書かれなかった人生 6
その日、異世界相談所へは最後まで誰も訪れなかった。鈴は一度も鳴らない、扉も開かない。相談者の人生を聞くことなく、一日が終わろうとしていた。けれど尊は不思議と退屈ではなかった。縁側へ腰を下ろし、静かな四季庭を眺めている。春は若葉へ姿を変え、夏は青葉を揺らし、秋は紅葉が池へ落ち、冬は静かな雪が降っている。その景色は、いつもと同じだった。それなのに、今日は少しだけ違って見えた。
「松ちゃん」
「はい」
「誰も来ない日も、悪くないね」
松平は静かに微笑む。
「はい。今日という日も、必要だったのでしょう」
尊は頷く。
「うん。なんだか誰かを待ってる気がする」
その一言に、松平は何も答えなかった。ただ尊の横顔を静かに見つめる。
四季の庭が夕暮れを現す頃、執務室へ戻る。尊は本棚の前へ立った。何百冊、何千冊、数え切れない人生。その一冊一冊へ、自然と手が伸びる。
「レイリア、蒼蓮、自分の名前が思い出せなかった医師、コウさん、早川さん、エレノアさん、アベルさん、アルノーさん、エリアスさん、リディアさん、洋輔さん……」
一人ずつ、小さく名前を呼ぶ。そのたびに、それぞれの人生が胸へ浮かんだ。後悔、涙、笑顔、別れ、そして前へ進んだ瞬間。尊は静かに笑う。
「みんな、頑張ったね」
その声は、本棚全体へ語りかけるようだった。ふと、尊の足が止まる。本棚の一番奥、白い本。何も書かれていない、誰の名前もない。ずっと、そこにある本。尊はゆっくり近づく。
「今日も君だけ、変わらないね」
そっと指先で背表紙を撫でる。冷たい。けれど、ほんの少しだけ温かい。その温もりは、どこか懐かしかった。
「ねぇ。君は、誰なんだろう」
静かな問い、返事はない。けれど、その瞬間…本棚全体が、ほんのわずかに震えた。さら……紙が擦れる音。風ではない、誰も触れていない。それでも本棚のどこかで、一冊だけ頁がめくられた。尊は息を呑む。
「……」
音は、すぐ止んだ。本棚は、また静寂へ戻る。
「気のせい」
そう笑おうとした。けれど笑えなかった。胸の奥が少しだけ熱かった。
四季の庭が夜を現し、尊が眠ったあと…松平は一人、執務室へ入る。白い本の前へ立つ。静かな部屋、時計は止まったまま。暖炉だけが小さく揺れている。松平は本へ手を添えた。
「もう、始まってしまいました」
長い沈黙。白い本は静かに一頁だけ開く。そこには文字はない。けれど何もないわけではなかった。白い頁の奥。まるで誰かが立っているような気配。松平は目を閉じる。
「尊様。あなたは少しずつ、ご自身へ近づいておられます」
その声は祈りだった。何百年も、誰にも届かなかった祈り。
「私は、最後までおそばにおります」
その時だった。執務室の奥。誰もいないはずの場所で、小さく鈴が鳴った。
ーチリンー
相談者を呼ぶ鈴ではない。もっと古い、もっと静かな音。松平は顔を上げる。その視線の先で白い本が、ほんの一瞬だけ淡く光った。そして、また静寂へ戻る。
四季の庭が朝を現す頃、尊は目を覚ます。理由もなく、胸が温かかった。夢を見た気がする。誰かが笑っていた。誰かと約束していた。けれど思い出せない。
「……」
尊は胸へ手を当てる。
「もう少し、なんだけどな」
困ったように笑う。窓の外では、若葉が風に揺れていた。その風は相談者ではない、もう一人の人生がゆっくり動き始めたことを知らせるように、静かに異世界相談所を吹き抜けていった。




