書かれなかった人生 2
異世界相談所の夜は、いつも静かだった。けれどその日の静けさは、いつもとは少し違っていた。鈴が鳴らない、扉も開かない。誰かの人生が、語られることもない。それなのに相談所全体が、何かを待っているようだった。執務室では、尊が文机へ向かっていた。目の前には、一枚の白紙。いつもなら、ここへ誰かの人生を書き残す。嬉しかったこと、悲しかったこと、後悔したこと、そして最後に見つけた答え。それらを、尊は一文字ずつ大切に綴ってきた。けれど今日は筆が動かなかった。
「……」
尊は筆先を見る。墨は十分に含まれている。書こうと思えば、書ける。それなのに何を書けばいいのか分からなかった。
「変だな」
小さく呟く。
「書くことがない日なんて、今までなかったのに」
その声を聞き、松平が静かに振り返る。
「尊様」
「何、松ちゃん」
「何か、気になることがおありですか」
尊は少し考える。
「うん。最近、僕…変なんだ」
松平は黙って聞く。
「知らないはずのことを知ってる気がする。初めて見る場所が、懐かしく感じる。初めて聞く名前が、ずっと前から知っていたみたいに残る」
尊は苦笑する。
「神様なのに、自分のことが一番分からないって変だよね」
松平はすぐには答えなかった。その沈黙が、尊には少しだけ長く感じられた。
「松ちゃん」
「はい」
「僕に昔って、本当にあるのかな」
その問いに…松平の表情が、ほんのわずかに揺れる。揺れたのは一瞬だった。だが次の瞬間には、いつもの穏やかな執事の顔に戻っている。
「ございます」
「え?」
「尊様にも、確かに過去はございます」
尊は少し驚く。
「でも僕、何も覚えてないよ」
松平は静かに頷く。
「はい」
頷いた“あと”、ほんの一拍だけ遅れて。
「ですが覚えていないことと、存在しなかったことは、同じではございません」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。尊はしばらく黙っていた。
「そっか、そうだよね。忘れたからって、なくなるわけじゃない」
松平は目を伏せる。その視線は、尊ではなく、どこか遠くを見ていた。
「……はい」
その返事は、少しだけ遅かった。
他の世界での深夜、相談所は眠りについたように静かだった。尊の部屋からは、穏やかな寝息が聞こえる。松平は一人、本棚の前に立っていた。白い本、名前のない本、書かれていない本。松平は、その背表紙へ手を添える。
「……」
冷たい…けれど、どこか温かい。矛盾した感覚だった。
「約…」
小さく呟く。その瞬間、胸の奥が微かに痛んだ。ただの言葉ではない、それは“記憶の鍵”だった。尊が失った記憶の中心に、必ず触れてはいけない形で残っているもの。松平はゆっくりと手を引く。だが引いたはずの指先が、ほんの一瞬だけ本に“残っている”。まるで離れたくないように。あるいは離してはいけないものを、まだ掴んでいるように。
「もうすぐ…もうすぐなのですね」
白い本は答えない。ただ静かにそこにある。松平は目を閉じる。長い年月、この本を守ってきた。いや正確には、この本が開かれる日を待ち続けてきた。
「尊様。あなたは、何も覚えておられません。ですが“約”という言葉だけは、記憶の奥で、ずっと息をしている」
その言葉を口にした瞬間。松平の声が、ほんのわずかに“別の響き”を帯びた。執事の声ではない。しかし、すぐに自分でそれを打ち消すように、静かに息を整える。
「それが、あなたの記憶を閉じた鍵であり、同時に開く鍵でもあるのです」
その時…白い本の表紙が、はっきりと震えた。今度は錯覚ではない、確かな反応。さらり、と紙が擦れる音。松平が目を開く。ゆっくりと本が開く。一頁目、二頁目、三頁目…すべて白く、何もない。だが最後の頁だけが違った。そこに一文字、浮かび上がる。
「約」
松平の呼吸が止まる。その文字は、ただの言葉ではない。尊が失った“記憶の核”。そして、松平が何百年も守り続けてきた“誓い”そのものだった。
「……やはり」
松平は静かに呟く。その声は、いつもの穏やかさを保っている。しかし、ほんの一瞬だけ“誰かに向けた声”のように揺れた。
「あなたは、まだ思い出してはならない」
白い本は、まるで応えるように一度だけ脈打つ。そして、その「約」は、ゆっくりと滲むように消えた。最初から何もなかったかのように。松平は本を閉じる。その動作は丁寧で、完璧で、執事そのものだった。だが閉じた直後、ほんの一瞬だけ、本に触れていた指が離れない。まるで、まだ“そこに残っている何か”を確かめているように。
「まだ、その時ではありません。けれど確かに、“約”はここに戻ってきた」
その言葉の最後だけが、ほんの少しだけ、誰かに向けた祈りのようだった。
他の世界でいう翌朝。尊はいつものように縁側へ座っていた。
「松ちゃん」
「はい」
「昨日、変な夢を見た」
松平の手が止まる。止まったのは一瞬だけ。すぐに、いつもの動きへ戻る。
「どのような夢でございますか」
尊は空を見る。
「誰かと約束してた。絶対に、また会うって…でも誰とした約束か、分からない」
その瞬間、松平の指先がわずかに震えた。今度は隠しきれないほどに。だが声は穏やかだった。
「……それは、まだ思い出してはならない約束だからです」
言いかけて止める。その“間”が、ほんの少しだけ長い。尊は笑う。
「そっか。じゃあ、待つよ」
その言葉に、松平は静かに微笑んだ。だがその微笑みは、いつもよりほんの少しだけ遅れて形になった。相談所には、今日も鈴は鳴らない。けれど確かに、何かは動き始めていた。書かれなかった人生、閉じられた記憶、そして“約”という一文字に封じられた、尊自身の過去。それらが静かに、同じ一点へと収束し始めていた。




