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不帰の嶮(かえらずのけん) ~ 待つ女を演じてきた男は、待つことをやめられなかった ~  作者: キュウリしか持ってないカッパくん。


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第四章 舞のあとに

 夕刻が近づき、廊下を通る足音に、千景は目を上げた。


 庭に面した奥の間の文机には、畳んだ紙が置いてある。足袋の寸法を記した数字は内側へ隠れ、白い裏だけが、障子からの心細い光を受けていた。


 千景は立ち上がり、小机のある入口の間を抜けて、廊下へ出た。


 客室の隣にある座敷では、女将が運び入れた火鉢の灰を均(なら)していた。昼に寄せた道具は片づき、座布団が二枚、少し離れて置かれている。床の間の壁には、掛物を外したところだけ、周りより淡い色が残っていた。


 古い縦長の壁掛け時計が、午後四時半の鐘を一つ鳴らした。


「こちらにも火を入れましたから、どうぞ」


 女将はそう言って、灰のついた指を手拭で押さえた。


 千景は自分の部屋へ丹前を取りに戻り、それを肩へ掛けて、隣の座敷へ移った。

 火鉢の傍らへ腰を下ろすと、足もとの畳にはまだ冷たさが残っていた。


 庭に面した障子の下には、細長い硝子が嵌(は)め込まれていた。

 外はすでに暗く、庭木の枝が硝子の向こうに僅かに見える。その枝に重なって、二人の膝もとや火鉢の縁が、淡く映っていた。


「明日は、お昼頃の汽車にしようと思います」


「それでしたら、お支度も、ゆっくりなされますね」


 女将は炭を一つ返した。黒いところが上を向き、その下で赤いものが小さく爆ぜた。


「お荷物は、お纏めいたしましょうか」


「いいえ。自分で包みます」


 千景は膝に置いた手を重ねた。


「今夜は、湯に浸かってゆっくりします」


 女将は頷き、火箸を火鉢の縁へ揃えた。灰を掻く音がやむと、遠い座敷で誰かの咳が聞こえた。


 女将が茶の盆を取りに立っている間、千景は外された掛物の跡を見ていた。戻ってきた女将は、火鉢の傍らへ盆を置き、茶を注いだ。


「お国へは、いつお帰りになるんですか」


「こちらの始末が済んでからでございます。それでも雪が溶ける前だと思います」


「向こうには、ご家族が?」


「弟がおりますので、ひとまず、そちらへ」


 女将は急須を盆へ戻した。


「ここに嫁いでからは、ろくに帰ってもおりません。弟の子供も、もう働いているそうでございます」


 千景には、女将が誰かの姉であることが、少し不思議だった。この宿の廊下を歩き、客へ頭を下げ、湯の足りぬところへ湯を運ぶ姿しか知らなかった。帰れば、そのように呼ぶ者がいるのだった。


「長く暮らしたところを離れるのは、寂しいでしょうね」


 言ってから、千景は女将の顔を見た。


「ええ」


 女将は火鉢へ目を落とした。


「けれど、向こうでは、少し朝寝坊も出来ましょうから」


 女将は膝の上で手拭の端を折り、少しだけ笑った。


「寂しいばかりでも、ございませんね」


 千景も頷いた。今朝、顔を洗いに出たときには、もう朝餉の支度が出来ていた。女将が何時に起きたのか、考えもしなかった。


 座敷の隅から、畳の色が少しずつ失せていった。


 女将が立ち、座敷の灯をつけた。火鉢の傍らの茶碗や、膝に置いた手が明るくなったが、床の間の隅にはまだ夕闇が残っている。


 庭に面した障子の低い硝子には、外の闇に重なって、座敷の中が淡く映った。女将はその障子の合わせ目を直した。


 千景は、道具のなくなった畳を見ていた。あの晩も、これくらいの場所はあった。立ち上がるだけでよかったのに、男の頼みを軽くあしらい、そのままにした。


 いま舞ったところで、あの晩へ戻れるわけではない。それでも、ここで袖を上げれば、どこかで男が顔を上げるような気がした。そんなことを思う自分を、千景は咎(とが)めなかった。


「少しだけ」


 女将が振り向いた。


「舞っても、よろしいですか」


「こちらで、でございますか」


「ええ。場所をお借りしてもよければ」


 千景は丹前を脱いだ。女将が受け取ろうとするのを、会釈して自分で畳み、座布団へ置いた。着物一枚の背に、冷えた空気が触れた。


 畳へ手をついて立ち上がった。襟から伸びる首筋に、細い筋が浮いた。女将は何も言わなかった。


 袖を確かめた。舞台のものより短く、軽かった。帯の位置を少し直し、座敷の中央へ進んだ。足袋の裏に触れる畳は、歩いているときとは違う硬さを持っていた。


 女将は火鉢の向こうへ座った。


 千景は爪先で、畳を軽く二度叩いた。初めて立つ舞台では、いつもこうして足もとの感触を確かめた。


 顎を引き、正面の壁から少し視線を外した。片方の袖口を指で取り、首をわずかに傾ける。伏せた顔から、目だけを斜めに上げた。


 息を置くと、いつもそこから始まる三味線(しゃみせん)の音が、記憶の中で一つ鳴った。


 足を運んだ。


 裾が畳を擦った。重みのない袖は、腕を下ろすとすぐ身体へ戻ってくる。その早さを手首で留め、半歩だけ遅らせた。目を伏せ、見えぬ相手のいる方へ、わずかに肩を向けた。


 左の手の甲を上へ向け、ゆっくりと差し上げた。


 頭の中では、三味線の音が鳴っていた。身体は、その順序を覚えていた。足の向きを変えるより先に膝が緩み、帯の下で腰が沈んだ。袖口を取った右手を胸へ引いても、差し出した左手の指先だけは、まだ向こうに未練がましく残ろうとした。


 舞台では遠い、と男は言った。


 今なら、近くで見られるだろうか。


 誰もいないところへ目を向けながら、千景は、その誰もいないところを空けておきたかった。見ていてほしいのか、今更だと笑ってほしいのか、自分でも分からなかった。ただ、そちらへ向けた袖を、すぐには引けなかった。


 身を返そうとすると、いつも後ろから抱きしめてくれた太い腕の重みが、ふと背に戻った。そこに、あの男がいるようで、千景は振り向く間を少しだけ延ばした。


 消えないで。


 やがて視線を上げると、女将の顔が、火鉢の向こうにあった。両手を膝に揃え、身じろぎもせずにこちらを見ていた。


 もう一度、身を返した。記憶の中の三味線が、ひと節を弾き終えようとしていた。


 千景は袖を返し、畳を滑るように二歩進んだ。その先で身を沈めたとき、胸の奥で、息が足りなくなった。


 次の動きへ移れば吸えると思ったが、息は喉の浅いところで途切れた。あと一つ、足を引けば形を収められる。千景は踵(かかと)を浮かせたが、膝がついてこなかった。


 手を下ろして、舞を止めた。


 袖が脇へ落ち、千景は立ったまま呼吸を整えた。先ほど袖を向けた辺りへ、もう一度、目をやった。


 あの人は、見ていてくれただろうか。


 最後まで舞えなかったことを、笑うだろうか。それでも、お前を近くで見られたと言ってくれるだろうか。


 女将は、下ろされた手をまだ見ていた。千景の袖が動く間、座敷の時まで止まっていたようだった。その頭上には桜が舞い、袖の辺りには、たしかに蝶が飛んでいた。その目には、舞の名残がまだ消えずにあった。


 火鉢の炭が小さく鳴り、その音で、ようやく自分も息を詰めていたことに気づいた。


「千景さん」


 女将が腰を浮かせると、千景は小さく首を振った。


「……大丈夫です」


 声は思ったより掠(かす)れた。千景は座布団へ戻り、畳に手をついて腰を下ろした。女将は丹前を広げ、千景が腕を通すまで待っていた。


 襟を合わせると、首の後ろへ汗が滲(にじ)んでいた。


 女将は冷めた茶を下げ、新しく淹れ直した。急須を傾けるとき、蓋が一度、かすかに鳴った。千景は膝の上に手を置き、指の震えが収まるのを待っていた。


「こんな間近では、初めて見せていただきました」


 女将は茶碗を差し出しながら、千景の袖口へもう一度目をやった。

 あの袖も、伏せた目も、自分へ向けられたものではなかった。誰かに見せるための舞を、たまたま傍らで見せてもらったような心地がした。


 女将は何も尋ねなかった。


 差し出された茶碗を受け取った。口へ運ぶには、まだ息が忙しかった。千景はしばらく持っていてから、ようやくひと口飲んだ。


 少し熱かった。


 下唇を離して待つうちに、廊下の向こうで、夕餉の膳を揃える音がした。

 椀の蓋が触れ合い、誰かが何かを尋ね、別の声が短く答えた。


 千景はもう一度、茶を飲んだ。


     *

 

 ほかの客と膳を並べる座敷で夕餉を済ませ、自分の部屋へ戻ると、朝に開いた本が文机の奥にあった。


 千景は座布団を寄せ、風呂敷を広げた。女将の結び目を解いたときについた皺(しわ)が、そのまま布の端に残っている。四隅を一つずつ引いて伸ばし、掌で押さえた。


 二冊の本を手前へ並べた。


 『草枕』を開くと、包み紙は朝に挟んだところにあった。折り目を跨ぐ朱い印が、頁の間から少し覗いている。千景は指の腹でそこを押し込みかけ、やめた。惣一が使っていたときも、このくらいはみ出していた。


 本を閉じ、もう一冊と重ねた。


 文机の端に置いていた足袋の覚え書きは、下の本へ戻した。今度は、開けばすぐ手に取れるよう、表紙の内側へ浅く挟んだ。


 手袋を持ち上げた。


 左右を揃え、指の先を撫でると、擦れた毛糸が指紋に引っ掛かった。親指の付け根の、色の違う糸へ触れた。この縫い方ではすぐに解けると、前にも言ったことがあった。けれど、その糸はまだ切れずに残っていた。


 千景は手袋を重ね、鞄の脇へ置いた。


 本を入れた風呂敷は、両方の端を同じ長さにして結んだ。軽く引いても緩まなかった。


 千景は結び目を見ていたが、やがて指を掛け、もう一度解いた。

 今度は片方を短くし、残った端を回して結び直した。短い方が結び目へ埋もれ、解くには爪を立てなければならない形になった。


 解きにくいと、いつも文句を言っていたのに。


 千景は、あの男の不格好な結び目をまねた包みを見つめ、膝の上へ両手を下ろした。


 明日の朝、これを持って帰る。


 ただ、持って帰れないものもある。


 結び目は出来た。荷物は、これで全部だった。けれど、これだけを持って帰って、それで済んだことにしてよいのか、千景には分からなかった。


 いや、分かっているつもりだった。それでも、過去へ繋がる細い糸を、手放せずにいた。引けばまだ、向こうであの男の指が動くような気がした。


 帰ってきたら、自分のところへ来ればいい。衣裳を置く棚も、煙草を吸う窓際も、そのままにしてあるのだから。


 千景は包みを持ち上げ、自分の鞄の隣へ置いた。


 文机の上が空いた。


 灯を受けた木肌には、細かな疵(きず)が幾つもあった。

 掌を置くと、どこも同じように冷たかった。


     *


 翌朝は、雪の明るさより先に、人の動く音で目が覚めた。


 廊下を歩く足音がして、遠くで戸が開いた。障子の向こうには淡い光があった。千景は床の中で足の指を動かし、肩まで掛かっていた布団を少し下げた。


 膝には、昨日の舞の疲れが鈍く残っていた。


 起き上がり、しばらく座ってから、床を出た。


 朝餉の味噌汁にも、大根が入っていた。小さく刻まれたそれを、千景は汁とともに口へ運んだ。


 千景は椀の底まで飲み、膳を下げに来た女将へ、御馳走さまでしたと言った。


 身支度をしていると、乾いた足袋を女将が持ってきた。


「お取り替えになったものを」


 千景は受け取り、白い布を手の間へ広げた。爪先の染みはなくなっていた。


「ありがとうございます。お手数をお掛けしました」


「いいえ」


 女将は荷の方へ目を向けた。


「玄関まで、お持ちいたします」


「では、こちらを」


 千景は鞄を渡し、その上へ手袋を載せた。風呂敷の包みは、膝のそばへ残した。


 足袋を履いた。こはぜを一つずつ掛け、足首のところを指で均(なら)した。右の小指を曲げてみたが、布はどこにも食い込まなかった。


 丹前を脱ぎ、畳んで置いた。


 羽織に袖を通し、襟を合わせた。鏡の前へ座る時間は、今朝も長くは要らなかった。髪を整え、目尻へ触れた指を、膝へ戻した。


 風呂敷の包みを取り、廊下へ出て襖を閉めると、向こうの座敷で、何かを包む紙の音がした。


 玄関では、女将が履物を揃えていた。千景は框(かまち)に包みを置き、腰を下ろした。


 戸はすでに開けてあった。

 朝の空気が土間へ入り、湿った木と、薪の匂いがした。框の脇に置かれた鞄には、手袋が重ねてある。


「お世話になりました」


 千景が頭を下げると、女将も両手をついて礼をした。


「どうぞ、お身体を大切になさってくださいまし」


「女将さんも。お国へ戻られたら、少しはお休みください」


「ええ。ありがとうございます」


 女将は顔を上げ、小さく笑った。千景も笑おうとして、もう一度、頭を下げた。


 自分は東京へ帰り、女将もやがて北海道へ戻る。いつかまた、と言いかけたが、そのいつかが、どこにあるのか分からなかった。


 履物に足を入れ、土間へ下りた。包みの結び目を持つと、本の重みが指の付け根へ掛かった。女将が鞄の上から手袋を取り、差し出した。


「こちらも」


「ええ」


 千景は包みを玄関の板の間へそっと置き、あの男の手袋を嵌(は)めた。


 指の先が余った。親指を奥へ入れ直しても、小指の先は余ったままだった。手首のところを引き、もう片方も同じように嵌めた。


「お気をつけて」


 千景は頷き、鞄と包みを持った。


 雪は降っていなかった。


 門を出ると、細道の雪は昨日より少なくなっていた。

 軒下に寄せられた白い塊の周りだけが濡れ、道の中央には乾いた土の色が戻っている。遠くで子供の声がしたが、姿は見えなかった。


 少し歩いて振り返ると、女将はまだ戸口にいた。千景が会釈をすると、女将も頭を下げた。その背後で誰かが呼び、女将は返事をしながら、片方の袖をたくし上げた。


 千景は前へ向き直った。停車場のある方へ、細道は続いていた。


 歩幅を小さくし、道の端の柔らかいところを避けて歩いた。曲がり角まで来て、一度、持った荷を替えた。


 向こうから人が来れば、あの男ではないかと、まだ顔を確かめてしまう気がした。


 風が羽織の裾を動かした。千景は少し顎を引き、それから足を止めた。


 顔を上げると、家々の屋根の向こうに、白い峰々が連なっていた。雲の切れ間に覗く稜線を辿り、昨日、松蔵が教えてくれた辺りへ目を向けた。


「不帰(かえらず)の嶮(けん)……でしたね」


 口にすると、息が白くほどけた。


 千景はしばらく山を見ていた。包みの重みで、毛糸が掌へ押しつけられている。

 余った指の先を一度曲げると、その内側は、もう温かかった。


 千景は荷を持ち直し、停車場へ向かって歩き出した。

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