書かれなかった人生 1
ーカランー
いつものように異世界相談所の鈴が鳴った……ように思えた。けれど実際には、鳴っていなかった。尊は縁側で湯呑みを口元へ運びながら、ふと首を傾げる。
「……あれ?」
隣で松平が静かに振り返る。
「どうされましたか」
尊は庭を見る。桜、若葉、紅葉、雪、いつもの四季庭。何も変わらない。
「今、鈴が鳴った気がした」
松平は一瞬だけ目を伏せた。けれど、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻る。
「そうでしたか、聞こえませんが」
「じゃあ、空耳かな」
尊は小さく笑う。
「最近、変なことばっかりだね。懐かしい夢を見たり、知らないはずの景色を知ってたり、聞いたことのない名前が妙に胸へ残ったり」
松平は何も言わない。ただ静かにお茶を淹れる。湯気がゆっくりと立ち上る。
「松ちゃん」
「はい」
「僕って昔からこうだったのかな」
その問いに松平の手が、ほんの一瞬だけ止まった。けれど尊は気づかなかった。
「どうでしょうか」
松平は静かに答える。
「尊様は、今も昔も変わらない方だと思います」
尊は笑う。
「そっか、じゃあ昔の僕も面倒くさいこと考えてたのかな。」
松平は少しだけ微笑む。
「おそらく」
「……否定してくれないんだ」
「事実でございますので」
「ひどいなぁ」
二人の間に、いつもの穏やかな空気が流れる。それは、何百年経っても変わらない時間だった。
その日は、相談所には誰も来なかった。鈴は鳴らない、新しい扉も開かない。尊は少しだけ不思議そうにしていた。
「珍しいね。こういう日もあるんだ」
松平は頷く。
「はい。皆様にも休む時間は必要でございます」
尊は縁側へ寝転ぶ。
「相談所も休みの日かな」
「そうかもしれません」
「神様なのに休みってあるんだね」
松平は静かに答える。
「尊様も、一人の存在でございます」
その言葉に、尊は少しだけ目を開ける。
「一人の存在…」
その響きが、なぜか胸へ残った。
「僕、神様なのに普通の人みたいなこと言われるね」
「それは尊様が、誰よりも人の心を大切にされるからではないでしょうか」
尊はしばらく黙った。そして小さく笑う。
「松ちゃん、褒めるの上手だよね」
「事実を申し上げているだけでございます」
「それ、一番嬉しいやつ」
尊は目を閉じる。春風が頬を撫でる。穏やかな時間だった。
別の世界での午後。尊は久しぶりに執務室の整理をしていた。本棚、文机、積み重なった備忘録。一冊ずつ丁寧に確認する。
「この人、最後は笑ってたね。この人は、家族に会えてよかった。この人は、新しい人生を楽しみにしてた」
松平は少し離れた場所から見守っていた。尊は、本当に嬉しそうだった。誰かの人生を自分のことのように大切にしている。それが松平には少し眩しかった。
「松ちゃん」
「はい」
「この本棚すごいね。何冊あるんだろう」
「数えることは難しいかと」
「だよね」
尊は笑う。
「でも全部、誰かの人生なんだよね」
「はい」
「すごいなぁ」
尊は一冊の本を手に取る。表紙には金色の文字。その文字は、光を受けて静かに揺れていた。まるで生きているかのように…尊は優しく撫でる。
「みんな、ちゃんとここに帰ってくるんだね」
松平は静かに頷く。
「はい。帰る場所があるということは、とても大切なことでございます」
その言葉に尊の手が止まった。
「帰る場所…」
小さく呟く。何か胸の奥に引っかかった。帰る場所…その言葉を、どこかで聞いた気がした。けれど思い出せない。
「……」
尊は本棚を見る。その奥、一冊の白い本。そこだけが異質だった。他の本はすべて温かかった。手に取れば、わずかに人の気配が残る。紙は柔らかく、時間の重みを含んでいる。金の文字は、まるで呼吸しているように微かに揺れる。それは「生きた記録」だった。
だが白い本だけは違った。そこには色がない。光を吸い込むような白。紙ではない、布でもない。触れれば冷たいのに、どこか熱を拒むような感触。他の本が「温もり」なら、白い本は「無音」だった。音も、記憶も、感情も、すべてが一度そこで途切れているような違和感。背表紙には文字がない、名前もない。なのに、そこにあるだけで空気が少しだけ歪む。まるで「ここだけは読んではいけない」とでも言うように。尊は静かに近づいた。松平の表情が、ほんの少しだけ変わる。
「尊様」
その声は、いつもより少しだけ低かった。尊は振り返る。
「大丈夫。触るだけ」
そう言って、白い本を見る。
「君は、誰の帰りを待ってるのかな」
その瞬間…白い背表紙が、ほんのわずかに揺れた気がした。他の本が一斉に静まる。まるで、この一冊だけを見ているように。尊は目を細める。
「……」
松平は息を止める。けれどまだ、何も起こらない。白い本は何も語らない。ただ静かに、そこにあり続ける。尊は小さく笑った。
「そっか、まだ教えてくれないんだね」
その声は少し寂しそうで、でもどこか優しかった。松平はその横顔を見つめる。そして、胸の奥で静かに願う。
(どうか、その日が来るまで、尊様が穏やかでありますように)
相談所には、今日も静かな時間が流れていた。けれど、その静けさの奥で確かに何かが息を潜めている。音もなく、形もなく、ただ「まだ書かれていない何か」が、ページの隙間でゆっくりと目を開けようとしていた。そしてそれは誰にも気づかれないまま、相談所の時間そのものを…ほんのわずかに歪ませ始めていた。




