第3話 どっからだよ
第3話 どっからだよ
夜だった。
ガストン商店の二階。
屋根裏に近い小さな部屋だった。
天井は低い。
壁は古い木材むき出し。
窓も小さい。
王宮の客間にあった暖炉ひとつ分の広さしかない。
だが雨風は防げる。
寝床もある。
それだけで十分なはずだった。
だがアルフレッドは眠れなかった。
固い藁の寝台の上で天井を見つめる。
窓の外では雨が降っていた。
ぽつり。
ぽつり。
屋根を叩く音がする。
遠くでは酔っ払いの笑い声も聞こえた。
昼間食べた豆の煮込み。
固い黒パン。
あれは確かにうまかった。
空腹だったからだけではない。
温かかった。
誰かが作った食事だった。
それなのに胸の奥は重かった。
「くそ……」
アルフレッドは目を閉じる。
すると夜会の光景が浮かんだ。
シャンデリア。
音楽。
笑顔。
そして。
リーゼロッテ。
冷たい目。
帳簿。
公金横領。
追放。
王位剥奪。
次々と記憶が蘇る。
「違う……」
アルフレッドは呟く。
「違うんだ」
誰に向かって言っているのか分からない。
自分自身か。
リーゼロッテか。
神か。
分からない。
「俺だって……」
言葉が詰まる。
喉が痛い。
胸も痛い。
「俺だって必死に生きてきたんだ」
誰も聞いていない。
だが止まらなかった。
「好きで馬鹿だったわけじゃない」
拳を握る。
「好きで失敗したわけじゃない」
声が震える。
「好きで追放されたわけじゃない」
立ち上がる。
狭い部屋だった。
だが今は檻みたいに感じる。
「俺だって言われた通りやってきたんだ!」
叫ぶ。
壁に拳を叩きつける。
痛い。
だが止まらない。
「勉強しろと言われた!」
「剣を振れと言われた!」
「王族らしくしろと言われた!」
「威厳を持てと言われた!」
息が荒くなる。
「俺だって!」
涙が出た。
気付かなかった。
頬を伝っていた。
「俺だって言われるままに必死で生きてきたんだーーーーー!」
叫び声が夜に響いた。
誰も返事をしない。
雨だけが降っている。
アルフレッドは崩れるように床へ座り込んだ。
惨めだった。
情けなかった。
王子だった男が。
王国の未来だった男が。
木の床で泣いている。
「間違ってたのかもしれない……」
呟く。
「でも……」
鼻をすする。
「これで終わりなのかよ」
静かだった。
王宮では味わったことのない静けさだった。
誰も慰めない。
誰も励まさない。
誰も王子扱いしない。
その時だった。
ギシッ。
階段が鳴った。
アルフレッドが振り向く。
扉が開く。
ガストンだった。
ランタンを持っている。
寝間着代わりらしい麻のシャツ姿。
無精髭。
不機嫌そうな顔。
「うるせぇ」
第一声がそれだった。
アルフレッドは目を逸らす。
「……聞いてたのか」
「嫌でも聞こえる」
ガストンは鼻を鳴らした。
「近所から苦情が来る」
「悪かった」
ガストンは黙っていた。
やがてランタンを床に置く。
「終わったか」
「何がだ」
「自分は悪くない大会」
アルフレッドが睨む。
ガストンは平然としている。
「俺は悪くないと言ってるわけじゃない」
「ほう」
「だが全部俺だけが悪いのか?」
ガストンは腕を組んだ。
「知らん」
「は?」
「そんなもん俺に聞くな」
あまりにも身も蓋もない。
アルフレッドは呆れた。
「お前な」
「俺は裁判官じゃねぇ」
ガストンは言う。
「神様でもねぇ」
アルフレッドは黙る。
「だから正しいか間違いかなんぞ知らん」
ランタンの灯りが揺れた。
「ただ一つ言える」
「何だ」
ガストンはアルフレッドを見る。
真っ直ぐに。
「腹減ってる時に人生考えるな」
「……は?」
「ろくな結論にならん」
そう言って階下へ降りていく。
数分後。
戻ってきた。
木の盆を持って。
湯気が立っていた。
玉ねぎと豆のスープ。
薄切りの燻製肉。
焼いた黒パン。
そして温かい山羊乳。
香りだけで腹が鳴った。
「食え」
「……」
「考えるのは明日にしろ」
アルフレッドは盆を見る。
涙で視界が滲んだ。
なぜだろう。
王宮では毎日もっと豪華なものを食べていた。
だが今の方が温かかった。
スープを飲む。
玉ねぎの甘味が広がる。
燻製肉の塩気。
黒パンの香ばしさ。
胃が喜んでいる。
体が喜んでいる。
「うまい」
思わず言った。
ガストンは椅子に座った。
「そうか」
それだけだった。
二人の間に沈黙が流れる。
やがてアルフレッドが言った。
「なあ」
「何だ」
「どっからだよ」
ガストンは首を傾げる。
「何がだ」
「どっから俺は生き直せばいい」
声が震える。
「俺は王子だったんだ」
「今は違う」
「分かってる!」
アルフレッドは叫ぶ。
「だから聞いてるんだ!」
ガストンはしばらく黙った。
そして。
「明日だな」
と言った。
「は?」
「明日の朝だ」
「そんな話じゃ」
「そんな話だ」
ガストンは立ち上がる。
「十年後なんて知らん」
「一生先も知らん」
「だが明日の朝は来る」
ランタンを持つ。
「だから明日は店の掃除だ」
「掃除?」
「床を磨け」
アルフレッドは呆然とした。
人生の答えが欲しかった。
神の声が欲しかった。
奇跡が欲しかった。
返ってきたのは。
床掃除だった。
ガストンは扉の前で振り返る。
「生き直すってのはな」
低い声だった。
「だいたい掃除とか荷運びとか、そんなところから始まる」
そして出ていった。
雨音だけが残る。
アルフレッドは温かいスープを見つめた。
神様は答えてくれなかった。
だが。
明日の予定だけは決まった。
人生で初めて。
王子ではなく。
一人の男として迎える朝だった。




