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エピローグ ガストンありがとう

エピローグ ガストンありがとう


 夏の朝だった。


 市場には早くから活気があった。


 焼きたてのパンの香り。


 果物の甘い匂い。


 遠くから聞こえる荷馬車の音。


 青空の下、人々が忙しそうに行き交っている。


 ガストン商店の前には開店前から客が並んでいた。


「おーい、アル!」


「今日の茶葉はあるか!」


「豆も頼むぞ!」


 アルフレッドは店の扉を開けながら笑った。


「あわてるな」


「逃げやしない」


「お前の店は最近人気だからな!」


「俺の店じゃない」


 そう言いながらも嬉しかった。


 ガストン商店はもうすっかり街の人気店になっていた。


 以前の寂れた姿が嘘のようだった。


 アルフレッドは麻のシャツに紺色の前掛けを締める。


 帳場に座る。


 帳簿を開く。


 数字を確認する。


 それが朝の習慣だった。


 その時だった。


 店の奥から咳払いが聞こえる。


「おい」


 ガストンだった。


 白髪は以前より増えた。


 背中も少し丸くなった気がする。


 だが目だけは相変わらず鋭い。


「何だ」


「客が待ってる」


「知ってる」


「働け」


「今からだ」


「口答えするな」


 朝からいつも通りだった。


 アルフレッドは笑った。


 昼過ぎ。


 店が少し落ち着いた頃だった。


 二人は遅い昼食を取る。


 今日は鶏肉の香草焼き。


 玉ねぎと豆の煮込み。


 焼きたての白パン。


 それに冷たい果実水。


 香草の匂いが心地良い。


 肉汁が口いっぱいに広がる。


「うまいな」


 アルフレッドが言う。


「当たり前だ」


 ガストンが答える。


「俺が作った」


「その自信は見習いたい」


 ガストンは鼻を鳴らした。


 しばらく食べる。


 風が窓から入る。


 夏の匂いだった。


 その時。


 アルフレッドがぽつりと言った。


「なあ」


「何だ」


「俺、たまに考えるんだ」


 ガストンはパンをちぎる。


「何をだ」


「もしあの日」


「うん」


「お前が俺を拾わなかったらどうなってたかなって」


 沈黙。


 ガストンはしばらく考えた。


「死んでたな」


「即答か」


「死んでた」


「ひどいな」


「事実だ」


 アルフレッドは苦笑した。


 確かにそうだった。


 あの日。


 雨の中。


 腹を空かせて倒れていた。


 プライドだけは高かった。


 だが何もできなかった。


 掃除も。


 洗濯も。


 商売も。


 生きることさえ。


「お前、最初は本当に酷かったぞ」


 ガストンが言う。


「知ってる」


「箒も持てなかった」


「知ってる」


「床を拭いてから棚を掃除した」


「それも知ってる」


「客に喧嘩売るし」


「覚えてる」


「よく殴られなかったな」


「運が良かった」


 二人とも笑った。


 懐かしかった。


 今では笑い話だ。


 だが当時は本気だった。


 毎日失敗していた。


 毎日怒鳴られていた。


 毎日みじめだった。


 けれど。


 その毎日があったから今がある。


 夕方。


 市場は黄金色に染まる。


 店じまいの時間だった。


 人々が帰っていく。


 子どもたちが手を振る。


「また明日!」


「ああ、また明日だ!」


 アルフレッドは笑顔で応える。


 店の扉を閉める。


 静かになる。


 夕陽が差し込む。


 その光の中で。


 アルフレッドはふとガストンを見る。


 頑固で。


 不器用で。


 優しくなくて。


 口も悪い。


 けれど。


 人生で初めて本気で叱ってくれた人だった。


 本気で向き合ってくれた人だった。


 王宮にはいなかった。


 媚びる人間はいた。


 利用する人間もいた。


 だが。


 本気で育ててくれる人はいなかった。


「なあ」


 アルフレッドが言う。


「何だ」


 ガストンは帳簿を見たままだった。


「ありがとう」


 その言葉に。


 ガストンの手が止まる。


「何だ急に」


「言いたくなった」


「気持ち悪い」


「失礼だな」


 アルフレッドは笑った。


 だが目は真剣だった。


「本当にありがとう」


「……」


「お前がいなかったら」


「……」


「俺は今ここにいない」


 ガストンは黙っている。


 夕陽が二人を照らしていた。


 長い沈黙。


 やがて。


 ガストンは小さく鼻を鳴らした。


「そうか」


 それだけだった。


 だが。


 その声は少しだけ優しかった。


「じゃあ働け」


「終わってる」


「明日の準備だ」


「鬼か」


「そうだ」


 二人とも笑う。


 店の中に笑い声が響く。


 窓の外では夕焼けがゆっくり沈んでいく。


 アルフレッドは思う。


 王冠は失った。


 地位も失った。


 名誉も失った。


 だが。


 代わりに手に入れたものがある。


 仲間。


 仕事。


 誇り。


 そして。


 人生の師匠。


 ガストンは相変わらず帳簿を見ていた。


 不器用な老人だった。


 きっと一生変わらない。


 だがアルフレッドは知っている。


 この老人がいなければ、自分は再び立ち上がれなかったことを。


 夕陽が消える。


 店に灯りがともる。


 ガストン商店の一日は終わる。


 そして明日もまた始まる。


 人生は続いていく。


 泥の中から立ち上がった元王子と。


 頑固な老人と共に。



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