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第2話 泥をすする王子

第2話 泥をすする王子


 雨だった。


 冷たい雨だった。


 空は灰色の雲に覆われ、細かな雨粒が容赦なく地面を叩いている。


 アルフレッドは泥だらけの街道を歩いていた。


 いや、歩いているというより、よろめいていた。


 王都を追放されて七日。


 隣国へ入って三日。


 すでに靴は擦り切れ、旅装は雨と泥で汚れていた。


 かつて金糸で飾られていた王子の姿はどこにもない。


 腹が鳴る。


 ぐう、と情けない音がした。


「くそ……」


 アルフレッドは唇を噛んだ。


 昨日から何も食べていない。


 正確には食べられなかった。


 街へ入れば食べ物は売っている。


 焼きたてのパンも。


 肉の串焼きも。


 香辛料の効いた煮込み料理も。


 だが金がない。


 王宮では金貨の価値など考えたこともなかった。


 食事は出てくるものだった。


 服も。


 寝床も。


 全部そうだった。


 今は違う。


 何ひとつ出てこない。


 誰も持ってきてくれない。


 空腹は平等だった。


 道端の水たまりに目が向く。


 雨水が溜まっている。


 濁っている。


 泥も混じっている。


 喉が渇いていた。


 だがアルフレッドは顔を背けた。


「誰が飲むか……」


 王子だった男の最後の意地だった。


 だがその意地は腹を満たしてくれない。


 足が重い。


 視界が揺れる。


 やがて街が見えてきた。


 隣国ヴァルデンの下町。


 石畳は欠けている。


 建物も古い。


 洗濯物が軒先に揺れている。


 王都の豪華な街並みとは比べ物にならない。


 だが人は生きていた。


 市場では野菜を売る声が響く。


 魚屋が威勢よく客を呼ぶ。


 子どもたちが泥だらけで走り回っている。


 アルフレッドは驚いた。


 こんな場所でも人は笑うのか。


 ふとパン屋の前を通る。


 焼きたての香りが鼻をくすぐった。


 小麦の甘い香り。


 焦げた皮の香ばしさ。


 胃が痛いほど反応する。


 店先では太った男がパンを頬張っていた。


 アルフレッドは思わず見つめる。


 男が怪訝そうな顔をした。


「何だ?」


「……いや」


 目を逸らす。


 惨めだった。


 王子だった自分が、他人のパンを羨ましそうに見ている。


 腹が鳴った。


 男が鼻で笑う。


「働け」


 たった一言だった。


 だが胸に刺さった。


 アルフレッドは黙って歩き出す。


 働け。


 そんな言葉を向けられたことなどなかった。


 自分は王子だった。


 命令する側だった。


 命令される側ではなかった。


 そのはずだった。


 雨が強くなる。


 冷たい。


 寒い。


 足がもつれる。


 視界が暗くなる。


 気が付けば市場の喧騒も遠くなっていた。


 そして。


 アルフレッドは倒れた。


 石畳に。


 泥の中に。


 誰も駆け寄らない。


 人々はちらりと見るだけだった。


「酔っ払いか」


「浮浪者だろ」


「最近多いな」


 そんな声が聞こえる。


 王子。


 第一王子アルフレッド。


 その名を呼ぶ者は誰もいなかった。


 どれくらい時間が経ったのか。


 突然。


 腹に衝撃が走った。


「ぐふっ!」


 アルフレッドは目を開ける。


 目の前に老人が立っていた。


 背は低い。


 だが岩のような顔だった。


 白髪交じりの髭。


 太い腕。


 麻のシャツの上に革の前掛け。


 七十歳近いだろうか。


 だが妙に迫力がある。


「起きろ」


 老人は言った。


「……誰だ」


「知るか」


 老人は鼻を鳴らす。


「死ぬなら店先以外で死ね」


「なっ……」


 アルフレッドは呆然とした。


 店先?


 見上げる。


 木の看板が見えた。


 ガストン商店。


 乾物や雑貨を扱う店らしい。


「貴様……私が誰だか分かっているのか」


 思わず言っていた。


 老人は眉をひそめる。


「知らん」


「私はアルフレッドだ!」


「だから何だ」


「元第一王子だぞ!」


「元か」


 老人は即答した。


「今は違うんだろ」


 言葉が詰まった。


 その通りだった。


 今は違う。


 王子ではない。


 ただの男だ。


「金はあるか」


 老人が聞く。


「ない」


「仕事はできるか」


「したことがない」


「家はあるか」


「ない」


「友人は」


「……」


「なるほど」


 老人は深いため息をついた。


「救いようのない馬鹿だな」


 アルフレッドの額に青筋が浮かぶ。


「貴様!」


「怒る元気はあるらしい」


 老人は肩をすくめた。


「なら死なないな」


 そう言うと店へ戻ろうとする。


 その時だった。


 ぐううううう。


 盛大な音が鳴った。


 アルフレッドの腹だった。


 市場中に聞こえそうな勢いだった。


 老人が振り返る。


 数秒。


 沈黙。


 やがて老人は笑った。


 豪快に。


「はっはっは!」


「笑うな!」


「腹は正直だな」


 老人は店の中へ消える。


 しばらくして戻ってきた。


 手には木の器。


 湯気が立っていた。


 豆と野菜の煮込み。


 固い黒パンが添えられている。


 豪華ではない。


 王宮の食卓と比べれば犬の餌みたいなものだった。


 だが香りは良かった。


 温かかった。


「食うか」


「……」


「食わないなら犬にやる」


 アルフレッドは器を見つめた。


 腹が鳴る。


 喉が鳴る。


 プライドも鳴る。


 全部鳴る。


 そして。


 震える手で器を受け取った。


 一口。


 スープを飲む。


 塩気が広がる。


 豆の甘み。


 野菜の旨味。


 温かさ。


 胸が熱くなる。


 二口。


 三口。


 止まらない。


 気付けば夢中で食べていた。


 老人は腕を組んで眺めている。


「うまいか」


「……」


「どうなんだ」


 アルフレッドは答えなかった。


 答えられなかった。


 目の奥が熱かったからだ。


 雨はまだ降っていた。


 だが少しだけ。


 本当に少しだけ。


 世界が変わり始めていた。



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