書かれなかった人生 3
異世界相談所は静かだった。いつもなら誰かの人生を聞き終えた後の余韻が、部屋の隅にまだ残っている。言葉にならなかった感情の熱。救われた人の、最後の息づかい。それらが、目に見えないまま空気に溶けている。けれど今日は違った。相談者はいない、鈴も鳴らない。扉も開かない。それなのに、この場所だけが、何かを待っているように静まり返っていた。
尊は執務室の文机に座り、白い本を見つめていた。指先は触れていない。それでも、そこに“何か”があることだけは分かっているような目だった。白い背表紙、名前はない、題名もない。何百年もの間、ただそこに置かれているだけの本。
「ねえ」
尊は、視線を落としたまま小さく呟く。
「君ってさ」
少し間…言葉を選ぶように、息を吸う。
「本当に、何も書いてないの?」
返事はない。当然だと分かっているのに、尊はわずかに口元を緩めた。
「本なのに、無口だね」
その言葉は冗談のようでいて、どこか確かめるようでもあった。その様子を、少し離れた場所から松平が見ていた。視線は本ではなく、尊の横顔に向いている。何かを言おうとしているのに、言葉が喉の奥で止まっているような沈黙。
「尊様」
ようやく声が落ちる。尊はすぐには振り向かない。一拍遅れて、ようやく顔だけを松平へ向けた。
「何、松ちゃん」
松平は一度、白い本へ視線を落とす。それから、もう一度尊を見る。
「その本は…」
言いかけて、止まる。ほんのわずか呼吸が乱れるほどではない、しかし確かに“間”が生まれる。
「……まだ開かれる時を、待っているのかもしれません」
尊はその沈黙ごと受け取るように、ゆっくりと瞬きをした。
「松ちゃん。それ前にも言ってたよね」
「はい」
即答。しかしその声は、いつもより少しだけ硬い。尊は小さく息を吐く。
「でもさ…」
視線が白い本へ戻る。
「何を待ってるの?」
その問いに、松平はすぐには答えなかった。答えられなかった、という方が近い。沈黙が落ちる。その沈黙は、ただの間ではなかった。言葉にしてしまえば壊れてしまうものを、必死に守っているような静けさだった。尊はその空気を、じっと待つ。急かさない、追い詰めない。ただ、待つ。やがて松平が、わずかに目を伏せた。
「………申し訳ございません」
その一言は、答えではなかった。それでも尊には、十分すぎるほど伝わってしまう。
「…やっぱり」
尊は小さく笑う。笑っているのに、どこか確かめるような声だった。
「松ちゃんは、何か知ってるんだね」
松平の指先が、ほんのわずかに動く。けれど視線は上がらない。
「はい」
短い返事、それ以上は続かない。尊は驚いたように瞬きをした。怒りも、責めもない。ただ、少しだけ意外そうに。
「そっか、知ってるんだ」
その声は、妙に穏やかだった。まるで最初からそうだと分かっていたような静けさ。
「でも……」
尊は少しだけ首を傾ける。
「言えないんだね」
その言葉に、松平の肩がほんのわずかに揺れた。
「…申し訳ございません」
また謝罪。尊はすぐに首を横に振る。
「謝らなくていいよ」
一拍、視線が少しだけ柔らかくなる。
「松ちゃんが隠したいんじゃなくて…僕に、まだ必要な時が来てないんでしょ」
その瞬間…松平の表情が、ほんのわずかに崩れた。驚きでもなく、否定でもなく。ただ、何かを飲み込んだような揺れ。まるで何百年も待ち続けた言葉が、今ようやく形を持ってしまったような顔だった。
「…尊様」
声が少しだけ遅れて出る。
「何、松ちゃん」
松平は一度、目を閉じる。開いたときには、いつもの穏やかさを取り戻していた。けれど、その奥にあるものまでは隠しきれていない。
「本当に、お変わりになりませんね。」
尊は少しだけ目を細める。
「そう?」
「はい」
松平は静かに続ける。
「昔から、お優しい方でした」
その言葉が落ちた瞬間、尊の胸の奥で、理由の分からない違和感が小さく跳ねた。
(昔から)
その二文字が、やけに遠く響く。まるで自分の言葉ではない場所から聞こえたような感覚。尊は一瞬だけ黙る。そして、何事もなかったように笑った。
「昔から、か……変だね」
その笑いは軽い。けれど、目の奥だけが少しだけ揺れていた。松平はその揺れを見ていた。見てしまっていた。それでも何も言えない。言えば、何かが戻ってしまう気がした。
闇が深くなる。相談所が夜を再現する。灯りだけが、静かに揺れている。松平は一人、本棚の前に立っていた。白い本…そこにあるだけで、空気の密度が変わるような存在。そっと手を伸ばす。指先が触れた瞬間、わずかに空気が震えた。
「……」
声にならない息、松平は目を伏せる。
「長い時間でございました。ですが…ようやく、ここまで来たのですね」
白い本は答えない。ただ、そこにある。それだけのはずなのに、松平の指先だけが微かに震えていた。ゆっくりと本が開く。紙が擦れる音が、やけに遠い。一頁目、白。二頁目、白。三頁目、白。何もない、何も書かれていない。それなのに松平の呼吸だけが、少しずつ浅くなる。
「……まだ」
誰に向けた言葉でもない。それでも、確かに漏れた。四頁目、五頁目…すべて白。そして最後の頁、そこだけが違っていた。ほんのわずかな滲み。墨でもない、汚れでもない。“意味”だけがそこに残っているような痕跡。松平の視線が止まる。息が止まる、指先の感覚が遠のく。その形が、ゆっくりと文字になる。一文字、たった一文字。
『約』
その瞬間、松平の中で何かが音もなく崩れた。雪の匂い、冷たい風、小さな手の温度、そして声。
「約束、だよ」
その声が、何百年ぶりかも分からないほど鮮明に蘇る。松平の指が本から離れる。遅れて膝が揺れる。
「……っ」
息が詰まる、視界が滲む。それでも、目は逸らさない。その一文字から、逃げない。
「……まだ」
声は震えていた。祈りのように、懺悔のように。白い本の文字は、まるでそれを見届けるように。ゆっくりと消えていく、最初から何もなかったように。完全な白へ戻る。松平はしばらく動けなかった。ただそこに立ち尽くす。それでも、胸の奥だけは確かに騒いでいた。
他の世界でいう翌朝。尊は縁側に座っていた。空は晴れている。庭の四季は、何事もなかったように流れている。松平がお茶を置く。
「ありがとう」
尊は一口飲む。そして何気ないように言った。
「松ちゃん」
「はい」
「約束ってさ、守るものなのかな」
松平の手が止まる、ほんの一瞬。湯気の向こうで、視線が揺れる。尊は空を見たまま続ける。
「昨日さ、夢を見たんだ。誰かと約束してた。大事な約束。でも誰だったか思い出せない」
松平は静かに目を伏せる。その視線の先には庭。しかしその奥では、白い本の一文字がまだ焼き付いている。
『約』
消えない、消えてくれない。
「約束は…」
松平は一拍遅れて言葉を選ぶ。
「相手を覚えているから守るものではございません」
「え?」
尊が少しだけ振り向く。松平は続ける。
「大切だったから、守り続けるものなのかもしれません」
声は穏やかだった。けれど、その穏やかさの奥に、わずかな歪みがあった。押し殺した何かが、かすかに滲んでいる。尊はしばらく黙る。そして、少しだけ笑った。
「松ちゃん。たまにさ、すごく大事なこと言うよね」
「恐れ入ります」
二人の間に、いつもの静けさが戻る。けれどそれは、以前と同じ静けさではなかった。薄い膜のような静けさ、触れれば…すぐに破れてしまいそうな。松平だけが知っている。白い本が動き始めた理由。尊の記憶が、すぐそこまで来ていること。そして、あの一文字が意味するものが、まだ“約束”の途中でさえないことを。異世界相談所は、今日も静かだった。けれど止まっていたはずの物語は、確かに音を立てずに動き始めていた。




