神様も迷う日 5
夜の帳が、静かに異世界相談所を包んでいた。四季庭には月明かりが降り注ぎ、池の水面が銀色に揺れている。昼間あれほど鮮やかだった桜も、若葉も、雪も、今は柔らかな闇の中で静かに息を潜めていた。風鈴だけが、ときおり小さく鳴る。
ーちりんー
その澄んだ音が、夜の静寂へ溶けていく。執務室では、尊が文机へ突っ伏したまま眠っていた。昼間、本棚を整理し、四季庭を散歩し、相談者のいない一日を松平と穏やかに過ごした。
「今日は静かな一日だったね」
そう笑っていた声が、まだ部屋の中へ残っている。尊の寝息は静かだった。穏やかで、何の夢を見ているのかも分からないほど、安らかな眠りだった。松平は障子を静かに閉める。尊の肩へ、一枚の薄い羽織をそっと掛けた。
「お休みなさいませ」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。尊は少しだけ寝返りを打つ。
「…松ちゃん」
寝言だった。松平は微笑む。
「はい。ここにおります」
尊はまた静かな寝息へ戻る。その笑顔を見つめながら、松平はゆっくり立ち上がった。執務室には、二人だけだった。暖炉の火は小さく揺れている。時計の針は動かない。それでも、この部屋だけは確かに時間が流れていた。松平は静かに本棚の前へ歩く。何千冊もの備忘録。誰かの人生、誰かの涙、誰かの笑顔。その一冊一冊を見つめながら、ゆっくりと奥へ進んでいく。
そして一番奥、真っ白な背表紙の前で足を止めた。何百年もの間、一度も題名が浮かばない本。名前もない、光も宿らない。ただ静かに、そこへ在り続ける一冊。松平はその本へ、そっと手を添えた。紙は冷たかった。けれど、その冷たさの奥には、確かな温もりが眠っている。
「……尊様」
静かな声だった。返事はない。眠っている尊には届かない。松平は白い本を見つめたまま、小さく目を閉じる。
「もう少しだけ…どうか、もう少しだけ」
その声には、初めて祈るような弱さが滲んでいた。
「尊様には、今のままでいていただきたい」
長い沈黙…松平はゆっくりと息を吐く。
「思い出してしまえば、あなたは……きっとまた、ご自分を責めてしまわれます」
その言葉だけが、静かな執務室へ落ちる。松平は目を開いた。白い本は何も答えない。けれど、それで良かった。答えを知っているのは、自分だけで十分だった。
「私はあなたのお傍へ来てから、何百年でしょう。その間、一日も後悔しなかった日はございません」
その声は穏やかだった。けれど胸の奥では、長い年月押し込めてきた痛みだけが、静かに揺れている。
「謝りたい…何度も思いました。けれど謝れば、あなたは全部思い出してしまう。だから私は、笑うことしかできませんでした」
その笑顔が本当に正しかったのか、今でも分からない。
「私はあなたを守っているつもりで、ずっとあなたから真実を隠してまいりました。それが正しかったのか、今でも分かりません」
静かな夜だった。四季庭では、若葉を渡る風だけが音を立てている。松平は白い本へ向かって、小さく頭を下げた。
「どうか、あと少しだけ……尊様へ穏やかな時間を」
その祈りが終わった瞬間だった。
ーカランー
どこからともなく小さな鈴の音が聞こえた。松平は顔を上げる。受付ではない、鈴の回廊でもない。もっとずっと遠く、相談所そのものが鳴ったような音だった。
「……」
その音は一度だけ、すぐに静けさへ溶けていく。けれど松平だけは、その意味を知っていた。
「始まりましたか…」
小さく呟く。その声は、どこか覚悟を決めた人の声だった。白い本へ、もう一度だけ視線を向ける。何も変わらない、名前は浮かばない。それでも、ほんのわずかに背表紙が淡く光った気がした。松平は何も言わない。ただ静かに目を閉じる。
(その日まで、私はあなたのお傍におります)
執務室では、尊が穏やかな寝息を立てている。何も知らないまま、優しく笑うその人を…松平は静かに見つめ続けていた。相談者が来なかった一日は終わる。けれど、この静かな休日は、ただの休息ではない。世界が一瞬だけ息を潜めた、嵐の前の静寂だった。そしてその静寂は…これから始まるすべての物語が踏み越える、最初の境界線として、確かにそこに刻まれていた。




