神様も迷う日 2
相談所には、静かな朝が流れていた。いつもなら、この時間には鈴が鳴る。相談者が命を終え、その人生を抱えてここへやって来る。その音が、一日の始まりだった。けれど今日は違う。四季庭を渡る風だけが、静かに若葉を揺らしている。
「……本当に誰も来ないね」
縁側へ座った尊が、小さく笑う。松平は穏やかに頷いた。
「はい。このような日は、私も初めてでございます」
尊は少し驚いたように目を丸くした。
「松ちゃんでも?」
「はい。私がこちらへ参って以来、相談者様がお見えにならない日は、一度もございませんでした」
尊は湯呑みを見つめる。
「そっか。じゃあ今日は本当に、お休みなんだ」
その言葉には、不思議な嬉しさが混じっていた。相談者が来ないことを喜ぶわけではない。けれど今日だけは、誰も悲しまなくていい一日なのだと思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「松ちゃん」
「はい」
「せっかくだから、今日はゆっくりしよう」
「かしこまりました」
松平も、小さく微笑む。尊は縁側から立ち上がる。
「散歩しよう」
「四季庭をですか?」
「うん。今日みたいな誰も来ない日じゃないと、四季庭を散歩しようとは、なかなか思えないからね」
「そうですね。散歩するには良い機会かもしれません」
二人はゆっくり庭へ降りた。春の桜が風に舞う。雪は静かに竹林を白く包み。紅葉は池の水面へ一枚ずつ落ちていく。鹿威しが規則正しく音を響かせた。
ーコンー
尊は嬉しそうに辺りを見回す。
「何回見ても飽きないね」
「はい」
松平は静かに頷く。
「相談者の皆様、この庭を好いてくださいます」
尊は笑った。
「だって綺麗だもん。季節って本当は喧嘩しないんだね」
その言葉に。松平はほんの少しだけ目を細めた。
「ええ、本来季節は争いません。人だけが、急いでしまうのでございます」
尊は少し考え込む。
「なるほど。松ちゃんって、時々すごく深いこと言うよね」
「恐れ入ります」
二人は池のほとりまで歩いた。鯉がゆっくり泳いでいる。尊はしゃがみ込む。
「おはよう」
そう声を掛ける。鯉は何も答えない。けれど尾びれを小さく揺らして、水面へ輪を作った。尊は嬉しそうに笑う。
「返事してくれた」
「そう思われますか」
「うん、ちゃんと聞いてくれてる」
松平はその横顔を見つめ、小さく微笑んだ。しばらく歩いたあと、二人は執務室へ戻る。尊は本棚の前へ立った。
「今日は、整理しようかな」
一冊、また一冊。備忘録を手に取る。
「レイリアさん、元気かな」
本を戻す。
「蒼蓮さん。龍になれなくても笑ってるといいな」
また戻す。
「ありがとうって、言えたかな」
松平は静かにその姿を見守っていた。尊は一冊一冊へ話し掛ける。まるで、そこに本人がいるように。
「松ちゃん」
「はい」
「僕、みんなのこと…ちゃんと覚えてるね」
「はい。相談者様は、尊様の大切な方々でございます」
尊は少し照れくさそうに笑う。
「そうかな」
「ええ。一人も忘れておられません」
その言葉を聞いて、尊は本棚を見渡した。たくさんの人生、たくさんの涙、たくさんの笑顔、全部ここに帰ってきた。
「嬉しいな」
小さく呟く。
「みんな、ちゃんと帰れる」
その声には、心からの安堵があった。相談所とは、人生を終える場所ではない。人生を受け入れて、もう一度歩き出すための場所なのだ。尊はそう信じていた。
そして、その時だった。ふと一冊の本へ目が止まる。真っ白な背表紙。そこだけが、他の本とわずかに違っていた。色がないのではない。まるで「色そのものが沈黙している」ような白。光を受けても反射せず、むしろ周囲の光をわずかに吸い込んでいるように見える。近づくほど、空気が薄く静かになる。音が一段階だけ遠のく。他の本のように金の名は浮かばない。題もない。それなのに、そこだけが「最初からそこに在ることを知っている」ような確かさで存在していた。尊は少しだけ首を傾げた。
「……また、君だ」
思わず小さく笑う。
「本当に誰なんだろう」
指先が、ほんのわずかに伸びる。だが触れる直前で止まった。理由はない。ただ、その本だけが「触れられることを拒んでいる」のではなく、「まだ触れられる段階にない」と静かに告げているようだった。尊は手を引っ込める。
「変だな」
小さく呟く。
「ずっとここにあるのに、一度も開いたことがない気がする」
その瞬間…松平の視線が、ほんの一瞬だけその本へ向いた。ほんの一瞬。だがその目には、普段の穏やかさとは違う、わずかな緊張が走っていた。すぐに視線は逸らされる。
「……尊様」
「何?」
松平の声は、いつもよりわずかに低い。
「その本は、まだお手に取られない方がよろしいかと」
尊は振り返る。
「え?」
松平はすぐに微笑みを戻す。
「いえ、理由はございません。ただ今はまだ…」
その「まだ」という言葉だけが、妙に重く残った。尊は不思議そうに笑う。
「松ちゃんがそう言うの珍しいね」
「そうでございますか」
「うん……じゃあやめとく」
軽く笑って離れる。その瞬間、白い本は何も変わらないまま、それでも確かに「触れられなかった」という事実だけを、静かに記録したように見えた。松平はその背を見送りながら、胸の奥で小さく息を吐く。
(まだ…もう少しだけこのままで)
誰にも届かない祈りだった。四季庭では風が止まることなく流れている。相談所は今日も静かに。何も起きない一日を続けていた。




