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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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神様も迷う日 6


相談所には、いつもとは違う静けさが残っていた。誰も訪れなかった一日、鈴は鳴らなかった。誰かの人生が語られることもなかった。誰かが涙を流し、最後に笑って旅立つこともなかった。それなのに不思議と寂しくはなかった。


四季庭では、夜風が桜の枝を揺らしている。月明かりに照らされた花びらが、池の水面へ静かに落ちた。ぽたり…小さな波紋が広がる。そして、何事もなかったように消えていく。執務室では、尊が文机へ向かっていた。今日の備忘録を書くためではない。ただ何となく、白い紙を眺めていた。


「……」


筆を持つ、けれど文字は浮かばない。尊は小さく笑った。


「珍しいな。僕が何も書けないなんて」


松平は少し離れた場所で、静かにお茶を淹れている。


「尊様。本日は、相談者様がお見えにならない日でございました」

「うん」


尊は頷く。


「だからかな、少し考える時間があった」


松平は湯呑みを置く。


「何を考えておられたのでしょうか」


尊は少しだけ迷う。そして、ゆっくり口を開いた。


「僕って、幸せなのかな」


その言葉に松平の手が、ほんのわずかに止まった。けれど、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻る。


「尊様は、多くの方を救ってこられました」


尊は苦笑する。


「救ったって言われると、少し違う気がする。僕はただ、話を聞いただけだから」


松平は静かに首を振る。


「それがどれほど大切なことであるか、尊様ご自身が一番ご存じではないでしょうか」


尊は窓の外を見る。四季庭、変わらない景色。けれど最近、この景色を見るたび胸の奥が少しだけ揺れる。


「松ちゃん」

「はい」

「最近、変な夢を見るんだ」


松平は静かに聞く。


「どのような夢でございますか」


尊は目を閉じる。


「分からない。でも誰かがいる。近くに、すごく大切な人がいた気がする。笑っていた…僕も笑っていた」


言葉を探すように続ける。


「でも目が覚めると、全部消えてる。名前も、顔も、声も…何も思い出せない」


静かな沈黙。松平は何も答えない…答えられない。尊は小さく笑う。


「変だよね。神様なのに、自分の夢で迷子になるなんて」


松平は優しく微笑んだ。


「迷われることは、悪いことではございません」

「え?」

「迷うからこそ、見つけられるものもございます」


尊は少し考える。


「松ちゃんって、昔からそういうこと言ってたのかな」


その問いに、松平の胸が静かに痛んだ。


「……」

「どうかな」

「覚えていらっしゃらないことも、きっと必要な時間なのでございます」


尊は笑う。


「そっか。じゃあ急がなくてもいいね」

「はい。急ぐ必要はございません」


その言葉を聞いて、尊は安心したように目を細めた。



他の世界でいう深夜、尊は眠りについた。静かな寝息が、執務室へ響いている。松平は一人、本棚の前に立っていた。白い本、名前のない本、書かれていない一冊。松平は、その背表紙へ静かに手を添える。


「……尊様」


小さな声。


「本当に、お忘れになったのですね」


返事はない、当然だった。この本はまだ、何も語らない。松平は目を閉じる。


「ですが私は…忘れておりません」


胸の奥へ浮かぶ記憶、小さな少年、優しい笑顔、交わした約束、守れなかったと思い続けた時間。松平は静かに息を吐く。


「尊様。あなたは十分に、誰かを救ってこられました。だからもう、ご自身を責めなくてもよいのです」


その声は誰にも聞かせるためではなかった。ただ長い年月、言えなかった想いを静かに置いているだけだった。その時…


ーカランー


小さな鈴の音が響く。松平が顔を上げる。しかし受付ではない、鈴の回廊でもない。もっと遠く、もっと深い場所から一度だけ静かに鳴った。松平は目を細める。


「……」


そして小さく呟いた。


「始まるのですね」


白い本へ視線を向ける。背表紙は変わらない、名前もない。けれど、ほんの一瞬…白い表面に淡い光が走った気がした。松平は静かに目を伏せる。


「その日まで、私はお傍におります」


窓の外では夜明け前の風が、四季庭を渡っていた。桜の花びらが一枚、静かに舞う。止まっていた時間、閉じられていた記憶、書かれなかった本。すべてが少しずつ、未来へ向かって動き始めていた。


異世界相談所は、今日も静かに誰かの人生を待ち続けている。そして、まだ誰も知らない。次に開かれる一頁は「物語の記録」ではない。「封印されていた過去そのものが、現実へ滲み出す瞬間」であることを。その頁が開かれたとき、この相談所はもう、同じ場所ではいられない。


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