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第9話 初めての一ピア

第9話 初めての一ピア


 朝の空気は冷たかった。


 ガストン商店の裏庭で、アルフレッドは箒を握りしめていた。


 握りしめているだけだった。


「おい」


 ガストンが言う。


「何だ」


「掃除しろ」


「している」


「してない」


 アルフレッドは箒を見る。


 確かに持っている。


 だが床は何も変わっていない。


「箒というのは持っているだけでは駄目なのか」


「魔法の杖じゃねぇんだ」


 朝から怒鳴られた。


 アルフレッドは不機嫌だった。


 昨日は荷物を運んだ。


 掃除もした。


 人生についても考えた。


 だから今日は少しは評価されると思っていた。


 だが現実は甘くない。


「右だ」


「何だ」


「もっと右へ掃け」


「こうか」


「違う」


「こうか」


「もっとだ」


「うるさい」


「うるさく言われたくなかったら覚えろ」


 腹が立つ。


 だが反論できない。


 実際に出来ていないからだ。


 掃除が終わる頃には汗だくだった。


 麻のシャツが背中に張り付いている。


 腕も重い。


 王宮で剣術訓練をしていた時とは違う疲労だった。


 もっと地味で。


 もっとしつこい。


 昼前になると今度は荷物運びだった。


 小麦粉の袋。


 塩の樽。


 乾燥豆。


 木箱。


 次から次へと運ばされる。


「何でこんなに重いんだ」


「中身が入ってるからだ」


「知ってる」


「じゃあ聞くな」


 ガストンは容赦がなかった。


 市場へ商品を届ける途中。


 アルフレッドは足を止めた。


 広場の噴水が見える。


 子どもたちが笑いながら走り回っている。


 その横で果物屋の主人が客と値段交渉をしていた。


「高い!」


「高くない!」


「昨日より高い!」


「昨日より甘い!」


 周囲から笑い声が上がる。


 アルフレッドは少し驚いた。


 王宮の商人たちは皆頭を下げていた。


 だがここでは違う。


 みんな対等だった。


 売る方も必死。


 買う方も必死。


 それが妙に新鮮だった。


 昼食は店の裏だった。


 豆の煮込み。


 黒パン。


 薄切りの燻製肉。


 玉ねぎの酢漬け。


 豪華ではない。


 だが湯気の立つ煮込みはいい匂いだった。


 豆がほろりと崩れる。


 燻製肉の塩気が効いている。


 黒パンは固いが香ばしい。


「うまい」


 思わず言う。


「腹が減ってるだけだ」


 ガストンが答えた。


「それでもうまい」


「そうか」


 ガストンは少しだけ笑った。


 午後も働いた。


 店番。


 掃除。


 荷運び。


 商品整理。


 失敗もした。


 塩袋を落とした。


 豆袋を倒した。


 客に釣り銭を間違えた。


 そのたびに怒鳴られた。


「お前、本当に王子だったのか」


 夕方。


 ガストンが呆れたように言った。


「何だその顔は」


「いや」


 ガストンは肩をすくめる。


「想像してた王子と違う」


「どんな王子だと思ってた」


「もっと賢い」


 アルフレッドは黙った。


 返す言葉がなかった。


 日が傾き始める。


 市場の喧騒も少しずつ静かになる。


 店を閉める時間だった。


 アルフレッドは疲れ切っていた。


 足が棒のようだ。


 肩も痛い。


 腰も痛い。


「終わった……」


 思わず呟く。


 するとガストンが帳場の引き出しを開けた。


 中から何かを取り出す。


「ほら」


「何だ」


 アルフレッドの手のひらに置かれた。


 小さな銅貨だった。


 夕日の光を受けて鈍く光っている。


「一ピアだ」


「……」


「今日の給金」


 アルフレッドは固まった。


 一ピア。


 たった一枚。


 王宮にいた頃なら床に落ちていても拾わなかった金額だ。


 だが今は違う。


 重かった。


 信じられないほど。


「一日働いてこれだけか」


 思わず口にする。


 ガストンは頷いた。


「ああ」


「少なくないか」


「ああ」


「生活できるのか」


「だから皆働く」


 アルフレッドは銅貨を見る。


 手のひらの上にある。


 小さい。


 本当に小さい。


 だが。


 その中に今日一日が入っていた。


 朝の掃除。


 荷運び。


 汗。


 失敗。


 怒鳴り声。


 全部だ。


 ふと王宮の宴会を思い出す。


 金貨。


 銀貨。


 宝石。


 酒。


 料理。


 自分は何枚使っただろう。


 何十枚。


 何百枚。


 もしかしたら何千枚。


 考えたこともなかった。


 だが今なら分かる。


 あの金は誰かの汗だった。


 誰かの朝だった。


 誰かの人生だった。


 胸の奥が少し痛くなった。


「なあ」


 アルフレッドが言う。


「何だ」


「みんなこんな思いして稼いでたのか」


 ガストンはしばらく黙った。


 そして答える。


「ああ」


 短い返事だった。


 だが十分だった。


 店の外では夕焼けが広がっていた。


 赤い光が石畳を照らしている。


 市場を歩く人々の顔も赤く染まっていた。


 アルフレッドは一ピアを握りしめる。


 温かかった。


 自分の体温が移っているだけだ。


 それでも温かかった。


 初めてだった。


 自分の手で稼いだ金。


 誰にも与えられたのではない。


 盗んだのでもない。


 自分で働いて得た金だった。


 たった一ピア。


 だが。


 その重みは王冠より重い気がした。



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