第三章 石は動かなかった
千景は、ゆっくりと顔を上げた。
空はまだ寝ぼけているように、ぼんやりと灰色に明るかった。遠い峰々の稜線だけが、水墨画の筆跡のように残っている。吐く息が白い。
濡縁から庭へ下りると、履物の底で砂が小さく鳴った。
雪は、日陰にばかり残っていた。
植込みの下にはまだ夜の色をした土があり、垣に近いところでは、落葉の重なりを伝って水が流れている。
千景は袖口を押さえ、石の雪のないところを選びながら歩いた。濡縁から眺めていたより、石と石との間が遠かった。
石燈籠の手前まで来て、足を止めた。
五年前、ここで足を取られかけた。
惣一が跨いだのを見ていながら、わざと同じ石へ足を載せたのだった。
石が傾き、男の袖を掴んだところまでは覚えている。だから言ったろうという声よりも、袖の内側で腕が動いた感触と、一瞬驚き、それから笑った男の顔の方が、いまは近かった。
千景は爪先を載せた。
石は動かなかった。
おや、と思って、少し重みを移した。履物の歯が硬い面に触れるばかりで、あのときの頼りない傾きは来なかった。誰かが据え直したのだろう。千景はそのまま反対の足を運び、燈籠の脇を抜けた。
低い垣の切れ目から細道へ出ると、宿の二階が見えた。雨戸の閉まった窓が並び、軒の一部には、新しい板が継いである。二〇六の窓はどれだったかと数えかけ、千景は道へ目を戻した。昔も、外から部屋を確かめたことはなかった。
道の端には、雪を載せた大根の葉が捨ててあった。水路の水は細く澄み、その底に沈んだ落葉だけが、流れに逆らって揺れている。人家の奥で、何かを刻む音がした。姿の見えない鶏が一声鳴き、少し遅れて、別の家からも同じ声が返った。
昨日の母子が通った曲がり角を過ぎると、道は緩く上っていた。
特に行く当てもなかった。ただ、あの男が眺めた景色を眺め、吸った空気を、自分の中へ入れてみたかった。
千景は歩調を落とした。息が浅くなり、背へ回した手で羽織の裾を引いた。まだ宿の屋根が見えている。もう少し先まで行けば、神社の手前に細い川があったように思ったが、そこまで歩いて戻ることを考えると、足を進める気になれなかった。
道端の切株に手を添えたとき、下の横道から、車輪の軋む音がした。
「おや、お客さん」
薪を積んだ荷車の向こうで、男が顔を上げた。
小柄だが、胸板が厚く、袖から出た手首も太い。耳の下まで日に焼け、顎に白い無精髭が残っている。
松蔵だった。
宿へ薪を届けている男で、四年前の捜索にも加わっていた。あのときは挨拶もそこそこに、惣一を捜した山のことばかり尋ねたのだった。
「お久しぶりです」
「昨日、着いたと聞きました。今度は汽車で?」
「ええ。ずいぶん近くなりました」
松蔵は荷車を道の脇へ寄せ、車輪の前へ小石を噛ませた。荷縄の下からはみ出した薪を一本押し込み、手の汚れを腿で払った。
「滑りませんか」
「えっ?」
「……雪で、車輪が」
「ああ。凍ると厄介だが、これくらいの雪なら」
松蔵は頭を掻いた。千景は切株についた手へ少し体重を預け、息を吐いた。
「それより、少しお休みなさい。急ぐ道でもありません」
「そんなに、頼りなく見えましたか」
「坂ですからな」
それだけ言って、松蔵は道の先を見た。千景もそちらへ顔を向けたが、息が整うまでは何も言わなかった。枝を透かして見える山肌には、黒い筋が幾つも走っていた。その上は雲に隠れ、白いものが雪なのか空なのか、ここからでは分からなかった。
「あちらは、何という山ですか」
千景は袂から手を出し、雲に途切れた尾根の先を指した。松蔵はその指の向く方へ顔を上げた。
「あの上の、今は見えんところですか」
「ええ」
「そちらには、不帰の嶮があります」
千景は、差していた指を下ろした。
「帰らず、ですか」
「帰らず、という名です。嶮というのは、険しいところのことで。一つの山の名ではなく、岩の峰が幾つも続いているんです」
松蔵は荷車の柄へ手を戻した。
「足を置くにも、気を遣うところです」
千景はもう一度、雲の辺りを見た。目を凝らしても、その奥にあるという峰々の形は分からなかった。袖の外に出していた指が冷え、手を袂へ戻した。
息が落ち着くと、千景は切株から手を離した。足もとを確かめながら坂を少し下り、横道の合わさるところで、荷車の脇に立った。
「あの宿へ、お届けに?」
「ええ。これも、この冬までです」
松蔵は薪の端を撫でた。割った面はまだ淡く、皮の窪みにだけ雪が残っていた。
「冬の前は、何度も運ばれるんですか」
「ええ。雪が深くなる前に。先代の頃から、薪を入れております。お志乃さんが一人になって、もう七年になる」
千景は男の手元を見た。女将の夫については、亡くなったと聞いているだけだった。五年前に初めて来たときにも、宿の者は何事も女将へ取り次いでいたから、ずっと以前から一人で切り回しているように思っていた。
「屋根も、今年は手を入れなかった。二階の軒が、だいぶ来ていますからな」
「二〇六にも、もう泊まれないそうですね」
「あそこは長いこと客を入れていません。今はお志乃さんの荷が置いてある。四年ほど前でしたかな、大きな行李を上げるのを手伝いました」
「ほかのお部屋も?」
「近頃は、下だけで足りるようです。客を入れれば、掃除だけでも仕事になりますから」
松蔵は荷縄を引いた。薪の間で、短い木の音がした。
「直すにも、借りた金を返すにも、先立つものが要る。お志乃さん、よく保たせたと思いますよ」
千景は、昨夜の丹前の袖を思った。女将はほつれたところを内へ折り、こちらの手が通るまで襟を持っていてくれた。
「宿は、土地ごと手放すそうで」
「買う方は、もう決まっているんですか」
「話はついたようです。汽車が通って、停車場が出来たので、あの辺りを欲しがる者が出たそうで。前に持ち掛けられたより、いい値になったと聞きました」
「それで、女将さんは」
「国へ帰るそうです。北海道ですな。身内がまだいるそうです。返すものを返して、向こうへ帰れれば、それが一番でしょう」
汽車で来られるようになったばかりなのに、次にはもう、あの宿へ泊まれなくなる。
千景は荷車の薪を見た。これを焚き終えたあとも、軒下にはまだ幾らか残るのだろうか。
昨日、女将は「これからは、いらっしゃるにも」と言いかけて、口をつぐんだ。その先に続くはずだった言葉を、千景はいまになって考えた。
道の向こうから、鍬を担いだ男が来た。松蔵と短く言葉を交わし、千景へ軽く頭を下げて通り過ぎた。履物の裏から落ちた泥が、薄い雪の上に一つ、二つと残った。
千景はその跡を見ていた。
女将が帰ったあと、あの宿はどうなるのだろう。昨日汽車を降りたばかりの自分には、道も、屋根も、以前のままに見えた。けれど、ここへ来ずにいた間にも、女将は屋根を直し、薪を買い、使わなくなった部屋へ荷を上げていたのだった。
「松蔵さん」
男が振り向いた。
「あのとき、山の向こう側も、お捜しになったのでしたね」
言ってから、千景は羽織の前を押さえた。四年前にも、同じことを訊いた。どこを捜し、どこまで確かめたのか、警察からも何度も説明を受けていた。
「私らは、こちらの沢と尾根を歩きました。向こうへは別の者が回ったと聞いています」
「違う道へ下りたということは」
そこまで言って、千景は口をつぐんだ。それも、幾度となく尋ね、答えてもらったことだった。
松蔵は千景の顔へ一度目を向けたが、すぐには答えなかった。荷車の柄に掛けた手を持ち替え、山の方へ目をやった。
「私の歩いたところでは、相良さんのものと分かる品は、見つかりませんでした」
千景は頷いた。
四年前と同じ言葉だった。聞き落としたことも、尋ねずにいたこともなかった。別の道へ下りたのではないか。どこかで助けられているのではないか。思いつく限りのことを口にし、そのつど説明を受けた。
あのときは、泣いていたように思う。いまは、涙は出なかった。あの日、帰りの汽車では、もう誰にも尋ねることはないと思っていた。
それでも、こうして松蔵の顔を見ると、また同じ言葉が出た。答えを聞けば頷くことも、聞いたあとで苦しくなることも、分かっていたのに。
「すみません。……前にも、伺いましたね」
松蔵は小さく頷いた。車輪の前の石を退け、ゆっくりと荷車の柄を持ち上げた。
千景は道を空け、男が歩き出すのを待ってから、その脇へ並んだ。
宿へ戻る道は下りだった。車輪が石を越えるたび、薪の上の雪が崩れた。
千景が遅れると、車輪の音も間遠になった。顔を上げると、松蔵は前を向いたまま、荷車をゆっくり引いていた。
*
宿の裏手で松蔵と別れ、千景は玄関へ回った。
履物を脱ぐために屈むと、足の甲に鈍い痛みがあった。
鼻緒の当たっていたところを足袋の上から指で押し、顔を上げる前に一度息をついた。廊下には、昼の支度をする出汁の匂いが流れていた。
「お帰りなさいませ」
女将が奥から出てきた。千景の手が添えられた足もとへ、目を落とした。
「少し、歩きすぎたようです」
「お昼まで、横になっていらしてください。お膳は、お部屋へお持ちいたしますから」
千景が礼を言うと、女将は勝手口の方へ声を掛け、松蔵の名を呼んだ。
薪を下ろす音がして、男の返事が壁の向こうから聞こえた。
部屋では、朝の火鉢に新しい炭が継がれていた。
千景は座布団へ腰を下ろし、しばらく膝に手を置いていた。
歩いている間には気づかなかった疲れが、座ったあとから脚へ広がった。滑るまいと踏ん張っていたせいか、ふくらはぎまで強張っている。
障子を透く光は朝より薄く、庭木の影が、畳の縁に届かないところで止まっていた。
出立は明日だった。昼の膳を下げてもらってから、短い間、うとうとした。
目を開けると、火鉢の炭が小さく爆ぜた。
隣の座布団には羽織を脱いで置いてあった。その袖が畳へ落ちているのを引き上げ、千景は文机の方へ向き直った。
朝に読んだ本の下に、もう一冊があった。
持ち帰る荷物をどこへ収めるかと思い、二冊を持ち上げた。下の本の、表紙の内側から紙の角が覗いていた。開くと、背に近いところへ挟み込まれていた小さな紙が、畳へ落ちた。
千景はそれを拾った。
薄い紙を二つに折ったものだった。内側には足の形が小さく描かれ、その周りに、幾つかの数字が鉛筆で書き込まれていた。長さと幅を測ったものらしかった。端に、小さく「普段履きの足袋」とあった。
その下の一行を、千景は指で押さえた。
右の小指、少しゆるく。
惣一の字だった。
仕事の覚え書きはいつも細かく、後から自分で読めればよいという字をしていた。数字の横に短い線が入り、その先へまた数字が書き足してある。千景は紙を回し、もう一度、初めから見た。
右の小指が当たると話したことがあった。
楽屋で、足袋の上から小指の辺りを擦っていたときだった。惣一が針を止め、その手元を見た。新しい足袋は、舞台にいる間はよくても、楽屋へ戻って座る頃になると、縫い目の当たるところが痛んだ。
「また同じところか」
「舞台に上がれば、忘れるのだけれど」
「脱いでみろ」
「はい」
こはぜを外し、足袋を脱いだ。男は差し出された足を取り、爪先を少し傾けた。赤くなった小指の外側へ親指を添え、それから、脱いだ足袋を裏返した。
「ここは、少し出せる」
「明日も使います」
「分かってる」
千景は足を引っ込めた。
惣一はもう返事をせず、針箱を手元へ寄せていた。直してもらったあとは楽になった。そのことは覚えている。けれど、普段に履くものまで誂えようとしていたとは、知らなかった。
紙の裏を返した。何も書かれていなかった。
あの男が帰ってきたなら、こんな紙より先に、言いたいことが幾つもあった。
その言葉が届くかどうかも分からぬまま、手持ち無沙汰さにただ抱え続けてきた過去が、足袋の寸法を記した鉛筆の文字から、いまさら胸の奥へ染みのように滲み込んでくる。
馬鹿だね。
足の小さな痛みまで気にしていたくせに。
荷物を開き、帰り支度のことまで考えて、気持ちの片づけも少しは進んだはずだったのに。
千景は紙の端を揃えかけ、指を止めた。
折り目のところに爪を当てると、古い筋に沿って紙が浮いた。強く押せば切れてしまいそうで、そのまま膝へ置いた。
朝から歩いた足が、まだ重かった。足袋の上から右の小指へ触れたが、いま履いているものは、そこには当たらなかった。
ほんとうに、馬鹿だね。
膝に置いた紙へ、雫が一つ落ちた。
ずっと胸の底に抑えつけていた感情が、言葉にも声にもならぬ静かな慟哭となって、瞼の裏から零れ落ちてゆく。
*
廊下で、何かを引きずる音がした。
千景は紙を座布団へ移し、手拭で頬を押さえた。襖を開けると、女将が隣の座敷から小机を運び出していた。
畳を傷めぬよう脚の下へ古い布を敷き、片端を持ち上げている。千景は廊下へ出て、反対側へ手を掛けた。
「どちらへ?」
「恐れ入ります。廊下の奥へ、お願いいたします」
二人で持ち上げると、思ったより軽かった。壁際へ下ろし、千景が手を離すと、女将は机の脚に挟まった布を引き抜いた。
「まだお客様がいらっしゃるのに、落ち着きませんことで。ここを手放す前に、少しずつ片づけておこうと思いまして」
「いいえ。これくらいでしたら」
座敷へ戻った女将は、重ねてあった座布団を抱えた。上の一枚が滑りかけ、千景は両手を出した。
「こちらも、同じところへ?」
「ええ。そちらへ」
二枚だけ受け取った。木綿の角は丸く擦れ、持ち上げると、詰めた綿が中で片寄った。小机の脇へ置いて戻ると、女将は床の間の花入れを下ろし、底に敷いてあった紙を剥がしていた。
壁際には、小机の脚の跡が四つ残っていた。千景は座敷を見渡した。道具が減って広くなったはずなのに、剥き出しの畳は、かえってよそよそしく見えた。
床の間の脇の柱に、目が留まった。二階の部屋にも、ああして背を預けられる太い柱があった。
五年前、宿に着いた翌日の夕餉のあと、惣一はそこへ凭れ、千景の手元を見ていた。
千景は借りた針で、浴衣の袖口のほつれを繕っていた。針目が揃わず、何度か抜き直しているうちに、男が手を出した。
「貸せ」
「これくらいは出来ます」
「そうか」
惣一は手を引っ込めた。しばらく黙っていたが、千景が針へ糸を通し直していると、不意に言った。
「少し、舞ってみろ」
「ここで?」
「ここで」
「いやだよ。舞台で見てください」
男は、舞台では遠い、と言った。
千景は笑った。衣裳の裏も、白粉を落とした顔も知っているくせに、何を今更と思った。そのまま袖口へ目を戻し、針を進めた。惣一はもう、舞えとは言わなかった。
あのとき、立てばよかったのだろうか。
立ったところで、何が変わったとも思えなかった。それでも、今になって、あの男の前で袖を上げてみたくなる。後悔と、静かな諦念が混ざり合い、どちらともつかぬものが胸に残った。
千景は座敷の中央を見た。
裾を引いて二歩進み、そこで身を返すだけなら、畳は足りる。袖を上げても、鴨居には触れない。
「千景さん」
女将の声に振り向いた。
「お疲れになりましたね」
「いいえ。少し、考え事を」
「お茶にいたしましょう。片づけは、まだ明日もございますから」
千景は頷き、自分の部屋へ戻った。
紙は、座布団の上に残っていた。拾い上げて、元の折り目に沿って、そっと畳んだ。
窓の外で、雫の落ちる音がした。
千景は紙を本へ戻さず、文机の端へ置いた。右の小指を一度曲げ、それから、両手を膝の上へ揃えた。




