帰る場所を忘れた神 2
鈴の回廊には、静かな時間が流れていた。無数の鈴が並ぶ長い廊下。金色の鈴、銀色の鈴、木で作られた小さな鈴、見たこともない素材で作られた鈴。それらはすべて“誰かの終わり”と“誰かの帰り”を同時に受け止めてきたものだった。けれど一番奥、誰にも触れられることのなかった小さな鈴だけが、わずかに揺れていた。
ーチリンー
音にはならない。それは呼びかけではなく、まるで“応答”のような震えだった。尊はその鈴を見つめていた。
「松ちゃん」
「はい」
「この鈴、昔からここにあったの?」
松平は静かに頷く。
「はい、ずっと。ですが鳴ることはありませんでした」
尊は首を傾げる。
「じゃあ、どうして今?」
松平は答えない。その沈黙は、いつもより深かった。言葉にすれば“何かが確定してしまう領域”に触れている。そんな沈黙だった。尊は小さく笑う。
「また、言えないことなんだね」
「申し訳ございません」
「だから、謝らなくていいって」
尊は鈴へ視線を戻す。その瞬間、胸の奥に確かな既視感が走った。この鈴は……知っている。理由はない。けれど、知らないはずがない。
「松ちゃん。僕、最近思うんだ」
「はい」
「忘れてることって、本当に無くなったことなのかな」
松平は静かに目を伏せる。
「いいえ。記憶とは消えるものではございません。ただ“帰る場所”を見失うことがございます」
尊の指先が止まる。
「帰る場所…?」
その言葉は初めて聞いたはずなのに、胸の奥で強く響いた。松平は続ける。
「記憶は思い出すためのものではなく、本来は帰るためのものにございます」
その瞬間、鈴が確かに鳴った。
ーチリンー
外へ響く音ではない、尊の内側へ落ちていく音だった。
四季の庭の夜。尊は夢を見た。白い景色、静かな雪、境界のない世界、そこには“始まり”も“終わり”もなかった。ただ一つ“帰る場所を失った感覚”だけがあった。誰かが立っている。顔は見えない。けれどその存在は、尊を見ていた。
「どうして」
声が響く。
「どうして、あなたは帰らないのですか」
尊は歩こうとする。けれど足が動かない。
「帰る……?」
その瞬間、胸の奥が強く痛んだ。まるで“知っているはずの場所”へ触れかけているように。その時、誰かの手が伸びる。小さな手、震える手。その手は、誰かに包まれていた。
「大丈夫です。ここはまだ、帰る途中ですから」
その声を聞いた瞬間、尊の胸が締めつけられる。知っている。この声は、白い本の奥にあった声だ。
「あなたは、誰?」
問いかけた瞬間、世界が裂けた。白い景色の奥に、一瞬だけ“本”が見えた。白い本、何も書かれていない本。しかしその頁には確かに、“帰る場所そのもの”が眠っていた。
四季の庭の朝、尊は目を覚ました。胸の奥に、まだ熱が残っている。
「……帰る場所」
無意識に呟く。その言葉は、初めて意味を持っていた。涙が頬を伝う。悲しみではない、喪失でもない、それは“思い出しかけている痛み”だった。その時、障子の外から声がした。
「尊様」
「うん」
「お茶をお持ちしました」
松平だった。いつも通りの声。けれどその奥に、わずかな揺れがある。尊は気づく。
「松ちゃん」
「はい」
「僕、昔…帰る場所を知ってた気がする」
松平の手が止まる、ほんの一瞬。その沈黙が、すべてを語っていた。
「……ございます」
尊は息を呑む。
「やっぱり」
松平は静かに続ける。
「ですが、それは“場所”ではなく、“約束”でございます」
尊の胸が強く鳴る。
「約束……?」
松平はそれ以上言わない、言えないのではない。“まだ開いてはいけない”からだ。
四季の庭の午後、白い本に変化が起きた。尊が近づくと、頁が勝手に開く。一枚、また一枚。白い頁…しかしそこには、かすかな痕跡があった。消えかけた文字。
『帰る場所は、まだここにある』
尊は息を呑む。
「ここに……?」
松平は静かに目を閉じる。
「はい。ですが、それは“場所”ではなく、“あなた自身”にございます」
尊の心臓が跳ねる。白い本が、わずかに震える。
ーチリンー
鈴の音が重なる。回廊ではない。もっと深い場所から響く音。それはまるで、帰還の前触れだった。松平は静かに言う。
「尊様。あなたは、帰る場所を失ったのではありません。ただ、帰ることを忘れただけにございます」
尊の瞳が揺れる。白い本が、ゆっくり閉じる。まるで次の頁を待つように。そして、相談所の空気が変わる。何かが戻るのではない。何かが“戻ることを思い出した”。その瞬間だった。松平は小さく呟く。
「………お帰りなさいませ」
その言葉は誰に向けたものか、まだ誰も知らなかった。




