↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
100/117

帰る場所を忘れた神 6

異世界相談所には、静かな夜が流れていた。鈴は鳴らない、扉も開かない。相談者の声も、もう届かない。それでも、この場所には確かに時間が流れていた。暖炉の火が、かすかに揺れる。止まったはずの時計の針は、誰にも気づかれないほどゆっくりと、しかし確かに“進もうとしている”。まるで何かが「戻る準備」を始めているかのように。


尊は縁側に座っていた。手の中の湯呑みは、もう温かくない。それでも離せなかった。目の前には四季庭、桜、若葉、紅葉、雪。本来なら交わるはずのない季節が、ひとつの景色としてそこに在る。


「松ちゃん」

「はい」

「僕、また夢を見たんだ」


松平は静かに振り返る。その表情は、いつもと同じ穏やかさを保っているのに、どこか張り詰めていた。


「どのような夢でございましたか」


尊は少しだけ笑う。


「悲しい夢だった。でもね、嫌じゃなかった。むしろ…」


言葉が途切れる。胸の奥に、説明できない熱がある。


「誰かが泣いてた。誰かが謝ってた。でも最後には……」


尊は目を細める。


「笑ってたんだ。すごく、優しい顔で」


風が庭を抜ける音だけが残る。尊は空を見上げた。


「変だよね。悲しいのに…残ったのは、あったかい気持ちなんだ」


松平はゆっくりと目を伏せる。その一瞬だけ、呼吸が乱れたように見えた。


「それはきっと、大切な記憶でございます」


尊は小さく頷く。


「大切だったから、忘れたのかな」


その問いに松平はすぐに答えなかった。答えられなかったのではない。答えてしまえば、何かが決定的に動いてしまうと知っていたからだ。それでも、静かに言葉を落とす。


「はい。守るために…」


その瞬間、尊の胸の奥で、何かが“音もなく崩れた”。



四季庭の夜、尊は白い本を開いた。何も書かれていない頁。名前もない、記録もない。人生の痕跡すらない。ただ、そこにあるのは「空白」ではなかった。“待っている何か”だった。


「ねえ」


尊は本に語りかける。


「君はさ…本当に、僕の人生なの?」


返事はない。だが風もないのに、頁が一枚だけめくれた。さら…そこに浮かんだのは、たった一言。


『約束』


尊の指が止まる。その文字に触れた瞬間…胸の奥が、強く痛んだ。でもそれは拒絶ではなかった。むしろ“帰ってきた”ような痛みだった。


「約束…か……」


尊は呟く。その言葉は、初めて口にしたはずなのに、ずっと前から知っていた響きだった。


「僕は…何を約束したんだ?」


白い本は答えない。ただ、静かにそこに在る。まるで“思い出すまで待っている”ように。



その頃、松平は鈴の回廊にいた。一番奥、誰にも触れられなかった古い鈴。それは、ただの鈴ではない。“待ち続けることそのもの”だった。松平はそっと手を添える。


「もうすぐでございます」


声は、祈りに近かった。


「尊様。あなたが…あなた自身へ戻られる時が」


風が吹き、鈴が揺れる。チリン、と音になりかけて…止まる。まだ、鳴らない。松平は目を閉じる。


「私は、ずっと…この瞬間のために存在しておりました。あなたが忘れても……私だけは、覚えているために」


その声は、わずかに震えていた。それは忠誠ではない。もっと深い“喪失を抱えたまま待ち続ける存在の祈り”だった。



四季庭の朝、尊は縁側に出る。松平が茶を置く。


「ありがとう」


湯呑みを手に取る。その温度が、やけに優しかった。


「ねえ、松ちゃん」

「はい」

「僕さ…昔、誰かに……」


尊は言葉を探す。


「ありがとうって、言われた気がする」


松平の指が、ほんのわずかに止まる。


「そうでございますか」

「うん。でもね…」


尊は笑う。


「誰だったのか、思い出せないんだ」


その言葉に、松平は静かに目を閉じる。そして、ようやく言う。


「思い出せないのではございません」


尊が顔を上げる。松平は続ける。


「まだ“帰ってきていない”だけでございます」


その瞬間、尊の胸が強く鳴った。帰る?どこへ?誰のもとへ?問いが生まれた瞬間、答えはすでにそこにあった。この庭、この本棚、この沈黙、この人、全部がひとつの“場所”だった。尊はゆっくり息を吐く。


「……そっか。僕は、帰る場所を探してたんじゃない」


松平が顔を上げる。尊は、まっすぐ白い本棚を見る。その奥、白い本、何も書かれていないはずのそれが…今はもう、空白に見えなかった。


「僕自身が、帰る場所だったんだ」


その瞬間、世界がほんのわずかに揺れた。止まっていた時計が、一秒だけ音を立てる。


ーカチ。ー


白い本棚の奥、白い本が初めて“重さ”を持つ。それは記録ではない、記憶でもない。“帰還そのもの”だった。そこに書かれていなかったのは、人生ではない。「帰ることを忘れた神が、帰るための場所」だった。尊は静かに立ち上がる。


「松ちゃん」

「はい。僕、思い出すよ」


今度は迷いがない、恐れもない。ただ、確信だけがあった。


「全部。ちゃんと、帰るために」


松平は深く頭を下げる。その背中は、初めて“安堵”していた。


「………お待ちしておりました」


その瞬間…白い本が、ほんのわずかに開く。誰も触れていないのに頁が、確かに“呼吸”を始める。そしてどこか遠くで止まっていた時計が、もう一度動き出す。


ーカチ、カチ、カチー


異世界相談所は、まだ静かだった。だがその静けさは、もう“停止”ではない。始まりの前の、深い呼吸だった。尊はまだ知らない。自分が探していたものは、過去でも、記憶でもない。ただ一つ、「帰る」という行為そのものだったことを。そして松平だけが知っている。白い本が完全に開くとき、この相談所は終わるのではない。“本来の姿に戻る”のだということを。春風が、静かにページをめくった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。