すぐに取らない。
一つ一つを確かめるように見ている。
コレットが、やわらかく言った。
「お急ぎにならなくて大丈夫です。どれも逃げませんから」
レティシアは、ほんの少しだけ笑った。
「では、これを」
「檸檬ですね」
「はい。好きなのです」
アデレードはそれを見届けてから、マリアンヌへ視線を移した。
「これで、ヴィルヘルムは正式に介入できる」
その声は低くなっていた。
先ほどまでの華やかさは消えている。
「王国は、もうあの子を勝手には扱えない」
「ありがとうございます」
「礼は不要よ。必要なことをしただけ」
アデレードは扇の陰からマリアンヌを見る。
「それで、オルディスは?」
「すでに動いています」
「でしょうね」
その時、駅館の執事が庭へ入ってきた。
「大公妃殿下。オルディス王国より急報でございます」
アデレードの扇が止まった。
「読みなさい」
「レオナール王弟殿下が、ヴィルヘルム国境を越えられました。随行は外交書記二名、護衛八名、医師一名。王家保証状と銀梟中立条項草案を携行とのことです」
沈黙が落ちた。
アデレードは、ゆっくりとマリアンヌを見た。
「相変わらず、足の速い殿方ね」
マリアンヌは目を伏せた。
「……相変わらず、お早いこと」
レティシアは、檸檬の菓子を手にしたまま、二人を見た。
オルディス王国。
王弟殿下。
銀梟中立条項。
また知らない言葉が増えていく。
けれど今度は、昨夜のような恐怖だけではなかった。
自分の行き先を、誰かが勝手に決めているのではない。
大人たちが、彼女の同意を前提に、道を整えている。
そのことだけは、分かった。
レティシアは、菓子を一口かじった。
檸檬の香りがした。
甘くて、少し酸っぱい。
それは、王宮で食べたどの祝い菓子よりも、はっきりと味がした。




