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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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神様も迷う日 1


朝の光が、静かに四季庭を照らしていた。桜はやわらかな風に揺れ、その隣では若葉が朝露をまとって輝いている。少し離れた池では紅葉が水面へ映り込み、さらに奥では白い雪が竹林を静かに包んでいた。春も、夏も、秋も、冬も。今日も変わらず、一つの庭で穏やかに息づいている。鹿威しが、小さな音を響かせた。


ーコンー


風鈴が、涼やかな音色を返す。


ーちりんー


その音を聞きながら、尊は縁側へ寝転がって空を眺めていた。


「今日もいい天気だねぇ」


誰へともなく呟く。もちろん、この庭に「天気」という言葉は本当は似合わない。雪が降りながら春風が吹き、紅葉の向こうで夏の日差しが揺れる。それでも尊は、この景色を見るたび、いつも同じ言葉を口にしてしまう。その隣では、松平が静かにお茶を淹れていた。今日のお茶は煎茶だった。湯気とともに、若葉の香りがやさしく広がる。


「尊様、お茶が入りました」

「ありがとう、松ちゃん」


尊は身体を起こし、湯呑みを受け取る。一口飲む。


「……おいしい、今日は少し甘いね」


松平も同じ煎茶を口へ運ぶ。


「新茶でございます。春に摘まれたものです。だからでしょうか」


尊は嬉しそうに頷く。


「春って、味まで優しいんだね」


しばらく二人は何も話さなかった。四季庭を渡る風だけが、静かに時間を運んでいる。相談者が来る前の、この穏やかな時間。尊は昔から、この時間が好きだった。


「松ちゃん…」


不意に尊が口を開く。


「相談者、みんな前を向いて帰っていくね」


松平は静かに頷いた。


「はい。皆様、ご自身の人生を受け入れておられます」

「嬉しいな」


尊は笑う。


「最初は泣いてばかりだった人も、最後は笑って帰る。それを見るたび、ここを作ってよかったって思う」


松平は穏やかに微笑む。


「尊様らしいお言葉でございます」

「え?そうかな」

「はい。相談者様は皆、尊様のお話ではなく、尊様が待ってくださることに救われております」


尊は照れくさそうに笑った。


「僕、そんな立派なこと何もしてないよ。ただ話を聞いてるだけ」


松平は静かに首を横へ振る。


「話を最後まで聞いてくださる方は、決して多くございません」


その言葉へ、尊は少しだけ考え込む。


「そうなのかな」

「はい。だから皆様、安心して人生を語られるのでございます」


尊は湯呑みを見つめ、小さく笑った。


「そうだったら嬉しいな」


相談所には穏やかな静寂が流れる。いつもの朝だった。そう本当に、いつも通りだった。だからこそ最初に違和感へ気付いたのは、尊だった。


「……あれ?」


湯呑みを持ったまま、空を見上げる。


「松ちゃん」

「はい」

「今は他の世界だと何時くらい?」


松平は静かに受付の方角へ視線を向ける。


「そろそろ…最初のお客様がお越しになる頃かと」


尊も頷く。


「だよね。今日は、まだ鳴らないね」


二人は自然と鈴の回廊の方を見る。静かだった。カランー…毎日聞こえる、あの澄んだ音がしない。相談者が命を終えた瞬間にだけ鳴る鈴。相談所が始まってから、一日も欠かさず鳴ってきた音。それが今日は、まだ聞こえない。尊は少しだけ首を傾げる。


「珍しいね。寝坊かな」


冗談めかして笑う。松平も穏やかに微笑んだ。


「人生に寝坊はございません」

「あ、そうだった」


尊は吹き出した。


「確かに命は予定どおりじゃないもんね」


再び静かな時間が流れる。二人はお茶を飲みながら四季庭を眺めていた。十分ほど。さらに時間が過ぎる。それでも鈴は鳴らない。尊はもう一度、空を見上げる。


「……本当に誰も来ない」


松平は静かに目を伏せた。


「珍しいことでございます」

「初めてかな?」


尊が尋ねる。松平は少しだけ考えた。


「少なくとも、私がこちらへ参ってからはございません」


尊は目を丸くする。


「えっ、じゃあ今日は、相談者一人もいない初めての日だね」


その事実が、なぜか少しだけ不思議だった。相談所は、いつも誰かを迎えてきた。悲しみを抱えた人、後悔を抱えた人、迷った人、泣いている人。その誰かが必ず鈴を鳴らしてやって来た。それなのに今日は風だけが庭を渡っている。相談所は、静かすぎるほど静かだった。尊は小さく息を吐く。


「今日は、神様もお休みなのかな」


そう言って笑った。松平も微笑み返す。


「そのような日が、あってもよろしいのかもしれません」


尊は嬉しそうに頷く。


「じゃあ今日は松ちゃんと、のんびりしよう」


その言葉を聞いた松平は、小さく一礼した。


「はい、喜んで」


四季庭を渡る風が、また桜を揺らす。今日だけは誰も訪れない。異世界相談所にとって、初めて訪れた静かな休日の始まりだった。


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