私を信じて、ついてきてくれますか
レティシアの部屋には、灯りが一つだけ残っていた。
婚約披露宴のために整えられた夜着も、飾り棚の花も、そのままだった。
窓辺には、まだ祝いのための薄絹が掛かっている。
淡い金糸で、王家の紋章が刺繍されていた。
その前で、レティシアは寝台の端に座っていた。
背筋は伸びている。
両手は膝の上に置かれている。
指先まで、正しい姿勢だった。
泣いていた。
それでも、泣き崩れることだけはしなかった。
声も上げない。
顔を覆うこともしない。
ただ、涙だけが頬を伝っていた。
マリアンヌ・ド・ベルティーユは、扉の前で足を止めた。
「レティシア様」
レティシアが顔を上げた。
「先生」
声が、かすかに震えていた。
「私は、何を間違えたのでしょうか」
マリアンヌは、すぐに答えた。
「あなたは間違えておりません」
レティシアの目が揺れた。
「ですが、殿下は」
「殿下が間違えたのです」
部屋の中が、静かになった。
控えていた侍女たちが、息を呑む。
その中の一人が、そっと目を伏せた。
レティシアは唇を結んだ。
「私はもう、王太子妃候補ではありません」
「ええ」
「家にも、戻れないかもしれません」
「ええ」
「先生まで、巻き込んでしまいました」
「いいえ」
マリアンヌは静かに首を振った。
右手の手袋には、薄く血が滲んでいる。
割れたグラスで切った傷だった。
処置は、まだしていない。
「私は、私の意志でここにおります」
レティシアは、何か言おうとした。
けれど言葉にならなかった。
十年。
王太子妃になるための十年だった。
朝の挨拶。
食卓の作法。
外国語。
諸侯の家名。
慈善事業の帳簿。
宮中序列。
宗教儀礼。
祝祭予算。
外交文書の返礼。
泣きたい日にも、姿勢を崩さないこと。
怒りたい場でも、場の格を守ること。
侮辱されても、王家の席を乱さないこと。
そのすべてを、レティシアは学んだ。
そして今夜。
それを教えた相手の前で、すべてを踏みにじられた。
マリアンヌは、レティシアの前に立った。
「この王宮に、あなたの十年を預ける価値はなくなりました」
レティシアの肩が震えた。
「ですが、あなたの十年は消えておりません」
マリアンヌは手を差し出した。
「外交文書は読めます。諸侯の名も覚えています。祝祭予算も組めます。慈善事業の帳簿も見られます。あなたは、ただ王太子殿下の隣に飾られるために育ったのではありません」
「先生……」
「私は、王宮を出ます」
レティシアが瞬きをした。
「王宮を、ですか」
「ええ」
マリアンヌの声は、穏やかだった。
「この王宮に、あなたの十年を預ける価値はなくなりました。ならば、ここに残る理由もございません」
レティシアの唇が震えた。
「ですが、私は」
「行き先は、外へ出てから整えます」
マリアンヌの声は、穏やかだった。
「私を信じて、ついてきてくれますか、レティシア」
差し出された手を、レティシアは見た。
白い手袋に、赤が滲んでいる。
レティシアは震える息を吸った。
それから、ゆっくりと手を伸ばした。
「先生を、信じます」
マリアンヌは、その手を取った。
「よく言えました」
その言葉に、レティシアの目からまた涙が落ちた。
だが今度は、俯かなかった。
マリアンヌが扉へ目を向ける。
「支度を」
その一言で、部屋の空気が変わった。
控えていた侍女たちが、一斉に動き出した。
「旅装は整えてございます」
一人が深く膝を折る。
「宝石類は最小限に。代わりに、身分証書、語学課程の修了証明、慈善局実習記録、諸侯家系譜試験の写しをおまとめしました」
「王妃教育課程表の写しは、女史の権限により回収済みです」
若い書記が革箱を差し出す。
「銀梟教育基金の封筒もございます。こちらは未開封で三通」
レティシアは目を見開いた。
「あなたたち……」
侍女の一人が、ほんの少し笑った。
「王太子殿下は、今すぐ王宮から出ていけと仰せでしたので」
別の侍女が続ける。
「今すぐお出になれるよう、整えました」
マリアンヌは彼女たちを見た。
「手際がよろしいですね」
侍女たちは、そろって背筋を伸ばした。
「先生に教わりましたので」
レティシアは、そこでようやく気づいた。
この侍女たちの多くは、マリアンヌの学院で学んだ娘たちだった。
没落した貴族家から奉公に出た者。
銀梟の奨学金で書簡術を覚えた者。
孤児院から王宮書記見習いに上がった者。
寡婦基金の推薦で会計補助として採用された者。
王宮に仕えている。
だが、彼女たちの背筋を伸ばしたのは、王太子ではなかった。
「馬車は裏門に」
「暖炉石を入れております」
「外套はこちらを。夜気が冷えますので」
「靴は宴用ではなく、歩けるものを」
次々に用意が整っていく。
誰も泣かなかった。
誰も騒がなかった。
職務の範囲で。
礼を乱さず。
必要なものから順に。
マリアンヌが教えた通りに。
廊下へ出ると、夜の王宮は静かだった。
遠くでは、まだ婚約披露宴の残り香が漂っている。
花。
香油。
酒。
磨かれた床。
そのすべてが、ひどく遠く感じられた。
裏門へ向かう角で、誰かが小走りに近づいてきた。
給仕係の青年だった。
銀の盆ではなく、革の手提げ籠を抱えている。
「ベルティーユ女史。レティシア様」
彼は息を整え、深く頭を下げた。
「お疲れでしょう。急ぎでしたので簡素なものですが、お持ちください」
籠の中には、布で包まれた保温壺が二つ。
薄く切ったサンドイッチ。
紙袋に入ったクッキー。
それから、蜂蜜を落とした温かい飲み物の瓶が入っていた。
「厨房長が、今夜の仔牛は重いからおやめになった方がいいと。まずはスープを、と」
レティシアの目が揺れた。
「私、何も」
「召し上がっておられません」
給仕係は、当たり前のように答えた。
「王太子殿下のご挨拶の前から、お皿に手をつけておられませんでしたので」
マリアンヌは籠を受け取った。
「よく見ていましたね」
給仕係は、少しだけ誇らしげに背筋を伸ばした。
「先生に、教わりました」
マリアンヌは一瞬、目を伏せた。
「そうでしたね」
給仕係は、にこりと笑った。
「クッキーは檸檬です。レティシア様は、あれなら召し上がれるかと」
レティシアは唇を震わせた。
「ありがとう」
「どうか、道中お気をつけて」
給仕係はもう一度頭を下げた。
それから、少しだけくだけた声で言った。
「お達者で」
侍女の一人が、小さく息を呑む。
だが、マリアンヌは咎めなかった。
ほんのわずかに、口元を緩める。
「あなたも、達者で」
給仕係の顔が明るくなった。
王太子は、彼女たちに出ていけと言った。
だから王宮の者たちは、彼女たちが無事に出ていけるよう支度をした。
裏門には、馬車が二台待っていた。
一台はマリアンヌとレティシアのため。
もう一台は荷物と随行のため。
門番が槍を立てる。
「夜道でございます。門衛二名をお付けします」
「規定より多いのでは」
マリアンヌが問うと、門番は真面目な顔で答えた。
「退去を命じられた高位のご婦人が夜間にご出立なさる場合、安全確保は門衛の職務でございます」
隣にいた若い門衛が、わずかに目を伏せた。
その耳が赤い。
マリアンヌは何も言わなかった。
「では、お願いします」
「お任せください」
馬車の扉が開かれる。
レティシアは一度だけ、王宮を振り返った。
灯りは多い。
窓は明るい。
音楽もまだ、どこかで鳴っている。
けれどそのどれも、自分を呼んではいなかった。
「レティシア」
マリアンヌが呼ぶ。
レティシアは振り返った。
「参りましょう」
「はい」
馬車の扉が閉まる。
車輪が動き出した。
その頃、王宮の奥では、国王が執務室へ呼び戻されていた。
祝宴の最中である。
本来ならば、王太子とレティシアの婚約披露の夜だった。
国王は、各国の貴賓と短く言葉を交わし、祝いの杯を受け、予定通りに場を収めるはずだった。
だが今、執務室の空気は冷えている。
宰相は立ったまま、手にした封書を見下ろしていた。
外務卿は青ざめている。
侍従長は、扉のそばで微動だにしない。
そこへ、王太子エドガルドが入ってきた。
その顔には、まだ笑みがあった。
「父上。ご報告がございます」
国王は、顔を上げた。
「報告」
「はい」
王太子は晴れやかに頷いた。
「レティシアとの婚約を破棄いたしました」
国王は、しばらく何も言わなかった。
「今、なんと」
「ですから、レティシア・フォン・アルベルティーヌとの婚約を破棄し、こちらのエミリアと結婚いたします、父上」
王太子は、隣に立つエミリアの手を取った。
エミリアは不安げに国王を見上げる。
だが、王太子の表情は誇らしげだった。
「エミリアは私を心から愛してくれています。身分や義務ではなく、私自身を」
国王は、椅子の肘掛けを握った。
「あの、才媛と呼ばれたレティシア嬢を……なぜ」
「彼女は冷たい女です。王太子妃としての務めばかりを口にして、私の心を見ようともしませんでした」
王太子は、少しも悪びれなかった。
「エミリアならば、私の隣で笑ってくれます」
国王は目を閉じた。
それも問題だった。
大きな問題だった。
王太子妃候補として十年教育を受けた娘を、婚約披露の場で切り捨てた。
それだけで十分、愚行である。
貴族社会への説明も、レティシアの実家への補償も、各国への体面も、考えることはいくらでもあった。
だが、今はそれだけではない。
「いや、それもだが」
国王は、重く息を吐いた。
「各国の貴賓から苦情が来ている。どういうことだ」
王太子は眉を寄せた。
「苦情?」
「東方三国の大使が、相次いで説明を求めている。北方公国公使もだ。西海都市同盟の代表も、先ほどから外務卿を捕まえて離さん」
「レティシアのことでしょうか」
「違う」
国王の声は低かった。
「ベルティーユ女史のことだ」
王太子の顔に、不快の色が浮かぶ。
「ああ、あの女ですか」
宰相が目を閉じた。
外務卿の肩が小さく揺れる。
国王は、ゆっくりと王太子を見た。
「あの女、とは」
「マリアンヌ・ド・ベルティーユです。余の命令に逆らい、エミリアの教育を拒みました。たかが家庭教師が、思い上がりも甚だしい」
執務室の空気が、さらに冷えた。
国王は侍従長へ目を向ける。
「何があった」
侍従長は、一度だけ唇を引き結んだ。
「その……」
彼は珍しく言い淀んだ。
「殿下の、女史に対するご発言に対して、各国の貴賓より確認と抗議が寄せられております」
「発言」
国王の声が低くなる。
「何と言った」
侍従長は答えられなかった。
答えたくないのではない。
この場で、それを口にすること自体が王家の恥になると分かっている顔だった。
王太子が苛立った。
「何をためらう。余は事実を言っただけだ」
国王は王太子を見た。
「事実?」
「ええ。婚期も逃した石女を、誰が雇ってやっていたと思っている、と」
誰も動かなかった。
音が消えた。
エミリアが、王太子の腕からそっと手を離す。
外務卿が顔を覆った。
宰相は、深く息を吐く。
侍従長は目を伏せたまま、動かない。
国王は、椅子から立ち上がらなかった。
ただ、王太子を見ていた。
「お前は」
その声は、静かだった。
「お前は、あれを……ベルティーユ女史を怒らせたのか」
王太子は鼻で笑った。
「父上まで何を。たかが家庭教師です」
国王の顔から、血の気が引いた。
「たかが家庭教師」
「そうでしょう。王宮に雇われていた女です」
「違う」
国王は言った。
「王宮が、借りていた女だ」
王太子は眉をひそめた。
「借りていた?」
国王は、机の上の封書を見た。
銀の梟の封蝋。
一通ではない。
三通、五通、さらに積まれている。
まだ開けていないものもある。
だが、中身は分かっていた。
「ベルティーユ女史は、王妃殿下付き筆頭書記官だった女だ。王女の外遊を三度、無事に帰国させた。東方三国の席次紛争を収め、北方の穀物協定を通した。慈善局の制度を作り、女子実務学院を立ち上げ、銀梟の基金で寡婦と孤児を冬越しさせている」
王太子はまだ、理解していない顔だった。
「それが、何だというのです」
宰相が、乾いた声で言った。
「殿下。王宮慈善局の帳簿係、書記、配給監査官、冬季炊き出しの現場責任者は、銀梟教育基金からの派遣でございます」
外務卿が続けた。
「外交書簡用紙、儀礼用封蝋、外国語写本は、銀梟通商社の納入品です」
侍従長が、静かに付け加える。
「王宮の侍女、書記見習い、会計補助の中にも、ベルティーユ女史の学院を出た者が少なくありません」
王太子は、目を瞬かせた。
「だから何だ。王命で従わせればいい」
今度こそ、宰相が顔を覆った。
国王は、低く言った。
「ベルティーユ女史は王宮の所有物ではない。王家が命じれば動く駒でもない。彼女の権限の多くは、基金、学院、商社、修道院、そして各国との契約に基づいている」
「契約など、王家が」
「王家の名で破れば、王家の信用が死ぬ」
国王の声が鋭くなった。
王太子は黙った。
国王は、封書を一通手に取った。
「東方三国は、彼女を“白手袋の調停者”と呼ぶ。北方公国は、飢饉の年、彼女が通した穀物で内乱を避けた。西海都市同盟は、彼女の銀梟が孤児船を取り戻した件で借りがある。聖クラリス修道院は、彼女を最大級の寄進者として扱っている」
王太子の顔から、少しずつ色が引いた。
「なぜ、そのような女が家庭教師など」
「お前の妃になるはずだった娘を、王妃に仕上げるためだ」
国王は言った。
「それほどの人間を、こちらから頭を下げて招いていた」
沈黙が落ちる。
国王は続けた。
「お前は、ベルティーユ女史がなぜ独身を通しているか知っているか」
王太子は答えなかった。
先ほどなら、婚期を逃したからだと言っただろう。
今は、言えなかった。
国王は言った。
「あの人が嫁がぬのは、嫁げぬからではない。嫁いだ先が、教育と慈善と通商の網を手に入れるからだ」
エミリアが、小さく息を呑んだ。
「公爵家が彼女を娶れば、公爵家が学院を得る。辺境伯家が娶れば、辺境伯家が穀物路を得る。外国へ嫁げば、外国が銀梟の信用を得る」
国王は封書を机へ戻した。
「だから彼女は、誰にも属さなかった。王国のために、そうしてきた」
王太子の唇が、わずかに開く。
何かを言おうとして、言えなかった。
その時、扉が叩かれた。
侍従が入ってくる。
顔が青い。
「陛下」
「今度は何だ」
「ベルティーユ女史が、王宮を出られました」
国王は目を閉じた。
「呼び止めよ」
「それが……」
侍従は、さらに顔を白くした。
「女史は王太子殿下の退去命令に従い、正式な客人退去手続きを終えておられます。裏門より、レティシア様とともに」
「なぜ止めなかった」
「王太子殿下が『今すぐ王宮から出ていけ』と仰せでしたので」
正しい。
あまりにも正しい。
王太子が声を荒げた。
「追え!」
侍従は深く頭を下げる。
「恐れながら、夜間に退去を命じたご婦人の馬車を王宮兵で追えば、拘束と受け取られる恐れがございます」
「馬鹿な」
「また、東方大使閣下が至急の説明を求めておられます」
外務卿が呻くように言った。
「今それを無視すれば、本当に外交問題になります」
国王は、長く息を吐いた。
王宮の者たちは、誰も逆らっていない。
誰も怠けていない。
誰も命令を無視していない。
ただ、全員が職務を果たしていた。
その結果、マリアンヌ・ド・ベルティーユは、誰にも止められず王宮を去った。
国王は、王太子を見た。
「婚約破棄だけなら、まだ愚行で済んだ」
声は冷え切っていた。
「だが、お前は王宮の梁を抜いた」
王宮は、王のものだった。
だが、その夜。
王宮を動かした手順の半分は、マリアンヌ・ド・ベルティーユが教えたものだった。
そしてその銀の梟は、もう王宮を飛び立っていた。




