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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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帰る場所を忘れた神 1

異世界相談所には、いつもと変わらない朝が訪れていた。四季庭では、桜の花びらが舞い、新緑が風に揺れている。池には淡い光が浮かび、竹林の奥では鹿威しが静かな音を響かせていた。


ーコンー


尊は縁側で湯呑みを傾けながら、その景色を眺めていた。


「平和だね」


松平は静かに頷く。


「はい。本日も穏やかな一日になりそうでございます」


尊は嬉しそうに笑う。


「そういう日もいいよね。誰かの話を聞くのも好きだけど、何も起きない時間も大事な気がする」


松平は、その言葉を聞いて静かに目を細めた。


「尊様らしいお考えでございます」

「そうかな」

「はい。昔から…」


その言葉で、松平は一瞬だけ口を閉じた。尊は気づかない。


「昔からって、最近よく聞くね」


松平は穏やかに笑う。


「申し訳ございません」

「またそれ」


尊は小さく笑った。


「松ちゃん。最近、謝ること増えたよね」


その言葉に、松平の表情がわずかに揺れた。



相談所には、珍しい静けさが続いていた。鈴は鳴らない、扉も開かない。尊は執務室で備忘録を整理していた。一冊、また一冊。大切に棚へ戻していく。その時、尊の手が止まった。


「……あれ?」


松平が振り返る。


「どうされましたか」


尊は本棚を見る。


「この本、前からここにあったっけ」


松平の視線が向く。そこには、一冊の古い本があった。白い本ではない。けれど他の備忘録とは少し違う。背表紙には名前がない。ただ古い文字で一つだけ刻まれている。


『記録』


尊は首を傾げる。


「記録?」


松平の表情が変わる、ほんの一瞬。しかし尊は見逃さなかった。


「松ちゃん、知ってる?」


松平は静かに答える。


「はい。こちらは以前から存在している記録でございます」

「以前?」


尊は本を手に取る。


「僕にも知らない本が沢山あるんだね」


松平は答えない。尊は少し寂しそうに笑う。


「そっか。僕が知らないこと、まだあるんだね」


松平は静かに目を伏せる。


「はい。ございます」



夕方。突然、鈴の回廊から音がした。


ーカランー


尊と松平、二人とも同時に顔を上げる。しかし、その音は、いつもの鈴ではなかった。相談者を迎える鈴。命を終えた者を知らせる鈴。そのどちらでもない。もっと古い、もっと深い。まるで長い眠りから目覚めるような音だった。松平の顔から、初めて明確な緊張が消えなかった。


「……」


尊が尋ねる。


「松ちゃん。今の何?」


松平はすぐには答えない。そして静かに頭を下げた。


「尊様。お下がりください」


尊は驚く。


「え?松ちゃんが、そんなこと言うの」


松平は鈴の回廊を見る。


「この音は、相談者様を呼ぶものではございません」

「じゃあ、何?」


尊は息を呑む。松平の声が、ほんの少し震えた。


「迎えを待っていたものが、動いた音でございます」


二人は鈴の回廊へ向かった。そこには無数の鈴が並んでいる。けれど一番奥、今まで誰も触れていなかった場所。そこに小さな古い鈴があった。錆びてもいない、壊れてもいない。ただ、ずっと待っていたような鈴。尊は近づく。


「これ、今まであった?」


松平は答える。


「はい、ずっと。ですが鳴ることはありませんでした」


尊が手を伸ばす。その瞬間、鈴が小さく揺れた。


ーチリンー


その音を聞いた瞬間、尊の胸に強い痛みが走った。白い光、雪、誰かの泣き声。そして…。


「帰ってきてください」


その声…誰かが自分を待っている。そんな感覚がする。尊は胸を押さえる。


「……誰?」


松平は静かに目を閉じた。


「尊様。もうすぐ、すべてが戻ってまいります」


尊は松平を見る。


「全部?」


松平は頷く。


「はい。あなたが失われたものも、あなたが置いてきたものも…すべて」


風が回廊を通り抜ける。無数の鈴が一斉に小さく揺れた。けれど音は鳴らない。ただ一つ奥の古い鈴だけが、静かに震えていた。異世界相談所は、まだ誰も知らない場所で長い間閉じられていた扉を、ゆっくりと開き始めていた。


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