第8話 口は一つ
第8話 口は一つ
朝だった。
市場はすでに活気に満ちていた。
荷馬車の車輪が石畳を軋ませる。
野菜商人の呼び声。
魚屋の威勢のいい怒鳴り声。
焼きたてのパンの香り。
燻製肉の匂い。
人々は忙しそうに歩き回っていた。
アルフレッドは店先で木箱を抱えている。
腕が震えた。
「重い……」
「軽い」
ガストンが即答した。
「嘘だろ」
「本当に重い物はその三倍だ」
アルフレッドは嫌な顔をした。
最近は毎日こんな調子だった。
働く。
失敗する。
怒られる。
働く。
失敗する。
また怒られる。
だが不思議なことに、前ほど腹は立たなくなっていた。
その代わり別の感情が増えていた。
疑問だった。
世の中には知らないことが多すぎる。
掃除の順番。
商品の並べ方。
帳場の仕組み。
客との話し方。
全部知らなかった。
王宮では教わらなかった。
いや。
本当は教わっていたのかもしれない。
聞いていなかっただけで。
「おい」
ガストンが声を掛ける。
「何だ」
「客だ」
アルフレッドが振り向く。
初老の男が立っていた。
麦わら帽子。
日に焼けた顔。
農夫らしい。
「塩を二袋」
「分かった」
アルフレッドは棚へ向かう。
塩を取る。
渡す。
それだけのことだった。
だが農夫は動かなかった。
「他に何か?」
アルフレッドが聞く。
農夫は首を傾げる。
「いや」
「なら帰ればいいだろ」
思わず言ってしまった。
沈黙。
農夫も黙る。
ガストンも黙る。
数秒後。
農夫は苦笑した。
「坊主」
「何だ」
「お前、商売向いてねぇな」
そう言って帰っていった。
アルフレッドは呆然とする。
「何でだ」
ガストンは頭を抱えた。
「お前な」
「何だ」
「今の客、話したかったんだ」
「は?」
「は?」
ガストンの方が驚いていた。
「塩買うだけだろ」
「そうだ」
「終わりだろ」
「終わりじゃない」
アルフレッドは理解できなかった。
商品を買う。
金を払う。
終わり。
何が問題なのか。
ガストンは店の前に腰を下ろした。
「お前、昔から話してばかりだったろ」
「……」
否定できない。
王宮では常に自分が喋っていた。
命令する。
指示する。
演説する。
意見を言う。
それが当たり前だった。
「聞いたことは」
「ある」
「本当にか」
アルフレッドは黙る。
嫌な予感がした。
ガストンは続けた。
「耳は二つある」
「……」
「目も二つ」
「……」
「鼻の穴も二つ」
「……」
「口は一つ」
アルフレッドは顔をしかめる。
「だから何だ」
「神様か自然か知らんが」
ガストンは肩をすくめた。
「たぶん理由がある」
「理由?」
「聞く方が大事だからだろ」
アルフレッドは鼻で笑おうとした。
だができなかった。
思い当たることがありすぎたからだ。
リーゼロッテ。
財務官。
教育係。
父王。
みんな何か言っていた。
忠告していた。
助言していた。
だが自分は聞かなかった。
聞く前に答えていた。
聞く前に怒っていた。
聞く前に決めつけていた。
「……」
胸が痛かった。
その時だった。
さっきの農夫が戻ってきた。
「あ」
アルフレッドが声を出す。
農夫は苦笑した。
「塩もう一袋くれ」
「分かった」
アルフレッドは袋を渡す。
農夫は受け取る。
少し沈黙。
以前ならここで終わりだった。
だがアルフレッドは思い出した。
耳は二つ。
口は一つ。
「……畑か?」
農夫が目を丸くした。
「ん?」
「忙しいのか」
ぎこちなかった。
ひどくぎこちなかった。
だが農夫は笑った。
「ああ」
そこから話が始まった。
雨不足。
小麦。
害虫。
今年の収穫。
アルフレッドはほとんど分からなかった。
だから聞いた。
「それで?」
「へぇ」
「そんなことがあるのか」
農夫は楽しそうだった。
十分ほど話して帰っていく。
去り際。
「また来る」
と言った。
ガストンが鼻を鳴らす。
「客が増えたな」
「そうなのか」
「そうだ」
アルフレッドは不思議だった。
何もしていない。
ただ聞いただけだ。
昼。
二人は店の裏で昼食を取った。
豆と鶏肉の煮込み。
焼きたての黒パン。
酢漬けの野菜。
香草の匂いがする。
アルフレッドはスープを飲んだ。
温かい。
腹に染みる。
「なあ」
「何だ」
「聞くって難しいな」
ガストンが笑った。
「話すよりな」
「俺はずっと逆だと思ってた」
「だろうな」
アルフレッドはパンを齧る。
外では市場の喧騒が続いている。
世界にはいろんな人間がいる。
いろんな人生がある。
そして。
自分は何も知らなかった。
王子だった頃より。
今の方がずっと知らない。
だが。
少しだけ面白かった。
耳は二つ。
目も二つ。
鼻の穴も二つ。
口は一つ。
その意味を。
アルフレッドは三十年近く生きて、ようやく考え始めていた。




