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第16話 王冠のない王(結末)

第16話 王冠のない王(結末)


 初夏の風が市場を吹き抜けていた。


 青空だった。


 雲は高く。


 陽射しは明るい。


 ガストン商店の前では今日も朝から人々が行き交っている。


 野菜を積んだ荷車。


 魚を運ぶ商人。


 走り回る子どもたち。


 焼きたてのパンの香り。


 香辛料の刺激的な匂い。


 そして。


 人々の笑い声。


 アルフレッドは店の前で木箱を運んでいた。


 麻のシャツ。


 袖をまくった腕。


 腰には前掛け。


 すっかり商人の格好だった。


「おーい!」


 市場の向こうから声が飛ぶ。


「茶葉もう届いてるか!」


「届いてるぞ!」


「助かる!」


 男が笑う。


 アルフレッドも笑う。


 そんな毎日だった。


 少し前の自分なら想像もできなかった。


 昼前。


 一台の馬車が店の前に止まった。


 白い馬車。


 護衛騎士。


 見慣れた紋章。


 アルフレッドは思わず苦笑した。


「また来たな」


 馬車の扉が開く。


 リーゼロッテだった。


 淡い青のドレス。


 涼しげな帽子。


 以前より柔らかい表情。


 市場の人々ももう慣れている。


「お嬢さん!」


「今日は何買うんだ!」


「また茶葉か!」


 皆が笑う。


 リーゼロッテも笑った。


「商売の邪魔ですよ」


「客だからいいんだ」


 ガストンが言う。


 リーゼロッテは店の中へ入った。


 帳場の前。


 アルフレッドは帳簿を閉じる。


「今日は仕事か」


「ええ」


 リーゼロッテは真面目な顔になった。


「実はお話があります」


 その口調で何となく察した。


 重要な話だ。


 ガストンは空気を読んで奥へ引っ込む。


「何だ」


 アルフレッドが聞く。


 リーゼロッテは少しだけ息を吸った。


「国へ戻りませんか」


 市場の音が遠く感じた。


「補佐官として」


 リーゼロッテは続ける。


「あなたの数字を見る力」


「契約を見る力」


「商売を見る目」


「今の王国に必要です」


 アルフレッドは黙った。


「報酬も保証します」


「住居も」


「地位も」


「以前とは違います」


 リーゼロッテは真っ直ぐ見つめていた。


「今ならあなたは国の役に立てる」


 優しい声だった。


 情けではない。


 本気だった。


 本当に評価してくれている。


 だからこそ。


 アルフレッドは嬉しかった。


 しばらく沈黙する。


 外では子どもたちが走り回っている。


 パン屋の鐘が鳴る。


 魚屋が大声で値段を叫ぶ。


 どこかの家から煮込み料理の匂いが流れてきた。


 アルフレッドは窓の外を見る。


 市場を見る。


 人を見る。


 そして。


 笑った。


「ありがたい」


 リーゼロッテが頷く。


「では」


「だが断る」


 リーゼロッテは目を丸くした。


「断るのですか」


「ああ」


 アルフレッドは立ち上がる。


 窓から見える市場を指差した。


「俺の居場所はここだ」


 リーゼロッテは黙る。


「昔の俺なら飛びついていた」


「……」


「地位も」


「名誉も」


「権力も」


「全部欲しかった」


 アルフレッドは苦笑した。


「だが今は違う」


 帳場を軽く叩く。


 数字が並んでいる。


 売上。


 仕入れ。


 利益。


 生活。


 誰かの日常。


「俺はここで数字を覚えた」


「……」


「いや」


「数字の意味を覚えた」


 リーゼロッテは静かに聞いている。


「昔の俺は金額しか見てなかった」


「……」


「今は違う」


 帳簿を開く。


「この一行はパン屋の生活だ」


「……」


「この数字は農家の収穫だ」


「……」


「この支払いは誰かの家族を支えてる」


 アルフレッドは笑った。


「ようやく分かったんだ」


 リーゼロッテの瞳が少し潤んだ。


「本当に変わりましたね」


「そうか」


「ええ」


 アルフレッドは肩をすくめる。


「掃除もできるようになった」


「聞いています」


「最初は床を拭いた後に棚を掃除してた」


 リーゼロッテが吹き出した。


「あなたらしい」


「失礼だな」


 二人とも笑う。


 その時だった。


 奥からガストンが顔を出す。


「話は終わったか」


「終わった」


「なら働け」


「感動の場面だったんだぞ」


「知らん」


 ガストンは即答した。


 リーゼロッテが笑う。


 アルフレッドも笑う。


 そして。


 リーゼロッテは手を差し出した。


「では今後も取引先として」


「こちらこそ」


 握手を交わす。


 昔の婚約者ではない。


 王子と令嬢でもない。


 商人と商人だった。


 夕方。


 市場は黄金色に染まっていた。


 店を閉める時間だった。


 アルフレッドは帳簿をめくる。


 ガストンが椅子に座る。


「共同経営者」


「何だ」


「今日の売上どうだ」


 アルフレッドは数字を見る。


 そして笑った。


「悪くない」


「そうか」


 ガストンも笑う。


 外では人々が家路につく。


 子どもたちが手を振る。


「また明日!」


「ああ、また明日だ!」


 アルフレッドは大きく手を振り返した。


 王冠はない。


 玉座もない。


 豪華な宮殿もない。


 だが。


 温かい夕陽があった。


 仲間がいた。


 仕事があった。


 誰かの役に立てる毎日があった。


 かつて世界の中心だと思っていた男は。


 ようやく知った。


 人生とは支配するものではなく、積み重ねるものだということを。


 王冠を失った男は。


 その代わりに、自分自身の人生を手に入れた。


 そして今日も。


 下町の小さな商店で帳簿をめくりながら笑っている。


 王冠のない王として。



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