神様も迷う日 4
執務室には、静かな時間が流れていた。誰も訪れない相談所。暖炉の火だけが小さく揺れ、四季庭を渡る風が障子をやさしく鳴らしている。普段なら今頃は誰かが人生を語っている。涙を流し、笑い、後悔を少しずつ言葉へ変えている。けれど今日は違う。相談所は、世界から切り離されたような静けさに包まれていた。
尊は白い本の前から離れ、縁側へ腰を下ろす。湯呑みを両手で包み込んだまま、四季庭を眺めていた。春の桜、若葉、紅葉、雪、どれも穏やかだった。
「松ちゃん」
「はい」
「相談者さんが来ない日って、こんなに静かなんだね」
松平も隣へ座る。
「はい。私も初めて知りました」
尊は少し笑う。
「何だか変な感じ。誰かを待ってる…そんな気持ちになる」
風が吹く。若葉がさらさらと揺れた。しばらく二人は何も話さなかった。その沈黙さえ心地良かった。けれど尊の視線は、無意識に執務室の奥へ戻っていた。本棚の一番奥…光の当たり方だけが、そこだけ少し違う。白い本、名前のない一冊。まるで「そこにあること」だけが役目のように、何百年も動かないまま置かれている。尊は小さく息を吐く。
「ねぇ、松ちゃん」
「はい」
「僕、何者なんだろう」
その問いは、とても自然だった。松平は一瞬だけ動きを止める。
「どうされたのでございますか」
尊は困ったように笑う。
「今日ね、白い本を見てから…ずっと考えてる。相談者は、皆ちゃんと人生がある。だから本がある。でも僕は、どうなんだろう」
四季庭を見つめたまま続ける。
「僕にも昔があったのかな。子どもの頃とか、家族とか、友達とか、好きだったものとか、嫌いだったものとか…そういう普通の人生、ちゃんとあったのかな」
松平は何も答えない。答えられなかった。ただ静かに、尊の横顔を見ている。尊は小さく笑う。
「変だよね。神様なのに自分のこと、何も知らない」
その笑顔が、どこか最初から欠けているように見えた。松平は胸の前で静かに手を重ねる。
(尊様…)
心の中だけで呼ぶ。けれど声にはしない。白い本の存在が、喉の奥に言葉を詰まらせていた。
「最近……」
尊は小さく続ける。
「懐かしいって思うことが増えた。ありがとう、約束、縁側、白い花…そういう言葉を聞くと、胸があったかくなる。でも思い出せない。何一つ……」
その言葉のたびに、松平の指先がわずかに強く握られる。尊は目を閉じた。春風が頬を撫でる、その瞬間だった。白い光、木漏れ日、誰かの笑い声、湯呑みの温度。
「……」
尊の呼吸が一瞬だけ乱れる。
「誰だろう。今…いた気がした」
目を開ける。四季庭しかない、誰もいない。風だけが吹いている。
「変だな」
小さく笑う。
「最近、夢みたいなの見るんだ」
松平は穏やかな表情のまま聞いている。だがその瞳の奥だけが、ほんのわずかに揺れていた。尊は続ける。
「目が覚めると忘れる。でも起きた時だけ、泣きたくなる。どうしてなんだろう」
暖炉の火が静かに揺れた。松平はそっと視線を落とす。
(思い出してはいけない。でも思い出さないままでもいけない)
その矛盾が、胸の奥で静かに軋む。尊は何も知らない。ただ自分という存在の「空白」に、少しずつ気付き始めているだけだった。そしてその空白の中心に、必ずあの白い本があることにも、まだ気付いていない。
「松ちゃん」
「はい」
「もし全部思い出したら、僕は変わるかな」
その問いに松平は静かに息を吸う。そして穏やかに微笑んだ。
「人は思い出したから変わるのではございません。歩いてきた人生を受け入れた時、少しだけ前へ進まれるのでございます」
尊は少し考える。
「そっか…じゃあ急がなくてもいいね」
「はい。急ぐ必要はございません」
その返事に、尊は安心したように笑った。
「ありがとう」
その一言が、松平の胸へ静かに落ちる。ありがとう…今日、何度目だろう。相談者たちは皆、最後にそう言って旅立っていく。けれど、その「ありがとう」が一番届いてほしい人だけは、まだ何も思い出していない。松平はそっと目を閉じる。
(尊様。どうか、もう少しだけ今のままで)
四季庭を渡る風が、桜を高く舞い上げた。白い花びらが一枚だけ縁側へ落ちる。尊はそれを拾い上げる。
「綺麗だね」
小さく笑う。その笑顔は今日も変わらず穏やかだった。けれどその背後で、白い本だけが誰にも気付かれないまま、ほんのわずかに“存在の輪郭”を濃くしていた。まるで呼ばれる日を、静かに待っているかのように。




