書かれなかった人生 5
異世界相談所には、音がなかった。鈴は鳴らない、風が通る音もしない。庭の葉が揺れているのに、揺れた音が届かない。空気だけが動いている。時間は一定の速さで流れているはずなのに、一定ではない。尊は縁側に座っている。湯呑みを持つ。湯はある、温度もある。だが飲むときの音がしない。喉を通る感覚だけが残る。
「松ちゃん」
「はい」
松平の声は聞こえる。だが距離が一定ではない。近くで話しているのに、遠くから聞こえる瞬間が混ざる。
「僕って…昔どんな人だったんだろうね」
松平の手が止まる。止まった音がしない。動きだけが見える。
「尊様は、今と変わらない方だったと思います」
尊は笑う。笑った顔の筋肉の動きはある。だが声が遅れて出る。
「またそれ、答えになってないよ」
松平は微笑む。口元は動くが、声の位置がずれている。
「申し訳ございません。でも本当のことです」
尊は空を見る。空はある。だが奥行きが一定ではない。近い空と遠い空が同時に重なっている。
「そっか。僕は昔から、誰かの話を聞いてたのかな」
松平の視線が一瞬止まる。その瞬間だけ、周囲の音が完全に消える。
「……はい。きっと、ずっと」
音が戻る。だが戻り方が不自然で、途中から再生されたように聞こえる。尊は少し笑う。
「そっか。じゃあ、僕って変わってないんだね」
松平は頷く。頷いた動作のあとに、遅れて声が来る。
「はい。そこだけは、何百年経っても変わりません」
尊が眠ったあと、相談所の空気が変わる。温度は変わらない、湿度も変わらない。だが圧が変わる。松平は執務室へ向かう。足音は出ている。だが床に触れる音がしない。白い本の前に立つ。本は開いていない。だがページの間から空気が漏れている。
「……」
松平は手を添える。触れた瞬間、指先の感覚が一瞬だけ消える。
「もう隠し続けることも、難しくなってまいりました」
その瞬間、本棚の奥で音がする。カタン…金属ではない、木でもない。紙が落ちた音に近いが、紙ではない。松平が振り返る。視線の先に一冊の本がある。最初からそこにあった位置ではない。数センチだけ前に出ている。空間の位置がずれている。松平は近づき、本を取る。触れた瞬間、指先の温度が消える。表紙には名前がある。
『松之助』
音が遅れて届く。その名前を見た瞬間、周囲の空気が一度だけ止まる。止まったあと、再び動く。松平は目を閉じる。雪の感覚が来る。冷たい、頬に当たる。音はない、足音もない、呼吸だけがある。
「大丈夫です。必ず、また会えますから」
声は聞こえる。だが誰の声かは分からない。
「尊様……」
その瞬間、空間が一度だけ歪む。本棚の位置がずれる、そして戻る。記憶は途中で切れる。
四季の庭が朝を表現する頃、尊はすでに起きていた。目覚めた瞬間から、耳鳴りが続いている。一定ではない。近づいたり遠ざかったりする。執務室へ向かう。床の感触が一歩ごとに変わる。硬い場所と柔らかい場所が混ざる。松平が入ってくる。
「尊様。おはようございます」
声は正常に聞こえる。だが最後の音だけ遅れて届く。
「おはよう」
尊は振り返る。視界の端で松平の動きが一瞬だけ二重になる。
「松ちゃん。昨日、夢を見た」
松平の表情が止まる。止まったあとに動く。
「どのような夢でございましたか」
尊は窓を見る。窓の外の庭は動いている。だが葉の揺れが一定ではない。
「誰かが泣いてた。でも、悲しい涙じゃなかった」
松平は黙る。沈黙の間、室内の音が一度だけ完全に消える。
「ありがとうって、言われた気がする」
「誰に?」
尊は首を傾げる。その動作の途中で映像が一瞬止まる。
「分からない。でも、すごく大事な人だった」
松平は目を伏せる。その瞬間、照明の明るさがわずかに落ちる。
「そうでございますか」
尊は笑う。笑い声は出るが、途中で途切れる。
「変だよね。覚えてないのに、大切だったって分かるんだ」
松平は静かに答える。
「記憶より心の方が、先に覚えていることもございます」
その言葉の途中で、音が一瞬だけ消える。そして、戻る。
「心が、覚えてる」
その瞬間、本棚の奥で一冊の本が光る。光は一定ではない。点滅している。
四季の庭が夕方を表現する頃、尊は白い本の前に立つ。距離が一定ではない。近づくと遠ざかる感覚が混ざる。
「ねえ。君、僕の本なの?」
声は届く。だが返事は遅れて来る。白い頁の奥で何かが動く。紙ではない。空間そのものがめくれている。尊は小さく笑う。
「そっか。まだ言えないんだね」
その瞬間、白い本の頁が一枚だけ動く。音はしない。だが空気が一度だけ重くなる。そこに文字が浮かぶ。
『約束』
尊の視界が一瞬だけ白くなる。そして、戻る。
「……約束」
声は遅れて届く。胸の奥が圧迫される。呼吸が一瞬だけ止まる。懐かしさではない、痛みでもない。空白の圧力。松平は少し離れた場所で目を閉じる。
「ついに…」
声は出ているが、空間に吸われていく。
「始まるのですね」
尊は振り返る。その動作の途中で一瞬だけ姿が二重になる。
「松ちゃん、何?」
松平は笑う。だが笑顔の形が一瞬だけ崩れる。
「いいえ。何でもございません」
尊は白い本を見る。本の表面がわずかに呼吸しているように動く。まだ書かれていない人生、まだ閉じられた記憶、まだ果たされていない約束。それらは同じ場所に重なり始めている。相談所の時間は流れている。だが流れ方が一定ではない。止まりかけては進む、進んでは止まる。その中で物語の針だけが、確実に次の位置へずれていた。




