帰る場所を忘れた神 4
異世界相談所の夜は静かだった。四季庭には月明かりが落ちている。桜の花びらは白く輝き、雪は静かに積もる。風が竹林を抜けるたび、風鈴が小さく揺れた。
ーちりんー
尊は縁側に座り、空を見上げていた。
「眠れないんですか」
松平の声。尊は振り返る。
「松ちゃん。起きてたんだ」
「はい。尊様こそ珍しいですね」
尊は少し笑う。
「うん。最近、夢を見るんだ」
松平の表情がわずかに変わる。
「どのような夢でございますか」
尊はしばらく考えた。
「いつも誰かがいる。でも顔が見えない。声だけ、約束だけ」
松平は静かに聞いている。
「その人、僕に何か言ってる。でも目が覚めると、全部消えてる」
尊は苦笑した。
「困るよね。自分の夢なのに、自分だけ分からない」
松平は静かに答える。
「夢とは心の奥に残った記憶が、形を変えて現れることがございます」
尊は月を見る。
「じゃあ僕の心の奥には、何があるんだろう」
松平は答えなかった。
その頃、相談所の奥。誰も入らない場所。古い扉の向こうで、白い光が揺れていた。そこには一冊の本があった。白い本、名前のない本。しかし今日は、少し違っていた。頁の端に、小さな文字が浮かんでいる。
『約束』
『帰還』
『記憶』
三つの言葉。そして最後に一つ。
『一柱』
その文字が浮かんだ瞬間、部屋の空気が冷たくなる。まるで長い間眠っていた何かが、目を開けたように。
翌朝、尊は本棚を整理していた。松平は少し離れた場所で見守っている。
「松ちゃん」
「はい」
「この本棚…全部、僕が作ったのかな」
松平は少し間を置く。
「はい。尊様が長い時間をかけて、集められたものでございます」
尊は一冊の本を取り出す。
「じゃあ僕は、みんなの人生を覚えてるんだ」
「はい」
尊は白い本を見る。
「でも自分の人生だけ、覚えてない」
その言葉に、松平は目を伏せた。
「尊様」
「ん」
「忘れているのではございません」
尊は振り返る。
「え?」
松平は静かに続ける。
「守っておられるのです」
「……守る?」
「はい。誰かを……そして、ご自身を」
尊は黙った。
「僕が?自分を守ってる?」
松平は頷く。
「人は耐えられないほどの痛みを抱えた時、その記憶を閉じることがございます。忘れるためではなく、生きるために」
尊の胸が少し痛む。
「僕、そんなに辛いことがあったの?」
松平は答えない。ただ静かに頭を下げた。
四季庭の午後。突然、鈴の回廊から音が響いた。
ーカランー
尊と松平が同時に振り返る。けれど鳴ったのは、相談者の鈴ではなかった。古い鈴、一番奥の誰も触れたことのない鈴。松平の顔色が変わる。
「……」
尊が尋ねる。
「松ちゃん。これって危ない?」
松平はすぐに答えられなかった。
「危険ではございません。ですが過去が、近づいております」
その言葉に尊は息を呑む。
「過去、僕の?」
松平は静かに頷く。
「はい」
鈴の回廊の奥、古い鈴の前に尊は立っていた。手を伸ばす。松平が声をかける。
「尊様。触れるのですか?」
尊は少し笑う。
「怖い?」
松平は正直に答えた。
「……はい」
その答えに尊は驚いた。松平が怖いと言った。初めてだった。
「松ちゃん、君が怖がるなんて」
松平は静かに鈴を見る。
「私は、もう二度と同じ後悔をしたくないのです」
その言葉が尊の胸に響く。
「後悔」
松平は目を閉じる。
「はい。伝えられなかった言葉、守れなかった約束、届かなかった想い」
尊は静かに聞く。
「松ちゃんも、ずっと抱えてたんだね」
松平は答えない。けれど否定もしなかった。
四季庭の夜、尊は白い本の前へ座った。
「ねえ。僕、思い出していいのかな」
白い本は静かだった。
「怖いんだ。もし思い出したら、今の僕じゃなくなる気がする」
その瞬間、頁が一枚静かに開く。そこには短い一文だけ。
『あなたは、あなたのままです』
尊の目が揺れる。
「………」
その文字を見た瞬間、胸の奥の何かが少しだけほどけた。僕は失った記憶ではない。過去も、今も、全部自分なのだと。
白い本の奥、誰にも見えない場所。一つの影が静かに動いた。
「まだ、思い出していない」
低い声。
「なら、もう少し待とう。今度こそ正しい形で」
その声は、どこか寂しそうだった。けれどその奥には、長い時間を越えた執着にも似た願いがあった。異世界相談所には、静かな夜が流れている。けれど止まっていた記憶は、もう完全には眠っていなかった。




