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第10話 元王子の算術

第10話 元王子の算術


 秋の気配が少しだけ混じり始めた夕方だった。


 ガストン商店の店先には乾燥豆の袋が積まれ、店内には香辛料と干し肉の匂いが漂っている。


 アルフレッドは帳場の横で伸びをした。


 麻のシャツの袖をまくる。


 作業ズボンの膝には小さな擦り切れができていた。


 王宮にいた頃なら一度着たら捨てていたような服だ。


 だが今は違う。


 気に入っていた。


 汗を吸い、働いた証が残る服だった。


「おい」


 ガストンが声を掛ける。


「何だ」


「豆袋数えておけ」


「またか」


「まただ」


 アルフレッドはため息をつきながら倉庫へ向かった。


 だが途中で足を止める。


 帳場の机の上に帳簿が開きっぱなしになっていた。


 ガストンの字だった。


 いや。


 字と言っていいのか分からない。


「なんだこれ」


 思わず声が出た。


 数字が並んでいる。


 だが雑だった。


 仕入れ。


 売上。


 支払い。


 全部書いてある。


 だが途中から計算が合わない。


 いや。


 かなり合わない。


 アルフレッドは眉をひそめた。


「おいガストン」


「何だ」


「これで管理してるのか」


「してる」


「嘘だろ」


「本当だ」


 アルフレッドは帳簿をめくる。


 さらに酷かった。


 塩の仕入れ値が日によって違う。


 同じ商人から買っているのに。


 豆もそうだ。


 燻製肉もそうだ。


「どうやって利益出してるんだ」


「勘だ」


「勘?」


「長年の勘だ」


 アルフレッドは頭を抱えた。


「それで店潰れないのか」


「潰れてないだろ」


「奇跡だ」


 ガストンは笑う。


 だがアルフレッドは笑えなかった。


 数字を見る。


 昔から数字だけは嫌いではなかった。


 むしろ好きだった。


 王宮では財務官の報告書を読むのが得意だった。


 もっとも。


 それを私利私欲に使ってしまった結果が追放だったのだが。


 アルフレッドは黙り込む。


 数字。


 その言葉だけで胸が少し痛む。


 リーゼロッテの顔が浮かんだ。


 夜会。


 帳簿。


 公金横領。


 冷たい視線。


「……」


 今なら分かる。


 数字は嘘をつかない。


 嘘をつくのは人間だ。


 そして一番自分を騙していたのも自分だった。


 その夜。


 店を閉めた後だった。


 ガストンは夕食を作っていた。


 玉ねぎと豆の煮込み。


 香草入りのソーセージ。


 焼きたての黒パン。


 鉄鍋から湯気が立ち上る。


 肉の脂の香りが食欲を刺激した。


「食え」


「後でいい」


「病気か」


「失礼だな」


 アルフレッドは帳簿を広げていた。


 羽根ペン。


 インク。


 紙。


 王宮時代以来だった。


 久しぶりに集中していた。


 数字を書き出す。


 仕入れ。


 売上。


 損失。


 繰り返す。


 夜が更ける。


 ランプの灯が揺れる。


 目が疲れる。


 だが止まらなかった。


「おい」


 ガストンが声を掛ける。


「寝ろ」


「まだだ」


「死ぬぞ」


「死なない」


 ガストンは呆れたように肩をすくめた。


 翌朝。


 アルフレッドは机に突っ伏していた。


 首が痛い。


 目も痛い。


 だが達成感があった。


 帳簿の山が整理されている。


 数字が揃っている。


 そして。


 見つけた。


「おいガストン」


「何だ」


 ガストンは眠そうな顔で降りてくる。


 アルフレッドは紙を突きつけた。


「これだ」


「何がだ」


「塩だ」


「塩?」


「お前、毎回違う商人から買ってるだろ」


「そうだな」


「一番高い奴から買ってる」


 沈黙。


 ガストンが紙を見る。


「ほう」


「年間で百二十ピア損してる」


「そんなにか」


「そんなにだ」


 アルフレッドはさらに紙を出す。


「こっちは豆」


「うん」


「こっちは燻製肉」


「うん」


「こっちは運搬費」


 ガストンの目が少し変わった。


「待て」


「何だ」


「全部調べたのか」


「全部だ」


「一晩で?」


「そうだ」


 ガストンは紙を受け取る。


 しばらく黙って読む。


 店内は静かだった。


 外では市場が目を覚まし始めている。


 荷馬車の音。


 鳥の声。


 パンを焼く匂い。


 そんな中。


 ガストンは黙っていた。


 長かった。


 妙に長かった。


 やがて。


「なるほどな」


 と言った。


 アルフレッドは少し緊張した。


 怒られるかもしれない。


 余計なことをしたと言われるかもしれない。


 だが。


 ガストンは違った。


「お前」


「何だ」


「掃除は下手だな」


「知ってる」


「荷運びも下手だ」


「知ってる」


「接客も微妙だ」


「それも知ってる」


 ガストンは鼻を鳴らした。


「だが数字は得意らしい」


 アルフレッドは目を瞬いた。


 褒められた。


 今。


 この頑固老人に。


 初めて。


「そうか?」


「調子に乗るな」


「乗ってない」


「少し乗ってる」


 アルフレッドは笑った。


 ガストンも少しだけ笑った。


 それだけだった。


 派手な言葉はない。


 賞賛もない。


 だが。


 なぜか嬉しかった。


 王宮で褒められた時より。


 ずっと。


 昼。


 二人は昼食を取った。


 豆のスープ。


 焼きソーセージ。


 黒パン。


 温かい林檎の煮込み。


 アルフレッドはスープを飲む。


 胃に染みる。


 目の前には整理した帳簿。


 その数字は嘘をつかない。


 そして初めて思った。


 自分にはまだ使い道があるのかもしれない。


 王子としてではなく。


 一人の人間として。


 ガストンはソーセージを頬張りながら言った。


「今夜もやるか」


「何をだ」


「帳簿だ」


 アルフレッドは笑った。


「もちろんだ」


 その笑顔を見て、ガストンはほんの少しだけ頷いた。


 初めてだった。


 この元王子を。


 ただの厄介者ではなく、


 商売の仲間として見始めたのは。



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