書かれなかった人生 4
異世界相談所には、静かな時間が流れていた。相談者が来ない日、それは珍しいことだった。けれど尊は不思議と落ち着いていた。いつもなら誰かの人生を聞くために、部屋を整える、お茶を用意する、相手が安心できる場所を作る。それが当たり前の日々だった。しかし今は、誰も来ない。だからこそ尊は初めて、自分自身と向き合う時間を持てていた。
「松ちゃん」
「はい」
「相談者が来ない日って、こんなに静かなんだね」
松平は静かに頷く。
「はい。ですが静かな時間も、必要なものかと存じます」
尊は笑う。
「そっか。僕、いつも誰かの話ばかり聞いてたから、自分のこと考える時間って少なかったのかも」
その言葉に、松平の目がわずかに揺れる。
「尊様」
「ん」
「それは決して悪いことではございません」
尊は首を傾げる。
「どうして?」
松平は少し間を置く。
「誰かの痛みに寄り添える方は、ご自身の痛みを後回しにしてしまうことがございます」
尊は静かに笑った。
「僕の痛み?」
その言葉を聞いた瞬間、松平は目を伏せた。尊は気づかない。
「変なの。僕、神様なのに自分のことになると、何も分からない」
その声には、少しだけ寂しさが混じっていた。
お茶を飲んだ後、尊は執務室の本棚を整理していた。備忘録を一冊ずつ確認する。誰かの人生、誰かの選択、誰かの未来。そのすべてが、ここに残っている。
「みんな、ちゃんと生きてたんだね」
松平は静かに答える。
「はい。一冊一冊が、その方の証でございます」
尊は頷く。そして、ふと一冊の本を手に取った。古い本。けれど背表紙には名前がない。まるで最初から“名を持つこと”を拒まれているように。尊は眉を寄せる。
「あれ?」
松平が振り返る。その瞬間、空気がわずかに沈む。
「どうされましたか?」
「この本、名前がない」
松平の動きが止まる。ほんの一拍、呼吸が遅れる。
「尊様」
尊は本を開く。頁には何も書かれていない。白、完全な白。だが、ただの空白ではなかった。見つめていると、視線が吸い込まれる。音が遠のく。“見ているのは自分ではない”という感覚だけが残る。まるで、こちらを見返している何かがいるように。
「変だね。何も書いてないのに、誰かがいる感じがする」
松平は静かに答える。
「その本は、特別なものでございます」
その瞬間…相談所の空気が一段、深く沈んだ。音が消える、風が止まる、“境界”が薄くなる。尊は顔を上げる。
「誰の?」
沈黙。松平は答えない。答えられないのではない。“答えた瞬間に、世界の形が変わる”ことを知っている沈黙だった。
「まだ、お伝えすることはできません」
尊は少しだけ笑った。
「そっか。また言えないんだね」
「申し訳ございません」
尊は首を横に振る。
「だから謝らないでって。僕、松ちゃんが隠し事してることより、一人で抱えてることの方が嫌だよ」
その言葉に、松平の表情がわずかに歪む。呼吸が一瞬だけ乱れる。まるで“何かの名を思い出しかけて、踏みとどまった”ように。
「……尊様」
「ん」
「昔から、そういう方でした」
その瞬間、尊の視界が揺れた。白い光、雪、音のない庭、誰かが膝をついている。顔は見えない。だが“謝っている”。声だけが残る。
「どうして。謝らないでください」
尊は息を呑む。
「……誰?」
手を伸ばす。その瞬間、空間が“拒絶”するように歪む。光が裂ける。
「尊様!」
気づけば、松平が目の前にいた。いつもより近い。いつもより強い声。
「大丈夫ですか」
尊は胸を押さえる。
「今、何か見えた」
松平の瞳が揺れる。
「何を」
尊は首を振る。
「分からない。でも誰かが、僕に謝っていた。そんな気がする」
松平は一瞬だけ目を閉じる。その沈黙は長い、長すぎる。
「…………」
尊は不思議そうに見る。
「松ちゃん、知ってるの?」
その問いに、松平は答えない。答えられないのではない。“名を出した瞬間に戻れなくなる”ことを知っている沈黙だった。やがて、松平はゆっくり首を横に振る。
「まだ申し上げることはできません」
その言葉の奥に“守っているのは尊ではなく、この世界そのもの”という重さがあった。尊は少し寂しそうに笑う。
「そっか。また待つね」
その言葉に松平の胸が強く痛む。
疲れて尊が眠ったあと、相談所は完全な静寂に包まれていた。音がないのではない。“音が存在できない領域”に近い静けさだった。松平は白い本の前に立つ。本は閉じられている。だが閉じているのに、“閉じきれていない”。そんな矛盾がある。松平は手を伸ばす。触れた瞬間、本の表面がわずかに脈動した。まるで中にいる“何か”が呼吸を始めたように。空間が一瞬だけ歪む。相談所の輪郭が揺れる。松平の瞳が鋭くなる。
「……来るな」
声は低い。しかし、それは命令ではない。祈りでもない。“何度も敗れた者の記憶”だった。白い本の頁が、一枚だけ音もなくめくれる。そこに文字はない。だが“文字になる前の意志”だけが滲んでいる。その瞬間、相談所の空間が、ほんの一瞬だけ“外側”を見た。そこには何もない。ただ“見ている何か”だけがあった。松平の呼吸が止まる。その存在には名前がない。だが名を与えた瞬間に、すべてが崩れることだけは知っている。だから誰も呼ばない。誰も言えない。それでも、確かにそこにいる。松平は静かに言う。
「……一柱」
その名は呼称ではない。祈りでもない。ただ“触れてはいけない境界に触れた音”だった。その瞬間、空間がわずかに軋む。相談所の時間が一拍だけ遅れる。白い本の頁が、もう一枚だけ開く。そこにはまだ、誰にも読まれていない“戻ってきてはいけない記憶”が滲み始めていた。異世界相談所は静かだった。だがその静けさは、もはや平穏ではない。“何かが、すでにこちらを見ている静寂”だった。




