第65話「刷る、そして刻む」
『村のあゆみ・第一部』が完成してから、ふた月ほどが過ぎていた。湊は、二十七歳になっていた。
この間、村には、また、四人の新しい住人が加わっていた。人口は、百四十八人になっていた。
ある朝、湊は、書庫で、ケイと共に、ある問題に、頭を悩ませていた。
「湊さん、困ったことになっています」
「どうした?」
「『村のあゆみ』を、学び舎で使いたいという声が、増えているんです。ですが、今は、私たちが、一冊ずつ、手で書き写しているので、まったく、追いつきません」
湊は、この報告に、深く頷いた。確かに、書物という形が生まれたことで、村の人々の間に、それを読みたいという欲求が、急速に、広がりつつあった。
「一冊、書き写すのに、どれくらいかかる?」
「早くても、半月ほどです。それも、他の仕事を、すべて止めて、専念した場合ですが」
湊は、しばらく、考え込んだ。
「これでは、いつまで経っても、必要な数には、届かないな」
湊が思い出したのは、印刷という技術だった。木の板に、文字や絵を、彫り込み、そこにインクを塗って、紙に押し付ける。同じものを、繰り返し、刷ることができる。
湊は、イワを、呼び出した。
「イワ、木の板に、文字を、彫れないだろうか」
「彫るだけなら、できますが……何に、使うんですか」
「そこに、墨を塗って、紙に、押し付けるんだ。そうすれば、同じものを、何枚でも、作れるはずだ」
イワは、この構想に、目を、輝かせた。
「面白そうです。やってみます」
だが、この技術は、簡単ではなかった。木版に、文字を彫る作業は、極めて、精密さを要求された。しかも、紙に押し付けたときに、正しく読めるようにするには、文字を、左右反転させて、彫らなければならない。
「湊さん、これは……思った以上に、難しいです」
イワが、最初の試作を終えて、そう、報告した。彫り上がった板を、実際に、紙に押し付けてみると、文字は、確かに、写った。だが、線の太さが、まちまちで、所々、掠れていた。
「反転させて彫るのが、これほど、頭を使うとは、思いませんでした」
イワは、この課題に、根気強く、向き合い続けた。彫る深さ、線の太さ、そして、墨の量。一つ一つを、少しずつ、調整していく。
この試行錯誤には、実に、二ヶ月半ほどの月日が、費やされることになった。
ある日、イワが、興奮した様子で、湊のもとに、駆け込んできた。
「湊さん、見てください!」
イワが差し出したのは、一枚の紙だった。そこには、比較的、鮮明な文字が、確かに、印刷されていた。
「これは……読める。ちゃんと、読める」
湊は、その紙を、しばらくの間、じっと、見つめていた。
「イワ、よくやった。これで、随分と、変わるはずだ」
この木版印刷の技術により、これまで、一冊、半月かかっていた複製が、格段に、速いペースで、行えるようになった。もちろん、木版そのものを彫るのには、依然として、時間がかかった。だが、一度、板を彫ってしまえば、あとは、何枚でも、刷ることができる。
この技術の完成を受け、村では、次々と、書物が、複製されるようになっていった。学び舎で使われる教材の数は、飛躍的に増加し、より多くの子供たちに、確かな教育を、届けられるようになった。
この印刷技術の発展と時を同じくして、湊は、もう一つの、これまでとは、まったく異なる性質の、記録の方法についても、思いを巡らせるようになっていた。
ある夜、湊は、タギとイワを、工房に呼び出した。
「二人に、また、無茶な相談が、あるんだ」
タギが、少し、笑いながら、答えた。
「湊さんの無茶には、慣れました。何ですか」
「音を、記録できないだろうか」
この言葉に、二人は、顔を見合わせた。
「音を、記録……というと?」
「例えば、誰かの声を、後から、もう一度、聞けるようにする。そういう仕組みだ」
イワが、首をかしげた。
「文字なら、書き残せますが……音そのものを、というのは」
「俺の記憶では、音の振動を、円盤の表面に、細かな溝として、刻み込むんだ。そして、それを、針で、なぞる。そうすると、また、音として、再現できるらしい」
タギは、しばらく、考え込んだ後、口を開いた。
「あの、電話の技術と、似ていますね。声が、膜を、震わせる」
「そうだ。よく、気づいたな」
湊は、タギのこの理解力に、深く感心した。
「その振動を、電気に変えるんじゃなく、そのまま、針を動かす力に、使うんだ」
この研究は、これまでの、どの技術とも異なる、極めて繊細な精度を、要求するものだった。
まず、記録の媒体となる、円盤が、必要だった。イワは、蝋に近い、加工しやすい物質を、いくつか試した末、村で採れる、ある植物性の樹脂と、獣脂を混ぜ合わせたものが、比較的、適していることを、見出した。
次に、音の振動を、針に伝える仕組みが、必要だった。タギは、これまでの電話の送話器の経験を活かし、薄い膜に、細い針を取り付けた、簡素な装置を、作り上げていった。
最初の試みは、まったく、成果を上げなかった。
「湊さん、溝は、確かに、刻まれています。でも、それを、針でなぞっても……何も、聞こえません」
イワが、落胆した様子で、そう、報告した。
湊たちは、この課題に、根気強く、向き合い続けた。溝の深さ、円盤の回転速度、そして、針の重さ。一つ一つを、少しずつ、調整していく。
この試行錯誤には、実に、三ヶ月ほどの月日が、費やされることになった。
ある日、湊が、工房を訪れると、タギとイワが、円盤の前で、じっと、耳を澄ませていた。
「どうした?」
「湊さん、静かに……聞こえませんか」
湊は、二人の隣に、しゃがみ込み、耳を、近づけた。
かすかに、しかし、確かに、何かの音が、聞こえてきた。それは、ひどく歪んで、掠れていたが、確かに、人の声のような、響きを持っていた。
「これは……」
「さっき、私が、この円盤に、声を、吹き込んだんです」
イワが、震える声で、そう、説明した。
「『こんにちは』と、言いました」
湊は、もう一度、耳を澄ませた。確かに、その歪んだ音の中に、その言葉らしき響きが、含まれているように、聞こえた。
「聞こえる……! イワ、タギ、これは、大変なことだぞ」
湊は、この成功に、深い感慨を、覚えていた。
「これで、声も、音楽も……この村の、今この瞬間の音を、後の世代に、確かに、残していけるようになる」
もちろん、この最初の円盤レコードは、まだ、実用には、程遠いものだった。音は、極めて、聞き取りにくく、円盤も、数回、針でなぞると、溝が、すり減ってしまう。
それでも、湊は、この技術に、大きな意味を、見出していた。
「文字は、確かに、多くのことを、残せる。でも、声そのものは、残せない。この技術が、いつか、それを、可能にするかもしれない」
湊はレポート用紙――いや、今や、綴じられた記録帳に、この一連の成果を、書き記した。
『木版印刷の技術を確立。二ヶ月半を要した。書物の複製速度が、飛躍的に向上』
『円盤に音を刻む技術の、初歩的な成功。三ヶ月を要した。まだ、実用には遠いが、音を後世に残す、確かな第一歩』
夕暮れ、湊は、書庫で、刷り上がったばかりの『村のあゆみ』の写しを、何冊も、並べて、眺めていた。かつて、一冊しかなかった、この村の歴史が、今、確かに、複数の形で、存在している。
その傍らには、あの、音を刻んだ円盤が、静かに、置かれていた。
湊は、二十七歳のまま、この作業を終えた。この世界に来てから、十二年七ヶ月ほどが、過ぎていた。
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【第65話 時点 文明発展状況】
湊27歳/漂着後 12年7ヶ月
人口:148人
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01 生存・サバイバル ★★★★☆ 継続中
02 食料・農業 ★★★★☆ 継続中
03 畜産・動物 ★★★★☆ 継続中
04 漁業・水産 ★★★★☆ 継続中
05 狩猟・採集 ★★★☆☆ 継続中
06 水・衛生 ★★★★★ 継続中
07 医療・薬学 ★★★★☆ 継続中
08 住居・建築 ★★★★☆ 継続中
09 土木・インフラ ★★★★☆ 継続中
10 火・エネルギー ★★★☆☆ 継続中
11 鉱業・金属 ★★★★★ 継続中
12 製造・工業 ★★★★★ 木版印刷、円盤レコードの製作技術を確立
13 科学・技術 ★★★★★ 音の物理的記録という、新たな領域を開拓
14 言語・文字・出版 ★★★★★ 印刷により書物の量産が可能に。音の記録という新分野も誕生
15 教育・研究 ★★★★★ 教材の増産により、教育が大きく普及
16 経済・商業 ★★★★★ 継続中
17 政治・法律・行政 ★★★★★ 継続中
18 外交・交通・情報 ★★★★★ 継続中
19 軍事・防災・治安 ★★★★☆ 継続中
20 文化・娯楽・思想 ★★★★★ 書物と音の記録により、文化の継承手段が大きく拡張
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