第二章 隣の褥(しとね)に背を向けて
夕餉の膳には、小ぶりの川魚の塩焼きと、大根の煮たものが載っていた。
椀の蓋を取ると、味噌の匂いを含んだ湯気が顔に触れた。
千景はしばらく両手で椀を抱いていた。冷えた指の腹に、滑らかな漆の肌が触れている。口をつけるより先に、その温かさを惜しむように掌を添え直した。
庭はもう見えなかった。
障子の下の方に、積もりはじめた雪の明るさが僅かに残り、風が来ると、その白さの中で枝の影が揺れた。昼には遠くまであった宿の外の世界が、いまは障子一枚の向こうで尽きている。
女将が湯を足しに来たとき、千景は魚の身を半分ほど残していた。
「お口に合いませんでしたか」
「いいえ。少し、ゆっくり食べているだけです」
女将は頷き、急いで膳を下げようとはしなかった。
千景は箸の先で小骨を探ったが、身を崩すばかりで、なかなか口へ運べなかった。
千景は、昔から魚をきれいに食べるのが下手だった。
東京の暮らしでも、膳には幾度となく上ったはずなのに、箸を入れると身も骨も分からなくなった。
海沿いの村で育った相良惣一という男は、その手元を見ているうちに、黙って皿を引き寄せたものだった。男の箸が入ると、骨に残った身まで外れ、皿の片側に白く寄せられた。千景が礼を言っている間にも、惣一はもう、自分の飯を食べていた。
千景が初めて一座へ加わった頃から、惣一は衣裳方として楽屋にいた。
千景には、誰に何を頼めばよいのかさえ分からなかった。衣裳を戻す場所も、明日の支度も、惣一に尋ねた。男は面倒そうな顔をしながら教え、同じことを訊いても、覚えるまでは答えた。
袖丈を直してもらいに行ったはずが、ほつれた普段着まで預けるようになった。
食事を取り損ねていれば、針箱の傍らに握り飯が置かれていた。誰が用意したのかと訊くと、惣一は顔も上げず、食わんのなら下げるぞと不愛想に言った。
一度、熱を出して寝込んだ晩には、朝まで帰らなかった。
夜半に目を開けても、明け方に寝返りを打っても、男は枕もとにいた。水を飲ませ、汗に湿った寝間着を替え、千景が眠ると、また座り直した。夜が明け、もういいからと帰したとき、男の目の縁が赤くなっているのに気づいた。
そのあと、今度は惣一が風邪を引き、しばらく咳をしていた。
千景が楽屋へ戻ると、惣一はいつものように衣裳の直しを持ってきた。
あの晩のことを話すでもなく、顔色を窺い続けるでもなかった。千景には、それが心地よかった。礼の言葉を重ねなくても、黙って傍にいられた。
仕事が済んでも帰らず、男が針を置くまで待つことが増えた。惣一も、まだいたのかとは言わなくなった。
そしていつしか同じ屋根の下で暮らすようになっていた。
並んで膳に向かえば、男は千景の皿へ箸を伸ばした。千景も、骨の多いところは、初めから残しておくようになった。
そんなことを思いながら、千景は箸先に触れた小骨を皿の端へ置いた。
ひと口分の身を取ると、魚の腹の辺りが大きく崩れた。千景はそれを寄せ直し、少しずつ口へ運んだ。湯気の薄くなった椀の底に、細く刻まれた葱が沈んでいた。
「今夜は、積もるでしょうか」
千景が障子へ目をやると、女将もそちらを見た。
「ええ。このままでしたら、少しは」
鉄瓶の口から、細い湯気が立っていた。女将は蓋を押さえ、千景の湯呑みへ湯を足しながら言った。
「国からの便りでは、もうすっかり冬だそうでございます」
「お生まれは、北の方ですか」
「北海道でございます。こちらへ嫁いでからも、初雪の頃には、よく思い出します」
「では、こんな雪は珍しくもないでしょう」
「ええ。それでも、年を取ると、寒さばかりが先に身に沁みまして」
女将は小さく笑った。
千景も茶碗を手に取り、湯気の向こうの障子を見た。昼間はまだ、雪の下に庭石の形が見えていた。いまはもう、どれほど積もったのか分からない。
茶碗の温もりを両手に受けながら、千景は女将の故郷の、見たこともない雪を思った。
「二階は、もう使わないんですね」
女将は鉄瓶を戻してから、千景の方へ向き直った。
「ええ。近頃は、下のお部屋だけで間に合うものですから」
「二〇六は、もっと前からでしたね」
「ええ。あの部屋はだいぶ傷んでおりましたので」
「そうでしたね」
千景は、五年前に惣一と泊まった二〇六号室を、今回も頼んでいた。けれど、女将からの返事には、四年前から客には貸していないとあった。
ほかの部屋も、今は一階だけで足りているのだろう。それでも千景は、ここまで来れば、あの部屋だけは使わせてもらえるかもしれないと、荷を解くまでは思っていた。
窓際の柱に爪で引いたような細い疵があり、床の間の脇には、色の薄くなった鳥の絵が掛かっていた。
五年前に惣一と泊まった二〇六号室について、千景が覚えているのはそんなことだった。二階の窓から山がどのように見えたかよりも、柱の疵の方が、指に触れるほど近く思い出された。
「このお部屋でしたら、お庭へもすぐ出られますし」
「ええ。こちらも、いいお部屋です」
千景がそう言うと、女将は膳の端へ落ちた小骨を見て、空いた皿を少し近くへ寄せた。
食事が済むまでに、廊下を二度、人が通った。一度は桶を持っていたらしく、歩みに遅れて、水の揺れる音がした。二度目の足音は階段のところで止まり、板の軋む音が、一つずつ上へ移っていった。
*
湯から戻ると、床が敷かれていた。
枕は床の間を背に置かれ、掛布団の襟だけが、こちらへ少し折り返されている。丹前を肩から外して浴衣の襟を直すと、湯に浸かったはずの身体に、もう冷気が忍び込んできた。
千景は布団の端へ腰を下ろした。髪を拭く手拭から、洗い晒した木綿の匂いがした。
五年前は、二つの床が並んでいた。
壁際が千景で、窓に近い方が惣一だった。なぜそうなったのか、いまでは分からない。千景はあの晩、そこまで気を配れるほど穏やかではなかった。
宿へ着いてからも、足の裏に道の石の硬さが残っていた。部屋へ通されると、千景は座ったきり、しばらく立てなかった。
夕餉を終えても、着物を脱ぐのさえ億劫で、帯を解く手を途中で休めた。先に浴衣へ着替えた惣一が背後へ回り、何も言わずに帯の端を取った。
「自分で出来ます」
「そうか」
男は手を離した。
離されれば、それも気に入らなかった。千景は男の顔が映る壁の吊り鏡へ目を上げず、解いた帯を、畳みもせずに脇へ置いた。惣一はそれを拾って二つに折り、衣桁の横木へ掛けた。
「もう寝るのか」
「疲れたんです」
それだけ答え、先に床へ入った。
襖が閉まってから、あんな言い方をしなくてもよかったと思った。けれど、呼び戻す言葉も見つからず、布団の中で足を擦り合わせているうちに、眠ってしまった。
夜明け前、入口で戸の閉まる音がした。その音で、千景は目を覚ました。
座敷の灯は消えていた。
襖の合わせ目から、続き間の踏込の灯が細く漏れている。やがて襖が開き、その明かりが畳の上へ差し込んできた。千景は目を閉じた。すぐ近くで衣擦れがして、煙草に交じった微かな酒の匂いがした。
惣一は酒に強い方ではなかった。飲むと口数が減り、帯を解くにも、畳むにも、いつもより時間が掛かった。
寝ていると思われたままで、よかった。
それでも、衣擦れが止むと、千景は布団の襟から口もとを少し出した。男が手をついて屈めば、呼吸の変わったことくらいは分かったはずだった。
窓側で布団の擦れる音がした。男が横になったらしく、やがて、そちらから寝息が聞こえはじめた。
千景は壁を向いていた。冷えた足を少し伸ばし、掛布団の端へ寄せた。
結局その晩、千景の床へ男は来なかった。
宿のどこかで戸が閉まった。
遠くの水音が一度止み、また聞こえた。障子の桟が薄く見えるようになるまで、千景は何度も寝返りの向きを考え、そのたびに、同じ方を向いたまま目を閉じた。
そうして、いつしかまた眠ってしまった。
朝、襖を開けて隣の間へ行くと、惣一はいつもと変わらぬ顔で茶を飲んでいた。
「眠れたか」
千景は襟を直しながら頷き、男の正面へ腰を下ろした。茶碗を持つ指に、針仕事で出来た小さな疵が見えた。
昨夜は誰と飲んでいたのかと、訊こうとした。けれど、訊けば、自分が起きていたことまで言わなければならない気がした。
男の茶碗が空になるのを待ち、急須を取って、黙って茶を注いだ。
*
翌朝、一階の部屋で目を覚ますと、障子一面が白く明るんでいた。
千景はしばらくその白さを眺めてから、身を起こした。床を出て障子を少し開け、隙間から顔を覗かせると、冷気が頬に触れた。
庭には、うっすらと雪が積もっていた。
もう降ってはいなかったが、植込みの上は白く、枝の下には黒い土が覗いている。石の表にも薄く雪が載り、その縁だけが濡れて、朝の光を鈍く返していた。
千景は襟もとを片手で押さえ、隙間に顔を寄せたまま、しばらく庭を見ていた。
障子を閉めると、部屋の空気が僅かに温かかった。
顔を洗い、別の座敷に用意された朝餉を済ませてから、部屋へ戻った。湿った手拭を畳み、文机の本へ手を伸ばした。
昨日の夕方には、開いたところを一行も読まなかった。二冊を重ねて文机へ移し、手袋だけは、風呂敷の上に残してあった。
上の一冊を取り、表紙の反りを指で押さえた。前の方から少しずつ頁を送ると、紙の縁には、指で触れられたところだけ薄く色がついていた。文字を追おうとすると、すぐ次の行へ目が滑った。
終わり近くまで繰ったとき、頁の間から、薄茶色のものが覗いた。
本の紙より薄く、細長く折られていた。端には朱い印の一部が残っている。そっと広げると、見覚えのある菓子屋の名が、折り目を跨いで現れた。
紙の裏には小さな染みがあった。千景はその形を見てから、指の腹で、何もついていないところをそっと撫でた。
五年前、宿へ来る途中で買った菓子だった。
信濃四ッ谷には、まだ駅のなかった頃である。長い道の途中で休んだ店の軒先に、菓子が並んでいた。惣一は甘いものを欲しがらなかったが、千景が見ていると、二つだけ買って袂へ入れた。
食べたのは、ひとりで冷えた足を擦り合わせていた、あの夜の翌日の午後だった。
惣一は、仕事の待ち時間にもよく本を読んでいた。千景が声を掛けても返事がないことがあり、二度呼ぶと、ようやく頁から顔を上げた。
その日も、惣一は片肘をついて本を読んでいた。千景は二階の窓際に座り、菓子の包みを膝へ広げていたが、食べ終えた紙を丸めようとすると、男が顔を上げた。
「それ、貸せ」
「これを?」
差し出された手に、広げ直した紙を載せた。
「栞にする」
「汚れますよ」
惣一は紙の内側を見て、指先で一度払った。菓子の屑が畳へ落ち、千景が眉を寄せると、男は落ちたものを指先で寄せ、空いた皿へ移した。
「ほら」
「ほら、じゃありません」
男は少し笑った。千景も、笑うつもりはなかったのに、口もとが緩んだ。
惣一は紙を細く畳み、読み始めたばかりの頁へ挟んだ。
千景が寄って覗こうとすると、本を閉じ、膝の向こうへ置いてしまった。
「何を読んでいたの」
「漱石だ」
「漱石の、何」
「草枕。お前には退屈だ」
「漱石も、お菓子の匂いがするでしょうね」
千景は本の端から覗く紙を見て、少し笑った。
男は答えず、茶碗を取った。千景の膝に残るもう一つの菓子へ目を留め、顎を少し動かした。
「そっちは食わんのか」
「あとで」
そのあと、それを食べたかどうかは、忘れてしまった。
千景は紙を障子の光に透かした。染みのところだけ飴色に透け、幾重にも折られた筋には、細かな裂け目が入っていた。
男の紙を畳む指と、笑ったときの目尻が思い出された。あの夜のことを訊かないまま、こんなふうに笑っていた。
開いた本を膝へ置き、紙の挟まっていた頁に指を残した。朱い印のある包み紙は、もう片方の手に持っていた。
二人でこの宿へ来たのは、五年前の一度だけだった。
その後も惣一は一人で通った。
最初は翌年の春だった。仕事の切れ目に、山を見てくると言った。そのあとも二度、同じ宿の名が男の口に上った。
千景は、山の何がそれほどいいのかと思ったが、歩き疲れた自分を待つより、一人で行く方が気楽なのだろうと、それ以上は言わなかった。
その間に、この栞も、ずいぶんと本の終わり近くまで旅をしていた。
一人で四度目に出掛けるとき、男は着替えを包んだ風呂敷を結びながら言った。
「もうあそこへ行くのは、今度で最後にする」
「山は、もういいんですか」
惣一は一度、結び目を引いた。短くなった片方を指で摘まみ直し、返事をしないまま、もう一度結んだ。
千景はその手元を見ていた。結び目のことを言おうかと思い、やめた。男が持ち帰ってきたら、そのときにまた、解きにくいと文句を言えばよかった。
それから数日後、帰らないという知らせが来た。
翌日、千景は宿へ駆けつけた。
夜明け前に山へ出たのだと、女将から聞いた。山を知る者が捜しているとも聞いた。千景は、地図の上で捜した場所を尋ね、その答えを聞くと、また別の場所を指した。
宿に残した荷物は、警察が持っていったという。何か手掛かりになるものがないか、調べているのだと聞かされた。千景は荷物を見ることも出来ず、帰ってきた。
二か月ほどして、宿から手紙が届いた。
警察で預かっていた男の荷物が戻ったので、受け取りに来てほしいとあった。女将の字は小さく、便箋の端まで揃っていた。
受け取りに行けば、持ち帰ることになる。
あの男が自分で取りに来るかもしれない品を、千景が引き取ってよいものか、返事を書く間にも決められなかった。
礼を書き、受け取りには、また今度、伺ったときにと返した。その翌年も、女将から手紙が届いた。同じような返事を書き、出掛ける支度はしなかった。
いま、膝のすぐ脇に、その荷物がある。
千景は包み紙を元の折り目に沿って畳み、指を残していた頁へ収めた。紙を挟んだところだけ僅かに厚くなった本を閉じ、しばらく表紙に手を置いていた。
『草枕』――擦れた背の文字を、指先で静かに撫でた。
廊下で足音が止まった。
「お茶をお持ちしました」
返事をすると襖が開き、女将が盆を運んできた。
文机の空いたところへ急須と茶碗を置き、千景の方へ向けた。
「よく、お休みになれましたか」
「ええ」
千景は本から手を離して頷いた。
女将が注いだ茶の湯気が、二人の間に薄く立った。
「静かですね。雪は、いつ頃やんだんですか」
「明け方には。道の方も、歩けるようでございますよ」
「少し、出てみようかな」
「お足もとが悪いですから、お気をつけて。お履物は、お縁の方へ出しておきます」
女将が出ていってから、千景は茶を飲んだ。
昨夜と同じ茶碗だったが、朝の光の下では、釉薬に走る細かなひびまで見えた。飲み終えても、指の間には温もりが残った。
千景は本を文机の奥へ寄せ、身支度を整えた。羽織に腕を通すと、襟足へ触れた裏地が冷たかった。指先で襟を引き寄せ、障子を開けた。
軒から、雫が落ちていた。
庭の雪には、ところどころ土の色が滲んでいる。植込みの上に残った白さの下で、葉の先だけが濡れて光っていた。石燈籠の笠には雪が残り、その縁からも、間を置いて水が落ちた。
濡縁には履物が揃えてあった。
千景は腰を下ろし、足を通した。垣越しに見える細道は、轍のところだけ黒く、曲がり角の先へ続いている。
昨日、子供の声が遠ざかっていった道だった。
千景は羽織の前を合わせ、立ち上がった。襟の隙間へ冷気が入り、顎を少し引いた。
庭へ下りる前に、千景は一度、ゆっくりと息を吸い込んだ。




