帰る場所を忘れた神 6
異世界相談所には、静かな夜が流れていた。鈴は鳴らない、扉も開かない。相談者の声も、もう届かない。それでも、この場所には確かに時間が流れていた。暖炉の火が、かすかに揺れる。止まったはずの時計の針は、誰にも気づかれないほどゆっくりと、しかし確かに“進もうとしている”。まるで何かが「戻る準備」を始めているかのように。
尊は縁側に座っていた。手の中の湯呑みは、もう温かくない。それでも離せなかった。目の前には四季庭、桜、若葉、紅葉、雪。本来なら交わるはずのない季節が、ひとつの景色としてそこに在る。
「松ちゃん」
「はい」
「僕、また夢を見たんだ」
松平は静かに振り返る。その表情は、いつもと同じ穏やかさを保っているのに、どこか張り詰めていた。
「どのような夢でございましたか」
尊は少しだけ笑う。
「悲しい夢だった。でもね、嫌じゃなかった。むしろ…」
言葉が途切れる。胸の奥に、説明できない熱がある。
「誰かが泣いてた。誰かが謝ってた。でも最後には……」
尊は目を細める。
「笑ってたんだ。すごく、優しい顔で」
風が庭を抜ける音だけが残る。尊は空を見上げた。
「変だよね。悲しいのに…残ったのは、あったかい気持ちなんだ」
松平はゆっくりと目を伏せる。その一瞬だけ、呼吸が乱れたように見えた。
「それはきっと、大切な記憶でございます」
尊は小さく頷く。
「大切だったから、忘れたのかな」
その問いに松平はすぐに答えなかった。答えられなかったのではない。答えてしまえば、何かが決定的に動いてしまうと知っていたからだ。それでも、静かに言葉を落とす。
「はい。守るために…」
その瞬間、尊の胸の奥で、何かが“音もなく崩れた”。
四季庭の夜、尊は白い本を開いた。何も書かれていない頁。名前もない、記録もない。人生の痕跡すらない。ただ、そこにあるのは「空白」ではなかった。“待っている何か”だった。
「ねえ」
尊は本に語りかける。
「君はさ…本当に、僕の人生なの?」
返事はない。だが風もないのに、頁が一枚だけめくれた。さら…そこに浮かんだのは、たった一言。
『約束』
尊の指が止まる。その文字に触れた瞬間…胸の奥が、強く痛んだ。でもそれは拒絶ではなかった。むしろ“帰ってきた”ような痛みだった。
「約束…か……」
尊は呟く。その言葉は、初めて口にしたはずなのに、ずっと前から知っていた響きだった。
「僕は…何を約束したんだ?」
白い本は答えない。ただ、静かにそこに在る。まるで“思い出すまで待っている”ように。
その頃、松平は鈴の回廊にいた。一番奥、誰にも触れられなかった古い鈴。それは、ただの鈴ではない。“待ち続けることそのもの”だった。松平はそっと手を添える。
「もうすぐでございます」
声は、祈りに近かった。
「尊様。あなたが…あなた自身へ戻られる時が」
風が吹き、鈴が揺れる。チリン、と音になりかけて…止まる。まだ、鳴らない。松平は目を閉じる。
「私は、ずっと…この瞬間のために存在しておりました。あなたが忘れても……私だけは、覚えているために」
その声は、わずかに震えていた。それは忠誠ではない。もっと深い“喪失を抱えたまま待ち続ける存在の祈り”だった。
四季庭の朝、尊は縁側に出る。松平が茶を置く。
「ありがとう」
湯呑みを手に取る。その温度が、やけに優しかった。
「ねえ、松ちゃん」
「はい」
「僕さ…昔、誰かに……」
尊は言葉を探す。
「ありがとうって、言われた気がする」
松平の指が、ほんのわずかに止まる。
「そうでございますか」
「うん。でもね…」
尊は笑う。
「誰だったのか、思い出せないんだ」
その言葉に、松平は静かに目を閉じる。そして、ようやく言う。
「思い出せないのではございません」
尊が顔を上げる。松平は続ける。
「まだ“帰ってきていない”だけでございます」
その瞬間、尊の胸が強く鳴った。帰る?どこへ?誰のもとへ?問いが生まれた瞬間、答えはすでにそこにあった。この庭、この本棚、この沈黙、この人、全部がひとつの“場所”だった。尊はゆっくり息を吐く。
「……そっか。僕は、帰る場所を探してたんじゃない」
松平が顔を上げる。尊は、まっすぐ白い本棚を見る。その奥、白い本、何も書かれていないはずのそれが…今はもう、空白に見えなかった。
「僕自身が、帰る場所だったんだ」
その瞬間、世界がほんのわずかに揺れた。止まっていた時計が、一秒だけ音を立てる。
ーカチ。ー
白い本棚の奥、白い本が初めて“重さ”を持つ。それは記録ではない、記憶でもない。“帰還そのもの”だった。そこに書かれていなかったのは、人生ではない。「帰ることを忘れた神が、帰るための場所」だった。尊は静かに立ち上がる。
「松ちゃん」
「はい。僕、思い出すよ」
今度は迷いがない、恐れもない。ただ、確信だけがあった。
「全部。ちゃんと、帰るために」
松平は深く頭を下げる。その背中は、初めて“安堵”していた。
「………お待ちしておりました」
その瞬間…白い本が、ほんのわずかに開く。誰も触れていないのに頁が、確かに“呼吸”を始める。そしてどこか遠くで止まっていた時計が、もう一度動き出す。
ーカチ、カチ、カチー
異世界相談所は、まだ静かだった。だがその静けさは、もう“停止”ではない。始まりの前の、深い呼吸だった。尊はまだ知らない。自分が探していたものは、過去でも、記憶でもない。ただ一つ、「帰る」という行為そのものだったことを。そして松平だけが知っている。白い本が完全に開くとき、この相談所は終わるのではない。“本来の姿に戻る”のだということを。春風が、静かにページをめくった。




