エピローグ
昭和八年四月。
正月の『不帰の雪待草』で舞台へ戻って以来、千景を目当てに訪れる客が増えた。
この春、初めて臨む京都興行も、切符は早々に売り切れていた。
京都四條南座。
楽屋の窓が、細く開けてあった。
風が入るたび、鏡の脇に掛けた手拭の端が揺れた。外の光は窓際の床まで届き、そこから先には、白粉と鬢付油の匂いを含んだ薄明かりが籠っていた。楽屋の隅では、裏方の男が針仕事の手を休め、新聞を広げていた。
千景は鏡の前に座り、袖口から出した手を膝に置いていた。
白く塗った頸の下で、衣裳の襟がきちんと合わされている。襟の内側へ指を入れようとして、やめた。鏡に映る肩を僅かに引き、ゆっくりと息を吐いた。
廊下で足音が止まった。
「千景さん、お願いします」
「はい」
膝から手を離し、立ち上がった。
(近くで見ていてね)
裾を整えて戸口へ向かうと、呼びに来た者が脇へ退いた。千景は小さく頷き、その前を通った。
二人の足音が遠ざかった。
裏方の男も新聞を机へ置き、繕い終えた衣裳を抱えて楽屋を出た。
鏡には、千景の座っていた座布団と、衣桁に掛かった羽織が映っていた。紅筆は小皿の縁に伏せられ、使いかけの白粉の蓋が、その傍らに置かれている。
その向こうに映る低い机には、大きめの毛糸の手袋が重ねてあった。擦れた編み目のところどころに繕いがあり、親指の付け根には、色の違う糸が渡っていた。
窓から風が入った。
机の端で、裏方の男が置いていった新聞が鳴った。折り目の浮いた紙が一度持ち上がり、また同じところへ落ちた。
火事を伝える記事の脇に、小さな見出しがあった。
*
廃業旅館の庭から白骨
四年余前の行方不明者か 元女将が殺害を自供
北安曇郡内の旧旅館敷地で、土地を買い受けた業者が整地を行っていたところ、石燈籠の手前の土中から、白骨化した男性の遺体を発見した。
警察が同旅館の元女将、平川志乃(四十二歳)を取り調べたところ、同女は昭和三年十一月十八日、同旅館二階の客室で、夫の死後に関係を持った男から「もうここには来ない」と告げられ、口論の末、その場にあった刃物で男を刺し殺し、庭へ埋めた旨を自供した。
同女は当時、男が未明に山へ出たまま戻らぬと届け出ており、付近の山中では捜索が行われていた。
警察では、遺体は昭和三年十一月から行方不明となっている東京の衣裳方、相良惣一氏(失踪当時三十四歳)とみて、身元の確認を進めている。
*
緞帳が、静かに上がっていった。
明るく照らされた舞台の中央に、千景が立っていた。
衣裳の袖には金糸が淡く光り、白く塗った顔の下で、紅を差した唇が静かに結ばれている。
客席に拍手が広がり、やがて収まった。残っていた囁きも途切れ、人々の目が、その姿へ集まった。
千景は初めて立つ京都の舞台で、床を爪先でトントンと二度叩いた。




