たかが家庭教師
シャンパングラスが、折れた。
ぱきり、と。
楽の音も、談笑も、拍手も、その瞬間だけ遠くなった。
マリアンヌ・ド・ベルティーユは、自分の右手を見下ろした。
薄い硝子の脚が、手袋の中で砕けている。
淡い金色の酒が、白い絹を濡らしていた。
破片が掌に食い込んだのだろう。
指の付け根から、赤が滲んでいる。
痛みはあった。
だが、それだけだった。
「先生……」
隣にいた若い令嬢が、かすれた声を漏らした。
近くで談笑していた夫人たちも、顔を白くしている。
侍女の一人が、盆を持ったまま立ち尽くしていた。
無理もない。
マリアンヌ・ド・ベルティーユは、社交の場で音を立てない女だった。
扇を閉じる音。
椅子を引く角度。
杯を置く位置。
目礼の深さ。
そのすべてに気を配り、他者の視線を乱さぬ女だった。
その女の手の中で、シャンパングラスが折れていた。
広間の中央で、王太子エドガルド殿下は高らかに告げていた。
「レティシア・フォン・アルベルティーヌ。私は本日をもって、君との婚約を破棄する」
ざわめきが広がった。
春の夜会だった。
王宮の大広間は、花と灯りで満たされている。
天井からは硝子の灯が幾重にも吊られ、床には磨き抜かれた大理石が淡く光っていた。
壁際には白薔薇が飾られ、楽師たちは王家の祝宴にふさわしい曲を奏でていた。
そのすべては、王太子と王太子妃候補の婚約披露のために整えられたものだった。
つい先ほどまでは。
中央に立つレティシアは、動かなかった。
淡い青のドレス。
王妃候補として選ばれた日から、彼女に許されてきた色だ。
背筋は伸びている。
肩は落ちていない。
指先も震えていない。
ただ、顔だけが白かった。
「君は常に冷たく、王太子妃としての務めばかりを口にする。私の心を見ようともしなかった」
王太子は続けた。
その隣には、一人の令嬢が立っている。
エミリア・ロゼット子爵令嬢。
三月ほど前から王太子のそばにいると噂されていた娘だった。
薄桃色のドレスをまとい、王太子の腕に寄り添っている。
大きな瞳には涙が浮かんでいた。
「エミリアは違う。彼女は私を一人の人間として愛してくれた。身分や義務ではなく、心で私を見てくれた」
広間のあちこちで、気まずげに視線が交わされた。
誰も大きな声は出さない。
だが、誰もが分かっていた。
これは婚約披露ではない。
処刑台だ。
王太子は祝宴の中央で、十年かけて王太子妃候補として育てられた令嬢を切り捨てようとしている。
「よって、私はエミリア・ロゼットを新たな王太子妃候補とする」
エミリアが、はっとしたように王太子を見上げた。
「殿下……」
「恐れることはない。君は私の選んだ女性だ」
王太子は優しく微笑んだ。
マリアンヌの手の中で、硝子の破片がさらに食い込んだ。
十年。
レティシアが、王太子妃候補として選ばれたのは十年前だった。
まだ背の低い少女だった。
髪を結うのも遅く、長い礼の最中に膝を揺らし、外国語の発音で何度も悔しそうに唇を噛んでいた。
それが、十年で変わった。
朝の挨拶。
食卓の作法。
諸侯の家名。
領地の位置。
宗教儀礼。
外交書簡。
祝祭予算。
慈善事業の帳簿。
王族として沈黙すべき場。
王族として言葉を尽くすべき場。
レティシアは、すべてを学んだ。
泣きたい日にも、姿勢を崩さないことを学んだ。
怒りたい場でも、場を壊さぬことを学んだ。
侮辱されても、王家の席を乱さないことを学んだ。
そして今、彼女はその教えを守っていた。
王太子に、公衆の面前で踏みにじられながら。
「レティシア」
王太子が、少しだけ顎を上げた。
「君には、王家の慈悲により、相応の退去を認める。今夜は騒ぎ立てず、静かに去るがいい」
広間が凍った。
レティシアは、ゆっくりと膝を折った。
深すぎず、浅すぎず。
王太子に対する礼を、寸分違えず示す角度だった。
「承知いたしました。王太子殿下」
声は澄んでいた。
誰かが息を呑む。
レティシアはエミリアを責めなかった。
王太子を罵らなかった。
自分の十年を返せとも言わなかった。
ただ、礼を取った。
その姿は、美しかった。
あまりにも美しく、あまりにも痛ましかった。
レティシアは踵を返す。
青いドレスの裾が、磨かれた床を静かに滑った。
王太子妃候補としての最後の歩みまで、彼女は乱さなかった。
マリアンヌは、ガラスを握りしめたままそれを見送った。
今すぐ駆け寄りたかった。
その肩を抱いてやりたかった。
泣いていいと言ってやりたかった。
あのような愚かな男のために、あなたの十年が失われたわけではないと告げてやりたかった。
だが、ここは王宮の大広間だった。
この場でマリアンヌが乱れれば、レティシアの最後の礼まで傷がつく。
だから、動かなかった。
マリアンヌは、黙っていた。
硝子の破片が、手袋の内側で赤く濡れていく。
「案ずることはない」
王太子の声が、広間に響いた。
レティシアが扉の向こうへ消えた直後だった。
王太子は、場を収めるつもりなのだろう。
晴れやかな顔で、エミリアの手を取った。
「王太子妃教育についても、心配はいらない。レティシアの家庭教師がいる」
その瞬間、周囲の数人がマリアンヌを見た。
夫人の一人が扇を閉じる。
侍女が盆を持つ手に力を込める。
王太子は、それに気づかなかった。
「なあ、マリアンヌ」
親しげに呼ばれた。
マリアンヌは、割れたグラスを侍女の盆へ置いた。
血で濡れた手袋のまま、静かに王太子へ向き直る。
「はい、殿下」
「君がエミリアを教育すればよい。そうすれば、彼女も王太子妃にふさわしい女になれる」
エミリアは、少し不安そうにマリアンヌを見た。
「よろしくお願いいたします、先生」
マリアンヌは、しばらく何も言わなかった。
広間の沈黙が濃くなる。
やがて、彼女は膝を折った。
深すぎず、浅すぎず。
王太子へ示すべき礼を、寸分違えず。
「お断りいたします」
王太子の笑みが止まった。
「……いま、何と」
「ですから、そちらの子爵令嬢様の教育は、お断りすると申しております」
広間がざわついた。
エミリアの顔が青ざめる。
王太子の目に、不快の色が浮かんだ。
「マリアンヌ。君は王家に仕える教育係だろう」
「いいえ」
マリアンヌは、穏やかに答えた。
「私は、レティシア様の王太子妃教育をお預かりしていた者でございます」
「同じことだ。次の王太子妃候補を育てるのも、君の務めだ」
「同じではございません」
王太子の眉が動く。
マリアンヌは顔を上げた。
「殿下は先ほど、エミリア・ロゼット子爵令嬢こそ王太子妃にふさわしいと仰せになりました」
「そうだ」
「でしたら、私の教育は不要でございましょう」
王太子は言葉に詰まった。
「いや、よりふさわしくするために」
「王太子妃にふさわしい方を、王太子妃にふさわしくする教育が必要なのでございますか」
どこかで、低く息を呑む音がした。
マリアンヌは声を荒げなかった。
怒りも見せなかった。
ただ、王太子の言葉を正しく並べただけだった。
「王妃教育とは、椅子を替えれば移せる布地ではございません。十年の課程を、今夜のお気持ちで別の方へ縫いつけることはできかねます」
「エミリアは努力する」
「努力の意志は尊いものです」
マリアンヌは、エミリアを見た。
泣きそうな顔。
王太子の陰に半分隠れた、甘やかな少女。
悪意だけの娘ではないのかもしれない。
だが、無知だった。
そして、その無知のまま、他人の十年を踏んだ。
「ですが、読み書き、礼法、語学、法制、外交、会計、宗教儀礼、諸侯家の系譜、宮中序列。王太子妃教育は、それらの基礎課程を修めた方にのみ施すものです」
「だから、君が教えればいいと言っている」
「御婚儀まで、何年お待ちになりますか」
王太子は黙った。
「レティシア様は、十年を費やされました」
広間が静まり返る。
マリアンヌは続けた。
「エミリア様に同じ課程を望まれるなら、十年後にまたお声がけくださいませ」
「ふざけるな」
「真面目に申し上げております」
王太子の顔に怒りが走った。
「余の命令だ」
「王太子殿下のご命令として、しかと拝聴いたしました」
マリアンヌは、もう一度頭を下げた。
「そのうえで、教育者としてお断り申し上げます」
「王家に逆らうつもりか」
「いいえ」
マリアンヌは、静かに微笑んだ。
「王家の御威光に傷をつけぬため、お断りしております」
「何だと」
「今この場で、王太子妃教育の名をもってエミリア様をお預かりすれば、私は王国中に向けてこう宣言することになります」
指先から、血が一滴落ちた。
白い大理石の床に、小さな赤が散る。
「王太子妃とは、十年の研鑽を踏みにじり、寵愛ひとつで代替可能な席である、と」
誰も息をしなかった。
「私は、そのような虚偽を教えた覚えはございません」
王太子の顔が、赤く染まった。
「黙れ」
その声には、もう王族としての余裕はなかった。
「黙れ、マリアンヌ。たかが家庭教師が、分をわきまえろ」
マリアンヌは黙っていた。
「婚期も逃した石女を、誰が雇ってやっていたと思っている!」
広間の空気が死んだ。
扇の音が止まる。
楽師の弓が弦から離れる。
侍従の盆が、小さく震えた。
それは、女性一人への罵倒ではなかった。
子を持たぬ妻。
夫を亡くした夫人。
家を支える未婚の娘。
娘を失った母。
婚姻ではなく仕事を選んだ女。
そのすべての過去を踏みにじる言葉だった。
エミリアでさえ、息を呑んで王太子を見上げた。
マリアンヌは、瞬きもしなかった。
王太子は、自分が何を言ったのか分かっていない顔だった。
「思い上がるな。今すぐ、この王宮から出ていけ!」
誰も動かなかった。
諫めるには、遅すぎた。
マリアンヌは、静かに膝を折った。
深すぎず、浅すぎず。
王太子に対する礼を、寸分違えず示す角度だった。
「では、失礼いたします」
それだけだった。
抗弁はない。
嘆願もない。
怒りの声もない。
彼女は血の滲んだ手袋を外し、侍女の盆へ置いた。
白い手袋の内側は、赤く染まっている。
侍女が泣きそうな顔で盆を受けた。
マリアンヌは一度だけ、レティシアが去った扉を見た。
それから、踵を返す。
マリアンヌ・ド・ベルティーユ。
二十九歳。
ベルティーユ伯爵家傍系令嬢。
元・王妃殿下付き筆頭書記官。
元・王女外遊随行官。
元・宮廷儀礼特使。
東方三国席次紛争、実務調停者。
北方穀物協定、臨時交渉補佐。
王妃慈善局、制度設計者。
銀梟教育基金、理事長。
王立女子実務学院、共同創設者。
銀梟通商社、主要出資者。
王妃教育課程表、諸侯家系譜注釈、外交儀礼録、全改訂権保持者。
王女殿下の外遊を三度、無事に帰国させた女。
飢饉の年、北方から穀物を通した女。
東方三国の使節を、剣ではなく席次で黙らせた女。
未亡人と孤児のために基金を作り、没落令嬢に帳簿を教え、商家の娘に礼法を教え、貴族夫人たちに寄付の使い道を示した女。
王宮の若い侍女たちは、彼女の学院を出ていた。
慈善局の帳簿係は、彼女の基金から派遣されていた。
外交書簡に使う紙は、彼女の商社が納めていた。
王妃教育の教材は、彼女の名で更新されていた。
各国大使館には、彼女の紹介状を受け取った者がいた。
修道院には、彼女の基金で冬を越した子どもがいた。
地方貴族家には、彼女に娘を預けた母親がいた。
王太子は、それを知らなかった。
ただの家庭教師だと思っていた。
マリアンヌ・ド・ベルティーユ。
王宮の信用の半分を握る女は、静かにその場を後にした。
王太子は、たかが家庭教師を追い出したつもりだった。
その夜、王宮はまだ知らない。
自分たちが追い出したのは、王妃教育ではない。
王宮の信用、その半分だった。




