神様も迷う日 3
執務室には、時間の流れだけが残っていた。誰も来ない相談所。暖炉の火は一定のリズムで揺れ、障子を抜ける風が室内の輪郭をわずかに揺らす。本来なら、ここには必ず誰かの声がある。人生を終えた直後の、震えるような告白が…だが今日は違う。尊は本棚の前に立ち、背表紙を順に指でなぞっていた。
「レイリアさん、蒼蓮さん、エリアスさん、リディアさん……」
名前を口にするたび、表情がやわらぐ。
「みんな、ちゃんと進めたね」
その声には迷いがない。信じ切っている人間の、まっすぐな温度だけがあった。松平は少し離れた位置で茶を淹れている。湯気が立ち上るが、その動作はいつもより一拍遅い。呼吸が深い。だがそれは疲労ではない。何かを“思い出さないようにしている”呼吸だった。
「尊様、お茶が入りました」
「ありがとう」
尊は振り返るが、すぐに本棚へ視線を戻す。一冊ずつ確かめるように眺めていく。
「松ちゃん」
「はい」
「みんな、今ごろどうしてるかな」
「それぞれの人生を歩んでおられます」
「そっか」
尊は満足そうに頷いた。その直後だった…足が止まる。
「……あれ」
声が落ちる。本棚の最奥。そこだけ空気の密度が違う。光は届いているのに、色が抜け落ちている。音が遅れて届くような感覚。暖炉のはぜる音が遠ざかり、風の気配だけが残る。そこに一冊の本があった。白い…ではなく、白しかない。紙でも装丁でもない。「情報が欠落している」という状態そのものが形を持っている。題名も名前もない。背表紙の印字すら存在しない。尊は近づく。一歩ごとに足音が薄れる。床を踏んでいる感覚だけが残り、音だけが剥がれていく。
「また君か」
軽く笑う。
「毎回気になるんだよね。」
その声は途中から届かない。口の動きだけが先行し、音が遅れて追いつく。松平の手が止まる。湯呑みの湯気が一瞬だけ逆流するように揺れた。その視線は白い本ではなく、その“周囲”に向いている。まるでそこだけ、過去に触れてはいけない空白だと知っているかのように。そしてその視線には、執事としてのものではない“硬さ”が一瞬だけ混じる。長い時間を生きた者が、禁域に触れたときの反応。尊は気付かないまま白い本へ手を伸ばす。
「誰なんだろう」
指先が触れようとした瞬間、音が消えた。暖炉も風も呼吸も消失する。残るのは視覚だけ…だがその視覚すら揺れている。本棚の直線が歪み、空間が水面のように波打つ。尊の指先だけが異様に鮮明だった。
「尊様」
声が落ちる。音ではない。思考へ直接差し込まれる言葉。尊は振り返る。その瞬間、世界に音が戻る。だが戻り方は不自然だった。音が一斉に押し寄せ、遅れて爆ぜる。松平が立っていた。表情は穏やかだが、その奥に緊張がある。ただしそれは「危険」への反応ではない。もっと古いものに触れたときの、人ではない記憶の揺れに近い。
「申し訳ございません。その本には、まだ触れられません」
尊は目を瞬かせる。
「止めるの?」
「はい」
即答だった。短い一言に、明確な境界があった。尊は白い本と松平を交互に見る。
「どうして?」
「まだその時ではございません」
「その時?」
「今は、開くべきではありません」
説明ではなく、制止だった。松平の視線が一瞬だけ逸れる。白い本の“奥”ではなく、そのさらに奥。そこにあるはずのない「重なり」を見てしまった者の目だった。その視線は一瞬だけ、相談所の“外側”へ向いている。尊は困惑しながらも笑う。
「そんな本、初めてだよ。相談者の本なら全部読めるのに」
松平は答えない。ただ白い本を見つめる視線だけが強くなる。それは観察ではなく、抑制だった。かつて一度だけ…この“空白”が開きかけたときの記憶が、指先の奥で微かに疼く。そのとき失われたものの輪郭だけが、まだ消えていない。尊は再び本へ視線を戻す。
「名前もない。光らない。でもずっとここにある」
その瞬間、白い本がわずかに“揺れた”。ページは動かない、音もない。ただ空間の奥行きが一瞬だけ変わる。尊の胸に鋭い違和感が走る。
「……」
懐かしい…だが記憶ではない。記憶に触れかけたときの拒絶だけが残る。誰かが笑っている。誰かが泣いている。誰かへ言葉を渡そうとしている。形にならない感情だけが胸に刺さる。
「変だな……見てるだけで苦しい」
松平は目を閉じる。その瞬間だけ、彼の呼吸が“人のものではない深さ”へ沈む。
(まだです。それは記録ではない、封じられた空白。尊様が触れてよいものではない)
尊は小さく笑う。
「何も書いてないのに、一番気になる」
手を引いた瞬間、白の色がわずかに深くなった。触れられなかったことを記録するように。松平は静かに息を吐く。
「ありがとう」
その言葉は誰にも届かない。だがそれは、白い本に向けられたものではなかった。もっと遠く、もっと昔。そして、まだ名付けられていない“役割”へ向けられた祈りだった。尊は白い本を見つめたまま、何も知らない。だがその瞬間…執務室の“音”が、ほんの一拍だけ遅れた。
暖炉の火が揺れる。その揺れが、わずかに“遅れて見える”。風が障子を叩く。その音が、確かに一瞬だけ途切れた。そして次の瞬間、すべては元に戻る。何事もなかったように…だがそれは違った。戻ったのではない。“整え直された”のだ。尊は気付かない。ただ白い本を見つめたまま、小さく息を吐く。松平だけが、その違和の残響を見ていた。そしてその目の奥で、確かに理解してしまう。
『これは、まだ静かな相談所のままだ』
だが、その静けさは…すでに“守られている静けさ”ではない。音のないひび割れが確かに一つ、世界の奥で走り始めている。そしてそれはもう戻ることのない方向へだけ、ゆっくりと広がっていた。




