第11話 ありがとうの値段
第11話 ありがとうの値段
春だった。
ガストン商店の前には色とりどりの花が咲いていた。
市場には朝から人があふれている。
焼きたてのパンの香り。
果物の甘い匂い。
香辛料の刺激的な香り。
活気がある。
数か月前とは明らかに違っていた。
「次の客どうぞー」
元気な声が響く。
アルフレッドだった。
麻のシャツに濃紺のベスト。
袖をまくり、帳簿を抱えている。
もう誰も王子とは思わない。
下町の商人見習いだった。
「塩二袋だ」
「はいよ」
「豆も追加で」
「はいよ」
アルフレッドは素早く商品を用意する。
以前のような傲慢さは減った。
もちろん完全には消えていない。
たまに偉そうな顔をする。
だが客は笑うだけだった。
「兄ちゃん、今日は機嫌いいな」
「いつもいい」
「嘘つけ」
店内に笑い声が広がる。
ガストンは奥で帳簿を確認していた。
以前より売上は三割近く伸びている。
理由は単純だった。
無駄な仕入れが減った。
そして。
商品の質が良くなった。
それを見抜いたのはアルフレッドだった。
王宮時代。
彼は贅沢ばかりしていた。
だが無意味ではなかった。
本物と偽物。
上質と粗悪。
香辛料。
茶葉。
布地。
酒。
そうしたものを見る目だけは養われていた。
「この茶葉は駄目だ」
「何でだ」
ガストンが聞く。
「香りが弱い」
「本当か」
「本当だ」
実際に変えてみる。
すると売れた。
「この蜂蜜も駄目だ」
「またか」
「水増ししてる」
「分かるのか」
「分かる」
変える。
また売れた。
最初は半信半疑だったガストンも、今では仕入れの時に必ずアルフレッドを連れて行くようになった。
その日も市場の仕入れだった。
魚屋。
乾物屋。
香辛料商。
商人たちが次々に声を掛けてくる。
「ガストン!」
「今日は元王子もいるのか!」
「その呼び方やめろ」
アルフレッドが言う。
皆が笑う。
以前なら怒っていた。
だが今は少し違う。
笑われることが怖くなくなっていた。
仕入れを終えて店へ戻る途中だった。
道端で一人の少女が座り込んでいた。
十歳くらいだろうか。
靴が破れている。
服も何度も繕われていた。
少女は小さな籠を抱えていた。
中には野草が入っている。
「どうした」
アルフレッドが声を掛ける。
少女は驚いた顔をした。
「売れないの」
「何がだ」
「薬草」
見る。
確かに薬草だった。
質も悪くない。
だが量が少ない。
買い手がつかないのだろう。
アルフレッドは少し考えた。
そして。
「ガストン」
「何だ」
「これ買おう」
「使うのか」
「乾燥させて薬草茶にする」
ガストンは少女を見る。
そして頷いた。
「いいだろう」
少女の顔がぱっと明るくなる。
「本当に?」
「ああ」
アルフレッドは銅貨を渡した。
少女は大事そうに受け取る。
その時だった。
「ありがとう!」
少女が言った。
真っ直ぐに。
心から。
アルフレッドは固まった。
ありがとう。
たったそれだけ。
だが妙に胸に響いた。
少女は何度も頭を下げながら走っていく。
アルフレッドはその背中を見送った。
「どうした」
ガストンが聞く。
「いや」
アルフレッドは首を振る。
不思議だった。
王宮では賞賛された。
持ち上げられた。
褒め称えられた。
だが今の一言の方が嬉しかった。
なぜだろう。
考えても分からない。
店へ戻る。
昼食だった。
今日は少し豪華だった。
鶏肉と豆の煮込み。
焼きたての丸パン。
香草入りのソーセージ。
春野菜のサラダ。
湯気が立っている。
「いただきます」
アルフレッドはパンを割る。
ふわりと香りが広がる。
温かい。
煮込みも濃厚だった。
鶏肉は柔らかい。
豆はほろりと崩れる。
「うまいな」
「今日は売れたからな」
ガストンが笑う。
以前のアルフレッドなら思っただろう。
もっと豪華な料理がある。
もっと高級な酒がある。
もっと上等な食事がある。
だが今は違った。
十分だった。
いや。
幸せだった。
午後。
店は忙しかった。
客が来る。
話を聞く。
商品を勧める。
感謝される。
その繰り返し。
夕方になる頃には足が棒だった。
だが気分は悪くない。
店を閉める。
空は茜色だった。
市場の喧騒も静かになっていく。
アルフレッドは店先の椅子に腰掛けた。
風が気持ちいい。
遠くから子どもたちの笑い声が聞こえる。
その時。
ふと思った。
昔の自分なら。
この人たちを見下していただろう。
虫ケラだと思っていただろう。
王族より価値のない人間だと。
だが違った。
皆必死だった。
朝早く起きる。
働く。
家族を養う。
笑う。
泣く。
恋をする。
傷つく。
そしてまた生きる。
自分と同じだった。
いや。
自分よりずっと立派かもしれない。
「なあ」
アルフレッドが呟く。
「何だ」
ガストンが答える。
「商売って面白いな」
ガストンは少し驚いた顔をした。
そして。
「今さらか」
と言った。
二人は笑った。
夕陽が沈んでいく。
アルフレッドは胸の奥に小さな温かさを感じていた。
それは賞賛ではない。
承認欲求でもない。
誰かの役に立てた。
誰かを少しだけ助けられた。
その喜びだった。
王冠を失った男は。
ようやく人の笑顔の値段を知り始めていた。




