第一章 雨が雪に変わった
昭和七年十一月。
午後から、雨が雪に変わった。
足袋のつま先の白に白が重なる。
山では、もうずっと前から雪なのだろう。
あの人は寒くないだろうかと思い、千景は番傘の柄を握り直した。
あの朝、男は手袋を持っていったのだろうか。
四年前、知らせを受けてこの宿へ駆けつけたときには、宿の者に幾度も尋ねた。
返ってきた言葉はどれも曖昧で、それでも、その晩だけは眠れるような答えを、一つ選んで胸に留めていた。
後立山の峰々は、裾からゆっくりと暮れていた。谷間にわだかまった雲が落葉松の疎林を這い上がり、褪せた金茶の色を梢から奪ってゆく。先刻まで雲の綻びに覗いていた錆びた色の稜線も、いまは降りしきる白の奥へ退いていた。千景はその辺りを見続けていたが、山と空との境には、薄墨を刷いたような翳りが残るばかりだった。
山裾に寄り添う家々には、まだ灯がなかった。濡れた屋根の間を縫って細道が続き、曲がり角の先で雪に紛れている。道沿いの畑では、刈り残された茎に白いものが引っ掛かり、風が渡るたびに身を震わせていた。軒下に積まれた薪だけが、雨にも雪にも濡れず、割られた木肌の色を留めている。
千景は宿の庭へ張り出した濡縁に立ち、借りものの番傘を差していた。
油紙を叩いていた雨音は、いつの間にか絶えている。傘の縁から落ちる雫ばかりが、まだ足もとの板を打っていた。柄を握る手を替え、空いた指を袂へ引き入れる。袖の内側も冷たかった。
吐く息が、僅かに白い。
二十八になる女形だった。白粉を落としても目尻から頬へかけて仄かな色が残り、長い睫毛の下に伏せられた目は、ものを見ていないときほど人目を惹くのだと、よく言われた。襟から伸びる頸には、俯くたびに細い筋が浮いたが、袖口を押さえて傘を傾ける所作には、舞台を離れても崩れない、静かな間があった。
この秋から舞台を休んでいる。衣裳の紐を以前と同じところで結ぶと緩みが出た。鏡の前に座っていられる時間も短くなったが、見舞いに来た者には、いっそう綺麗になったと言われた。千景は笑って礼を言い、その者が帰ってから、合わせ鏡で自分の頸を見た。
庭の垣越しに、幼い子の手を引く女が通った。女の差す傘の下で、子供はその脇に身を寄せていた。
子供は傘の外へ空いた方の手を差し出し、雪を掴むように指を握り込んでいた。女に手を引かれると小走りになり、二、三歩進んでは、また顔を傘から出して仰向ける。やがて女も足を止め、子供の開いた襟もとを掻き合わせた。傘が傾き、その肩に雪が掛かった。
二人が曲がり角へ消えたあとも、千景はしばらく道を見ていた。子供の声が一度だけ聞こえたが、何と言ったのかは分からなかった。
風が庭を渡り、細かな雪片が傘の内へ吹き込んできた。千景は足もとを見下ろした。足袋に載った雪はもう融けて、親指の爪のあたりに、小さな水の染みが出来ている。
寒いと思うより先に、叱られる、と思った。
いつまでもそんなところに立っているからだと、あの男なら言っただろう。
自分は夜明け前の山へ平気で出てゆくくせに、千景が縁側で風に当たっていると、決まって厭な顔をした。肩へ無造作に放りかけられた羽織には、あの男のぶっきらぼうな優しさが、煙草と、外から持ち帰った枯葉の匂いとともに残っていた。千景が襟を掻き合わせている間に、男は隣へ腰を下ろし、もう山の方を見ていた。
羽織を脱いだ背中を覚えている。着物の肩に朝露の跡があり、帯の上には、小さな葉が一枚貼りついていた。それを取ってやったのか、黙って見ていたのか。その先を思い出そうとすると、葉の色まで曖昧になった。
背後で襖の開く音がした。
「お寒うございましょう」
女将のお志乃はそこで一度言葉を切り、千景の足もとへ目を落とした。抱えてきた着古された丹前を火鉢の傍らへ置き、少しほつれた袖先を内側へ折り込んだ。
「火を、足しておきましたから」
「ええ。すぐに」
返事をしてから、千景は庭へ目を戻した。
石燈籠の笠が白くなり、濡れた飛石の縁も少しずつ丸みを帯びはじめている。
あの男は、庭を通るたび、燈籠の手前の一つだけを跨いで歩いた。ぐらつくのだと教えられ、一度、足を載せて確かめたことがある。傾いた石から慌てて足を戻すと、だから言ったろうと笑われた。
「お荷物も、お部屋へ」
千景は頷いた。顔を向けると、女将は襖の傍で待っていた。
番傘をすぼめ、濡れた油紙を軒下へ立て掛けた。部屋へ戻ろうとして、つま先の染みにもう一度目を落とし、敷居の手前に腰を下ろした。
足袋のこはぜを外す指が、うまく動かなかった。湿った布が親指に貼りつき、かかとを抜くときには、片手で足首を支えなければならなかった。脱いだ足袋を重ね、濡れたところを上にして板の端へ置いた。
立ち上がって敷居を越えても、足の裏には濡縁の冷たさが貼りついていた。小さく息をつき、それを聞かれた気がして、着物の襟を直した。
「今度は、信濃四ッ谷まで汽車でいらしたのでしょう」
女将が火鉢の傍らから丹前を取り、広げながら言った。
「ええ。楽になりましたね」
「二十日に通ったばかりでございますから。まだ皆、停車場を見に行くようなことを申して」
「新しい板の匂いがしました」
千景が袖を通すと、女将は背に余った布を軽く引いた。襟を合わせれば、火に近かったところが温かく、千景はそこへ手を添えた。
「お疲れも、少しは違いましょう」
「そうね。もっと早く通っていたら」
言いかけて、千景は丹前の襟へ目を落とし、そのまま火鉢の前に腰を下ろした。冷えていた頬が、火に近い方からほてりはじめる。薄暗がりの中、炭の赤い明かりが、俯いた頬に淡く揺れていた。
二人で初めてこの宿へ来たときには、道中で幾度も休んだ。男は荷物を持って先を行き、振り向いては歩調を緩めた。先へ行っていいと言うと、本当に少し先まで行き、そこで煙草を吸って待っていた。待たれていると思うのが癪で、千景は休みたいと言えず、宿へ着く頃には口を利かなくなっていた。
「これからは、いらっしゃるにも」
女将はそこまで言い、伏し目がちに丹前の裾を千景の膝へ掛け直した。
「……お茶をお持ちします」
千景は礼を言った。女将が襖を閉めてから、丹前の襟を押さえていた手を膝に下ろした。
火鉢の傍らに、小さな包みがあった。
男が山へ出たという朝、この宿へ置いていった荷物だった。女将からは毎年、荷物をどうするかと手紙が届き、そのつど、また今度と返事をしてきた。千景のものではなかったし、急いで持ち帰らなければならない品もなかった。
ずいぶん遠い日に、置き去りにしてきたもののような気がした。
今年届いた手紙には、冬を最後に宿を畳むとあった。何度読み返しても、返事に書くことは決まらず、結局、訪ねる日だけを知らせた。
千景は包みの前に膝を進めた。
風呂敷は思いのほか新しかった。結び目は小さく、そこから出た両端も同じ長さに揃っていた。
男はいつも片方を短く結ぶので、解くときには爪を立てなければならなかった。千景が一度それを咎めると、男は次から結びもせずに寄越すようになった。
女将が包み直してくれたのだろう。千景は結び目に指を掛け、すぐに離した。
火鉢へ両手を伸ばし、手の甲を火に向けた。炭の表を薄い灰が覆い、白い指の間から赤いものが見えた。手の甲が温まってから掌を返し、長くて細い指をゆっくりと曲げ伸ばしした。
右手を伸ばす。
風呂敷の結び目は、軽く引いただけで解けた。
擦り切れた毛糸の手袋と、小さな本が二冊。本は角を揃えて重ねられ、手袋も左右を重ね、小さく畳んで添えてあった。
千景は手袋を見た。
置いていったのだ。
人には、冷やすなと口うるさかったくせに。
親指の付け根に、繕った跡があった。男が千景の衣裳の綻びを直すときには、裏から見ても糸目が分からないほどだったのに、自分のものはいつもぞんざいで、そこだけ違う色の糸が渡っていた。
これでは寒いだろう、と考えかけた。
千景は本を取り上げた。表紙の端が反り、背の布が白く擦れている。開くと紙の乾いた音がして、指の当たった頁の隅が僅かに欠けた。
その小さな紙片を掌に受け、しばらく眺めていた。
廊下で足音がした。千景は顔を上げ、襖を見た。茶器の触れ合う音がしてから、本へ目を戻した。
頁はまだ一枚も繰っていなかった。千景は本を開いたまま、掌に残った紙片を、そっと火鉢の灰へ落とした。




