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夜に、梟は飛びますか

馬車は、王宮の灯りを背にして走った。


車輪が石畳を叩く音だけが、夜の中に続いている。

窓の外では、王都の建物が黒く流れていた。


レティシアは、膝の上で手を握っていた。


正しい姿勢だった。


それが、かえって痛々しかった。


「レティシア」


向かいに座るマリアンヌが、静かに呼んだ。


「はい」


「もう、背を伸ばしていなくても構いません」


その一言で、レティシアの肩が震えた。


何かが切れたように、息が乱れる。

けれど泣き声は出なかった。


十年かけて身についた作法は、悲しみの中でも彼女を縛っている。


マリアンヌは何も急かさなかった。


ただ、給仕係が持たせてくれた籠を開ける。

保温壺の蓋を外すと、湯気が上がった。


鶏と根菜のスープだった。


「まずは、温かいものを」


「……食べられるでしょうか」


「食べられます」


マリアンヌは、匙を渡した。


「一口で結構です。胃に仕事を思い出させなさい」


レティシアは、小さく頷いた。


匙を持つ手が震えている。

それでも、口に運んだ。


湯気が頬に触れる。


レティシアは、そこで目を伏せた。


「温かいです」


「ええ」


それだけの会話だった。


けれど、その一口で、レティシアはようやく自分がひどく冷えていたことに気づいた。


マリアンヌは、自分の右手を見た。


白い手袋の下で、傷口がじくじくと痛んでいる。

血は止まりかけていたが、きちんと洗わなければならない。


レティシアがそれに気づいた。


「先生、お手が」


「あとで処置します」


「今してください」


声は弱かった。


だが、命令に近かった。


マリアンヌは少しだけ瞬きをする。


レティシアは涙の残る目で、まっすぐにマリアンヌを見ていた。


「私には食べろと仰ったのに、先生はご自分の傷を後回しになさるのですか」


その言い方が、あまりにマリアンヌの授業に似ていた。


マリアンヌは、ほんの少し口元を緩めた。


馬車は、王都の大通りを外れた。


華やかな店の灯りが遠ざかる。

代わりに、古い石壁と細い路地が増えていった。


やがて馬車は、王都北区の一角で止まった。


そこは、薬種店に見えた。


古びた看板には、乾燥薬草と煎じ薬の名が書かれている。

表の戸は閉まっていた。

だが、二階の窓にだけ、小さな灯りが残っている。


門衛が馬車の扉を開けた。


「到着いたしました」


マリアンヌは降りる。

続いて、レティシアの手を取った。


夜気が冷たい。


だが王宮を出た時のような、胸を締めつける冷えではなかった。


マリアンヌは裏口へ回った。


細い扉。

真鍮の小さな呼び鈴。

その上に、目立たぬ銀の梟が彫られている。


マリアンヌは、二度、間を置いて一度、鈴を鳴らした。


内側から、女の声がした。


「夜に、梟は飛びますか」


マリアンヌは答えた。


「灯る窓へ帰ります」


しばらく沈黙があった。


それから、鍵の外れる音がした。


扉が開く。


中に立っていたのは、五十を過ぎた女だった。

灰色の髪をきちんとまとめ、黒い質素な服を着ている。

修道女ではない。

だが、その立ち方には祈りに似た静けさがあった。


彼女はマリアンヌを見て、次にレティシアを見た。


そして、深く頭を下げた。


「お帰りなさいませ、ベルティーユ女史」


レティシアは、その言葉に息を呑んだ。


お帰りなさい。


王宮を出てから初めて聞いた、帰る場所の言葉だった。


マリアンヌは頷いた。


「夜分に申し訳ありません、ミレーヌ」


「銀梟の窓は、夜に閉めるためのものではございません」


ミレーヌと呼ばれた女は、当然のように扉を開けた。


「どうぞ。火は入っております。湯も沸かしてあります。客室は二階の奥を」


「早いですね」


「王宮の厨房から、先に知らせが」


レティシアが目を見開く。


ミレーヌは、少しだけ笑った。


「給仕係のロイですね。あの子は足が速い」


マリアンヌはため息をついた。


「まったく」


「よく育ちました」


「ええ」


中へ入ると、薬草の匂いがした。


乾いたラベンダー。

煎じた根。

石鹸。

焼きたてではないが、温め直したパンの匂いもある。


廊下の奥から、若い女が二人出てきた。


一人は包帯と湯を持っている。

もう一人は厚手の毛布を抱えていた。


「女史、お手を」


「先にレティシア様を」


「いいえ」


若い女は、きっぱりと言った。


「女史の右手が先です。血の匂いがします」


マリアンヌは一瞬、黙った。


ミレーヌが淡々と付け加える。


「ここでは、助ける側も手当てを受ける決まりです」


レティシアが、小さく頷いた。


「先生。決まりでしたら」


マリアンヌは、観念したように椅子へ座った。


「……分かりました」


若い女は、手際よく手袋を外した。


傷は深くはなかった。

だが、破片が一つ残っていた。


レティシアの顔が青ざめる。


「先生」


声は震えていた。


それでもレティシアは目を逸らさなかった。


若い女が破片を抜く。

血が少しだけ滲む。

薬湯で洗い、軟膏を塗り、白い布を巻いた。


マリアンヌは、終始静かだった。


「終わりました」


「ありがとう」


「お礼を言われることではございません」


若い女は、少し目を細めた。


「昔、女史に言われました。傷は、隠すと悪くなると」


「そうでしたか」


「はい。私はそれで助かりました」


それ以上は言わなかった。


言わずとも、レティシアには分かった。


ここには、そういう人たちがいる。


王宮のように、誰かの血筋や席次で動く場所ではない。

傷ついた者が来る。

名前を失いかけた者が来る。

帰れない者が来る。


そして、マリアンヌはその場所を作った人だった。


「レティシア様」


ミレーヌが声をかける。


「お部屋をご用意しております。まずは湯をお使いください。お召し物も、簡素なものですが」


「私のために、そこまで」


「銀梟に来られた方へすることです」


ミレーヌは、まっすぐに言った。


「ここでは、皆さま、まず眠っていただきます。泣くのも、怒るのも、考えるのも、その後で結構です」


レティシアは、言葉を失った。


王宮では、泣く順番も、怒る場所も、考える姿勢も決められていた。


ここでは、眠れと言われる。


それが、こんなにも難しいとは思わなかった。


「先生」


レティシアはマリアンヌを見た。


「私は、本当にここにいてよろしいのでしょうか」


マリアンヌは包帯を巻かれた手を膝に置き、静かに答えた。


「ええ」


「私には、もう何も」


「あります」


マリアンヌの声は、強かった。


「名前があります。学んだことがあります。あなた自身があります」


レティシアの目がまた潤んだ。


湯を使い、髪を解かれ、温かな夜着に着替えると、レティシアの体から急に力が抜けた。


寝台に横たわる。


それでも指先だけは、掛布を握っていた。


「先生」


「はい」


「どこにも、行かないでください」


その声は、王太子妃候補のものではなかった。


母を亡くした日の少女の声だった。


マリアンヌは少しだけ身をかがめた。


「この建物の中におります」


「本当に」


「ええ。銀梟の窓は、内側から鍵をかける場所です。外から奪わせるための場所ではありません」


レティシアは小さく頷いた。


ミレーヌが、鎮静の茶を差し出す。


薬ではない。

眠りを無理に落とすものでもない。

体を温め、呼吸をゆるめるための茶だった。


レティシアはそれを飲み、ようやく目を閉じた。


寝息が落ち着くまで、マリアンヌは待った。


それから、静かに立ち上がる。


ミレーヌが扉の前で待っていた。


「梟鈴を開けております」


「ありがとう」


「今夜は鳴るでしょう」


「ええ」


マリアンヌは包帯を巻かれた右手を見た。


「鳴らします」


銀梟の避難所は、表向きには薬種店だった。


だが、奥の棚を開けると、小さな階段がある。

降りた先は、低い天井の通信室だった。


壁一面に、真鍮の小さなベルが並んでいる。


それぞれに番号札がついていた。


一番、北区診療所。

二番、馬車組合。

三番、王都南区の仕立屋。

四番、銀梟通商社。

五番、女子実務学院。

六番、聖クラリス修道院王都分院。

七番、港倉庫。

八番、外務書記互助会。

九番、外国窓口。


中央の机には、円形の番号盤が置かれている。


マリアンヌは椅子に座った。

ミレーヌが符牒帳を開く。


「声を乗せますか」


「いいえ。今夜は符牒で」


盗聴の危険は低い。

だが、低いだけだった。


マリアンヌは番号盤へ指を置く。


右手は包帯で使いづらい。

左手で、ゆっくりと回した。


梟鈴が、低く鳴る。


短く二度。

間を置いて一度。

長く一度。


北区診療所への合図だった。


しばらくして、壁の一番ベルが返事をした。


短く一度。

長く二度。


受信可。


マリアンヌは符牒を送った。


若い貴婦人。

強い精神的打撃。

外傷なし。

睡眠薬不要。

温石、鎮静茶、軽い食事。


返事は早かった。


明朝、女医一名を送る。

名は伏せる。

記録は銀梟管理。


「よろしい」


マリアンヌは次を回した。


二番、馬車組合。


明朝、馬車二台。

徽章なし。

御者は口の固い者。

護衛は王宮兵に見えぬ者四名。


返事。


手配可。

北門経由は不可。

東市場経由を推奨。


「東市場……王宮兵の巡回が薄いのですね」


ミレーヌが頷く。


「今夜は祝宴警備で中央に寄っています」


「では、そのように」


三番、仕立屋。


若い令嬢の旅装。

王宮色を避ける。

格を落とさず、目立たぬもの。

教師用外套一着。

手袋、右手包帯を隠せるもの。


返事。


夜明け前に届ける。

採寸は旧記録を使用。


マリアンヌは少しだけ考えた。


符牒を送る。


薄青を避ける。

深緑、灰紫、白茶。


返事。


承知。


四番、銀梟通商社。


王宮納入契約、即時確認。

外交書簡紙、封蝋、写本、教育紙。

更新権停止の準備。

ただし正式通知は朝まで待つ。


返事は、少し間が空いた。


やがて、ベルが鳴った。


既に起案済み。

女史の署名待ち。


ミレーヌが小さく笑った。


「早いですね」


「早すぎます」


マリアンヌは淡々と言った。


「夜会の途中で作ったのでしょう」


五番、女子実務学院。


王宮推薦枠、凍結準備。

派遣中の侍女・書記の安全確認。

卒業生への沈黙指示。

噂の拡散は止めず、誤情報のみ訂正。


返事。


学院長在席。

全卒業生名簿照合中。

合言葉を変更するか。


マリアンヌは符牒帳の端を見た。


「変更します」


ミレーヌが新しい符牒紙を差し出す。


「今夜から?」


「今夜から」


梟鈴が、また鳴る。


地下の通信室に、短い音と長い音が積み重なっていく。


それは音楽ではなかった。


だが、秩序があった。


一つ鳴るごとに、どこかの扉が開く。

一つ鳴るごとに、誰かが起きる。

一つ鳴るごとに、馬車が整えられ、書類が隠され、暖炉に火が入る。


マリアンヌは、淡々と連絡を続けた。


護衛。

侍女。

女医。

仕立屋。

通商社。

学院。

修道院。

港倉庫。

外務書記。


そのすべてが、王宮ではない場所にあった。


だが、王宮より早く動いた。


やがて、九番のベルが鳴った。


マリアンヌは、まだ番号盤に触れていなかった。


ミレーヌが顔を上げる。


「九番です」


「外国窓口ですね」


「ええ」


ベルは、短く二度、長く一度。

間を置いて、短く三度。


緊急ではない。

だが、優先。


ミレーヌは符牒を読み取った。


「……オルディス王国大使館より。ベルティーユ女史の所在確認。保護の要否を問う」


通信室に、短い沈黙が落ちた。


マリアンヌは、わずかに眉を上げた。


「あら、もうですか」


ミレーヌの目が細くなる。


「相変わらず耳が良い国でございますね」


「ええ」


マリアンヌは、番号盤から手を離した。


「よいでしょう。私から接触します」


「通常符牒で?」


「いいえ」


マリアンヌは少しだけ迷った。


それから、符牒帳ではなく、机の引き出しを開ける。

奥から、細い銀の札を取り出した。


表には、梟ではなく、小さな灯窓の印が彫られている。


ミレーヌが、それを見て姿勢を正した。


「個人線をお使いに?」


「今夜は、その方が早いでしょう」


ミレーヌは何も言わなかった。


ただ、梟鈴の脇に置かれたもう一つの小さな通信盤を開いた。


これは普段、使われない。


番号はない。

ただ、真鍮の盤面に細い文字が刻まれている。


九年前、東方三国の席次調停が終わった夜。

オルディス王弟レオナール殿下から贈られたものだった。


表向きは、遠方支援の連絡具。

実態は、銀梟とオルディス王家だけが使える秘匿通信線だった。


マリアンヌは、銀の札を差し込んだ。


小さなベルが鳴る。


今度の音は、先ほどまでの梟鈴よりも澄んでいた。


一度。

長く。

間を置いて、二度。


マリアンヌは符牒を送った。


九年前の席次表を、まだお持ちですか。


返事は、すぐには来なかった。


ミレーヌが黙って待つ。

マリアンヌも待った。


地上では、レティシアが眠っている。


ここで急いではならない。


急ぎすぎる通信は、相手の余裕を奪う。

マリアンヌはそう教えてきた。


やがて、ベルが鳴った。


短く一度。

長く一度。

短く二度。


ミレーヌが紙へ写す。


そして、少しだけ目を見開いた。


「女史」


「読みなさい」


ミレーヌは、静かに読んだ。


「席は、空けてあります」


マリアンヌは、何も言わなかった。


ただ、包帯の巻かれた右手を、左手でそっと押さえた。


ミレーヌは続ける。


「続きがございます」


ベルが鳴る。


短く。

短く。

長く。


「一時保護、即時受入。レティシア嬢の後見、手配可能。銀梟中立、尊重。王国への抗議、事実確認後。女史の安全、最優先」


マリアンヌは、静かに息を吐いた。


「相変わらず、判断が早い方ですね」


「いかがなさいますか」


マリアンヌは、左手で番号盤を回した。


レティシア嬢、同伴。

一時保護を要請。

後見希望。

銀梟中立、譲歩不可。

王宮との契約整理後、接触。


返事はすぐだった。


了解。

迎えの使節、出立準備済。

必要なら本人が行く。


ミレーヌが目を伏せた。


「本人、とのことです」


「困った方ですね」


「お断りに?」


マリアンヌは、少しだけ沈黙した。


それから、静かに言った。


「いいえ」


包帯を巻いた手を見つめる。


「今夜は、困った方に頼るべきでしょう」



同じ夜。


オルディス王国、王都ルグランの王宮では、すでに灯りが落ちていなかった。


深夜である。


だが、王弟レオナール・オルディスの執務室には、四人の書記官と二人の外務官が残っていた。


机の上には地図が広げられている。


王国。

中継国ヴィルヘルム公国。

オルディス王国。


三つの国境線に、細い赤の紐が引かれていた。


「王国側の夜会に出席していた使者から、追加報告です」


外務官が、封書を差し出した。


レオナールは封を切った。


読み終えるまで、表情は変わらなかった。


だが、室内にいた者たちは、誰も口を開かなかった。


王弟殿下は、怒鳴る方ではない。

怒りを机に叩きつける方でもない。


その代わり、声が低くなる。


紙を置く音が、静かに響いた。


「確認する」


レオナールは言った。


「王太子エドガルドは、婚約披露宴の場でレティシア嬢との婚約破棄を宣言した」


「はい」


「その直後、エミリア・ロゼット子爵令嬢を新たな王太子妃候補とすると述べた」


「はい」


「さらに、ベルティーユ女史へ、子爵令嬢の王妃教育を命じた」


「そのように」


「女史が断った」


「はい」


「その女史に対し、婚姻と子に関する侮辱を行い、王宮からの退去を命じた」


外務官は、わずかに顔を伏せた。


「……はい」


沈黙が落ちた。


レオナールは、地図の上に指を置いた。


王都から北東へ。

国境を越え、中継国を経て、オルディスへ至る道。


「王国には正式に抗議する」


即座に、書記官が筆を取った。


「名義は」


「王家名義。文面は外務卿と調整。だが、初報は今すぐ出せ。抗議の理由は二つ。王国夜会における高位女性への公的侮辱。もう一つは、オルディスが過去に支援を受けた銀梟教育基金理事長への不当な扱いだ」


「承知しました」


「王国駐在の大使館へ。ベルティーユ女史の所在を確認。可能であれば即時保護」


「保護の権限は」


「オルディス王妃慈善事業の共同協力者として招聘する。名目は医療慈善顧問。女史本人の同意が取れ次第、保護文書を発行」


別の書記官が顔を上げた。


「レティシア嬢は」


「同時に保護対象とする」


レオナールは答えた。


「婚約破棄直後の高位令嬢を、夜間に不安定な身分で放置することはできない。王国側が保護を怠ったなら、我が国が受ける理由になる」


「後見人の候補は」


「ヴィルヘルム公国のアデライード大公妃に打診。彼女はベルティーユ女史の旧知だ。レティシア嬢を一時的な被後見人として迎えられる」


「中継地はヴィルヘルムでよろしいですか」


「よい。王国領内での接触は避ける。王国側に拘束の口実を与えない」


指示は速かった。


迷いがない。


夜中に起こされた官吏たちも、混乱しなかった。

王弟殿下がこういう時に必要とするものは決まっている。


書類。

通行許可。

護衛。

中立地。

そして、後で誰にも崩されない名目。


レオナールは一枚の紙を引き寄せた。


「中立条項の草案を出せ」


書記官が一瞬だけ手を止めた。


「銀梟の、ですか」


「そうだ」


奥の棚から、厚い綴じ書類が出された。


表紙には、細い文字で書かれている。


《銀梟教育基金および関連事業の独立保障に関する覚書草案》


数年前から存在する書類だった。


誰も、それを口にしなかった。


レオナールは頁をめくった。


「第一条、銀梟教育基金は、いかなる王家、貴族家、商会にも所有されない。第二条、マリアンヌ・ド・ベルティーユの婚姻、移住、招聘によって、基金、学院、通商社の議決権は移転しない。第三条、オルディス王家は、銀梟の中立性と活動の安全を保証する」


淡々と確認する。


「第四条以降を、今夜の日付で現状に合わせて改める。レティシア嬢の一時保護と、ヴィルヘルム公国での後見を加えろ」


「承知しました」


その時だった。


部屋の奥で、澄んだ音が鳴った。


一度。

長く。

間を置いて、二度。


全員が動きを止めた。


普通の通信音ではない。


王弟の執務室に置かれた、個人用の通信盤。

銀梟とオルディス王家だけが使う秘匿回線だった。


レオナールの顔が変わった。


感情が出たわけではない。


ただ、そこにあった仕事の順序が、一瞬で組み替わった。


「通信盤を中央へ」


近侍が動くより早く、レオナール自身が机の上の書類を脇へ払った。


地図がずれる。

封書が落ちる。

筆が転がる。


構わなかった。


小さな真鍮の通信盤が、机の中央へ置かれる。


銀の札が差し込まれていた。

窓の形をした印が、盤面で淡く光っている。


レオナールは、椅子に座らなかった。


立ったまま、指先を盤に置いた。


通信音が、短く続く。


書記官が即座に符牒を写し取る。


九年前の席次表を、まだお持ちですか。


室内の空気が変わった。


その一文で、相手が誰かは分かった。


レオナールは目を伏せた。


九年前。

東方三国の使節が、席次一つで会議を流しかけた夜。


上座を譲れぬ者たちに対し、マリアンヌ・ド・ベルティーユは言った。


上座をなくせばよろしいのです。


その席次表を、レオナールは今も持っている。


「返す」


彼は短く言った。


書記官が手を構える。


レオナールは符牒を打った。


席は、空けてあります。


返した後で、わずかに沈黙があった。


長すぎない。

短すぎない。


相手が受け取ったと分かるだけの間だった。


続いて、マリアンヌ側から符牒が届く。


レティシア嬢、同伴。

一時保護を要請。

婚姻ではなく、まず後見。

銀梟中立、譲歩不可。

王宮との契約整理後、接触。


レオナールは、すぐに返した。


了解。

迎えの使節、出立準備済。

必要なら本人が行く。


符牒を送ったあと、彼はそのまま次を打った。


保護条件、即時提示可。

銀梟中立条項、草案あり。

レティシア嬢の後見、受入可能。

女史の安全、最優先。


通信盤の向こうから、短い返事が来る。


灯る窓にて待つ。

ただし、軍靴は不要。


レオナールは、そこで初めて息を吐いた。


「承知」


彼は符牒を返した。


礼装で向かう。


通信はそこで終わった。


小さな真鍮の盤から光が消える。


しばらく、誰も声を出さなかった。


レオナールは通信盤から指を離した。


それから、落ちた書類を拾わせることもなく、扉の方へ向いた。


「私が向かう」


外務官が顔を上げた。


「殿下自らですか」


「そうだ」


「夜半でございます。正式使節を整えるには」


「夜明けを待たない」


レオナールの声は、静かだった。


「王国側が思い直す前に、彼女たちを中立地へ移す」


「しかし」


「ベルティーユ女史は、オルディスの恩人だ」


それだけで、室内の全員が黙った。


過去の飢饉の年。


北の修道院へ薬と塩を送ったのは銀梟だった。

王妃慈善局の帳簿を立て直したのも、マリアンヌだった。

国境の寡婦院が冬を越せたのも、彼女の連絡網があったからだった。


国家として、返すべき恩義だった。


「それに」


レオナールは続けた。


「彼女の教え子もいる」


地図の上、中継国ヴィルヘルムの位置を示す。


「婚約破棄直後の令嬢を、王国がどのように扱うかは分からない。噂が先に走れば、本人の名誉は守れない。保護は早いほどよい」


「随行は」


「外交書記二名。護衛八名。王家保証状。銀梟中立条項草案。レティシア嬢後見受入の打診状。王国への抗議文の写し。医師一名。侍女二名」


「護衛八名は多いのでは」


「少ない」


誰もそれ以上言わなかった。


「服装は」


近侍が問う。


レオナールは、先ほどの符牒を思い出した。


軍靴は不要。


「礼装」


彼は言った。


「ただし移動できるもの。剣は儀礼剣。弓兵は連れていくな。王国へ軍事的口実を与えない」


「馬車は」


「王弟家の徽章は使う。ただし王国領内には入らない。ヴィルヘルムで待つ」


「女史が王国から出られない場合は」


「こちらから交渉する」


「王国が拒めば」


レオナールは、少しだけ目を上げた。


「その時は、王国が銀梟の保護を拒んだという記録が残る」


外務官が、静かに頭を下げた。


「承知しました」


出立準備が始まった。


書記官が草案を写す。

近侍が礼装を用意する。

外務官が抗議文の初稿を整える。

護衛隊長が、音を立てずに部屋を出ていく。


レオナールは最後に、机の上に残った一枚の紙を取った。


王国の夜会に出席した使者からの報告書だった。


そこには、マリアンヌへの侮辱が淡々と記録されている。


婚期も逃した石女。


文字は、ただの文字だった。


だが、読めば読むほど、その場の冷えた空気が分かる。


レオナールは紙を伏せた。


「王国への抗議文に、この表現をそのまま入れるな」


「よろしいのですか」


「繰り返す価値もない」


彼の声は低かった。


「だが、侮辱の内容が婚姻と子に関するものであったことは明記しろ。各国の貴婦人と慈善団体が読む文書だ。王国が何を踏んだのか、分かるように」


「承知しました」


レオナールは窓の外を見た。


夜は深い。


だが、待つ理由にはならない。


「三十分で出る」


「殿下」


近侍が、礼を取る。


「王妃陛下へは」


「知らせろ。兄上にも」


少しだけ間を置き、レオナールは続けた。


「ただし、私は止まらない」


近侍は、深く頭を下げた。


「そのようにお伝えします」


レオナールは通信盤を見た。


先ほどまで、あの向こうに彼女がいた。


王宮から追い出され、教え子を連れた手で符牒を打っていた。


それでも彼女は、最初に条件を送ってきた。


レティシア嬢の保護。

銀梟の中立。

王宮との契約整理。


自分の身より先に。


レオナールは、静かに目を伏せた。


変わらない。


九年前から、何一つ変わらない。


だからこそ、急がなければならない。


「馬を」


彼は言った。


「恩人と、その教え子を迎えに行く」


その夜、オルディス王宮の北門が開いた。


軍旗は掲げなかった。

弓兵も連れなかった。


先頭に立ったのは、礼装の王弟だった。


だが、その出立は、どの軍行よりも速かった。

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