帰る場所を忘れた神 5
異世界相談所、静止、音がない。暖炉だけが、かすかに揺れる。パチっと火が鳴る。それだけが現実だった。窓の外には四季庭。桜、雪、若葉が同時に存在する。矛盾は、沈黙している。尊は白い本を見ていた。動かない。ただ、そこにある。
「松ちゃん」
「はい」
すぐに返事が返ってくる。尊は息を吸う吐くを、短く繰り返す。
「僕、怖いのかもしれない」
松平の瞳が揺れる。
「何がでございますか」
尊は本を見る。白と圧、存在そのもの。
「思い出すこと、全部」
一拍。その間が、尊の恐怖心を表していた。
「もし壊れるなら……」
言い切る前に、火が鳴る。松平は目を閉じ、そして開く。気持ちを落ち着かせるように。
「尊様」
「何、松ちゃん」
「過去は…あなたを壊しません。あなたを作ったものです」
長い沈黙、火だけが揺れる。尊は何も言わない。ただ、目を伏せる。
翌日、尊は白い本を開いた。さら…本を開く音が異様に大きい。松平は動かない、祈るように見ているだけ。
「松ちゃん」
「はい」
「全部思い出したら、僕は変わる?」
長い沈黙。松平は答えない。パチっと火が揺れる。
「変わるかもしれません。でも………変わりません」
尊は顔を上げる。
「何が?」
松平は微笑む。
「あなたが、誰かを大切にすること」
尊は笑う、小さく。
「そっか。なら大丈夫だね」
笑顔を浮かべるが、尊の声らわずかに震えていた。白い本、最後の頁。尊は指を置く。その瞬間、音が消える。暖炉、風、庭、世界…全てが無音。まるで世界か完全停止しているかのように、時間が止まる。そして、頁が光る。白い、だが眩しくない。逃げ場のない光が降りてくる。記憶ではない。“存在の復元”。さら…さら……雪ではない。意味そのもの。やがて浮かぶ。
『最初の約束』
尊の呼吸が止まり、胸が鳴る。強く、視界が割れる。雪、無音、白い世界、古い屋敷、縁側、少年。
「どうして、あなたが謝るんですか」
少年は笑う。壊れそうな笑い。
「だって僕が守れなかったから」
その瞬間、世界が止まる。雪が止まり、音が消える。尊の胸が裂ける。
「待って」
声が届かない。白に全て吸われる。その中でただ一つ、聞こえる声がある。
『あなたは悪くありません。だから、生きてください』
尊は目を開ける。息が乱れ、肩が震える。涙が落ちる。
「……」
松平がいる、すぐ側。
「尊様。大丈夫でございますか」
尊は頬に触れる。濡れている。
「泣いてた…僕」
松平は動かない、ただ見ている。尊は笑う、小さく。
「変だね。悲しいのに、優しい」
松平は目を伏せる。
「それが、あなたです」
尊は問う。
「僕、誰かを助けられなかった?」
長い沈黙。松平は答えない。ただ目を閉じる。それが答えだった。尊は息を吐く。
「そっか。だから、ずっと助けようとしてたのか」
松平の声が小さく答える。
「……はい」
四季庭の夜。風、桜、雪。いつもの光景が広がる庭に、尊は立つ。
「僕、思い出す。怖くても全部…僕の記憶だから」
松平は少し離れている。深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
尊は振り返る。
「何が?」
松平は微笑む。
「待つ時間を、終わらせてくださったことです」
尊は少し笑う。
「松ちゃん、ずっと待ってたんだね」
松平は答える。
「はい。約束のためですから」
その瞬間、鈴の回廊から音が鳴る。
ーカランー
世界が揺れる。一拍遅れて、もう一度。
ーカランー
空気が裂ける。尊と松平は同時に振り返る。回廊の奥にある古い鈴、止まっていたはずの鈴。それが今、鳴っている。一度、さらにもう一度。それは音ではない。
“呼び戻し”
尊の胸が跳ねる。松平の瞳が揺れる。
「……来ました」
声が落ちる。回廊の奥の白い光。本ではない、記録でもない。
“存在”
そこに何かが立つ。そして世界が一瞬だけ、無音になる。次の瞬間、文字ではない光そのものが形を取る。一文字ではない。
“名”
それが空間に刻まれる。
『尊』
沈黙、完全停止。世界が息を止める。尊は息を吸い、松平は目を閉じる。長い沈黙のあと、静かに言う。
「……始まりました」
尊は白い本を見る。手が震える。
「僕の人生が?」
松平は答える。
「はい。ようやく帰還します」
鈴が鳴る。今度は確かに、世界そのものが。“尊”を思い出した音だった。




