帰る場所を忘れた神 3
異世界相談所には、静かな午後が流れていた。相談者は来ない。鈴も鳴らない。けれど尊は以前ほど、その静けさを不安に感じなくなっていた。むしろ今は、静かな時間の中にいることで、自分の内側にある何かが、少しずつ輪郭を持ちはじめているような気がしていた。
縁側に座り、湯呑みを両手で包む。その温度だけが、現実と自分を繋いでいる。四季庭では、桜の花びらが舞い落ちる途中で雪へと変わり。その雪片は地に触れる前に若葉へと姿を変えていく。季節が壊れているのではない。むしろ「すべての季節が同時に存在している」ような、不思議な庭だった。風が吹くたびに、花の香りと雪の冷たさと新緑の匂いが同時に頬を撫でる。
「不思議だね」
尊が呟く。
「この庭ずっと見てるのに、最近は少し違って見える」
松平は静かに尋ねる。
「どのようにでございますか」
尊は少し考えた。
「前は、綺麗だなって思ってた。でも今は、誰かと一緒に見てた気がする」
その言葉に松平の指先が、ほんのわずかに止まる。けれど何も言わない。尊は続けた。
「隣に誰かいた。そんな感じ…顔は思い出せない。声も聞こえない。でも寂しくないんだ」
その「寂しくない」という言葉が、逆に松平の胸を締めつけた。松平は静かに目を伏せる。
「それは、とても大切な記憶なのかもしれません」
尊は空を見上げる。そこには空があるのに、その奥に、もう一つ別の空が重なっているように見えた。
「大切なのに、忘れることってあるんだね」
松平は静かに答える。
「ございます。人は耐えられないほど大きな出来事から自分自身を守るために、記憶を奥へしまうことがあります」
尊はその言葉を聞いて、少しだけ表情を曇らせた。
「僕も、そうなのかな」
松平は答えなかった。その沈黙だけが、肯定の形をしていた。
四季庭の午後、尊は一人で執務室へ向かった。白い本、名前のない本、書かれていない人生。その前に座る。本は、ただそこに「在る」というよりも、空間そのものが本の形をしているようだった。光を吸い込み、光を返さない。
「ねえ」
尊は静かに語りかける。
「僕、君のこと少しずつ分かってきた気がする」
本は答えない。だが、その沈黙は以前よりも「重く」なっていた。まるで聞いている誰かがいるように。尊は続ける。
「君は、誰かの人生じゃない。僕の…なんだよね」
その瞬間、白い本の頁が音もなく一枚だけめくれた。
ーさらー
紙の音ではない。雪が溶ける音に似ていた。尊は息を止める。頁の上に文字が浮かぶ。インクではない。光そのものが形を持ったような文字。
『最初の日』
尊は眉を寄せる。
「最初の日?」
その言葉は読んだ瞬間から意味を失い、同時に意味を持ち始める。次の瞬間、文字は崩れた。崩れたのではない…溶けた。そして白い頁の上に、景色が滲み出す。
まず音が戻る。風の音ではない、誰かの呼吸。小さな、震える息。次に匂い、土と、花と、古い木の匂い。そして視界。古い屋敷、春の庭、縁側、そこに座る小さな少年。その頬には、まだ涙の跡が乾ききっていない。少年の隣には、誰かがいる。だが、その「誰か」は輪郭を持たない。人の形をしているのに、光の層が何重にも重なり、顔だけがどうしても見えない。ただ一つだけ分かる。その存在は「優しい」ということ。少年はその存在を見上げている。そして笑っている。涙を残したまま。
「ありがとう」
その声は、庭全体に染み込むように広がる。その瞬間、庭の桜が一斉に逆再生のように舞い上がり、空へ戻っていく。雪が降り始める。若葉が枯れ、紅葉へ変わる。季節が崩壊するのではない、記憶そのものが巻き戻っている。尊は手を伸ばす。
「待って。君は誰なの?」
その声は届かない。届く前に、世界が一枚ずつ剥がれていく。屋敷が消える。庭が消える。少年の笑顔だけが最後まで残り、そしてそれすらも光に溶ける。
尊は目を開ける。息が乱れている。胸の奥が痛い。だがそれは悲しみではない。もっと深い場所、「失ったことすら忘れていたもの」が、急に呼吸を始めたような痛みだった。
「……」
その時、障子が静かに開く。松平が立っていた。その顔には、いつもの穏やかさがある。だがその奥に、わずかな「恐れ」があった。
「尊様。今、何か見えましたか」
尊は驚く。
「松ちゃん、知ってたの?」
松平は一瞬だけ目を閉じる。そして静かに。
「……はい」
と答えた。その一言が、すべてを肯定していた。尊は苦笑する。怒りではない。むしろ、どこか救われたような笑みだった。
「松ちゃん。ずっと、僕が思い出すのを待ってたんだね」
松平は静かに頭を下げる。
「はい。長い時間、お待ちしておりました」
その言葉に、尊の胸が強く痛む。
「ごめん」
その瞬間、松平の瞳が揺れた。
「尊様、どうして謝るんですか」
尊は困ったように笑う。
「分からない。でも、松ちゃん…ずっと一人で待ってたんでしょ」
松平は答えない。だがその沈黙は、もはや隠すためのものではなかった。
「……」
尊は小さく息を吐く。
「僕、昔も今も、誰かを待たせてるのかな」
松平は静かに顔を上げる。その瞳には、長い時間の重みがあった。
「尊様。あなたは、誰かを置き去りにする方ではございません。」
「じゃあ…」
尊は静かに問う。
「なぜこんなにも、寂しい記憶があるんだろう」
松平は答えるまでに、少し間を置いた。そして静かに言う。
「寂しさは失った証ではございません。大切だった証でもあります」
尊はその言葉を聞いて、ゆっくりと目を閉じた。
四季庭の夜、松平は一人で鈴の回廊へ向かった。一番奥の古い鈴、それへ手を添える。鈴は冷たい。だがその冷たさは、氷ではなく「時間そのもの」だった。
「もうすぐ……もうすぐ…」
小さく呟く。その時、背後から声がした。
「松ちゃん」
松平が振り返る。そこには尊が立っていた。
「尊様」
「眠れなくて」
尊は苦笑する。
「なんだか、誰かに会いたい気がする」
松平の胸が締めつけられる。
「誰に…」
尊は首を振る。
「分からない。でもずっと、待たせてる気がする」
その瞬間、松平の表情が初めて崩れかける。
「尊様…それは……」
言いかけて、止まる。言ってはいけない名前が、喉の奥まで上がってきていた。代わりに、静かに言う。
「その方は、きっと待つことを、苦しいとは思っておられません」
尊は静かに聞く。
「どうして?」
松平は古い鈴を見る。その鈴の中で、一瞬だけ「誰かの声」が重なった。風ではない、記憶でもない、呼びかけ。
「……様」
名前の途中で途切れた声。松平の指がわずかに震える。
「約束を…信じているからでございます」
風が回廊を抜ける。古い鈴が、今度は確かに揺れた。
ーチリンー
その音は、ただの音ではなかった。一瞬だけ、はっきりと。誰かの声に変わる。
「………かえってきて」
尊の顔が凍る。
「今の…」
松平は目を閉じる。
「聞こえてはなりません。それはまだ、あなたが思い出してはいけない声です」
尊は息を呑む。
「誰なんだ……」
問いは宙に消える。鈴はもう鳴らない。だが回廊の奥、確かに誰かが…まだ待っている。そしてその「誰か」は、尊の名前を呼びかけたまま、ずっと途切れた声のまま………そこにいた。




