龍になれなかった少年 3
蒼蓮は一度目を閉じた。遠い昔の景色が、静かによみがえる。
「父は、何度も私に言いました」
ゆっくりと息を吐き、言葉を続ける。
「『龍は弱き者を救うものではない。』と」
相談室は静まり返っている。尊は何も言わない。湯呑みを手にしたまま、蒼蓮の言葉を受け止めていた。
「幼い私は、その意味が分かりませんでした。龍とは、誰よりも強い存在。だからこそ、弱き者を守る存在なのだと思っていたのです」
蒼蓮は自嘲するように微笑む。
「子どもでしたから…そう考えることが、そんなに間違っているとは思えませんでした」
窓の外では、四季庭を渡る風が竹を揺らす。鹿威しが、小さく響いた。その静かな音に耳を傾けながら、蒼蓮は語り続ける。
「ある日のことです。父と修行へ向かう途中、小さな村を通りました。道の脇で、一人の老人が荷車を起こそうとしていました。荷物が重く、一人では動かせなかったのでしょう」
蒼蓮は、その時の自分を思い浮かべるように目を細めた。
「私は、何も考えず駆け寄りました。『お手伝いします』そう言って荷車を押しました。老人は何度も頭を下げてくださいました。『ありがとう』と笑ってくださったのです」
その笑顔を思い出したのか、蒼蓮の表情もわずかに和らぐ。しかし、その穏やかさは長く続かなかった。
「父は、その様子を黙って見ていました。村を出てしばらくしてから、私を呼び止めました」
蒼蓮の声が少し低くなる。
「そして、こう言いました」
相談室に、湯気だけがゆっくりと立ち上る。
「『龍は弱き者を救うものではない。龍とは、天を支配する者だ。弱き者へ情けをかける時間があるなら、その力を磨け』」
蒼蓮は拳をゆっくり握る。
「私は、返す言葉がありませんでした。父の言葉は絶対でした。それでも…」
蒼蓮は顔を上げる。
「どうしても納得できなかったのです」
尊は静かに蒼蓮を見つめる。何も言わない。相談者が、自分自身の心に触れる時間を大切にしているからだ。
蒼蓮は続けた。
「別の日には修行へ向かう途中、足を怪我した子狐を見つけました。放っておけば命を落としていたでしょう。私は修行へ向かうことを忘れ、その子狐の傷を手当てしました。ようやく山へ戻した頃には、日が暮れていました」
蒼蓮は苦笑する。
「あの日の修行には遅刻しました。父は何も聞きませんでした。理由も尋ねませんでした。ただ…」
その先の言葉だけは、今も鮮明に残っている。
「『帰れ』…その一言だけでした」
蒼蓮は目を伏せる。
「私は…その日、一人で庭へ座りました。父を怒らせたことが悲しかった。でも、子狐を助けたことを後悔することもできませんでした」
相談室は静寂に包まれる。尊は静かに湯呑みを置いた。音を立てないよう、そっと…それだけだった。蒼蓮は、その小さな音に背中を押されるように話を続ける。
「私は、龍になりたかった。父に認められたかった。一族の誇りになりたかった。ですが…困っている誰かを見捨ててまで、その願いを叶えたいとは思えなかったのです」
その言葉には迷いがなかった。過去を語る蒼蓮ではなく、今の蒼蓮自身の本心だった。尊は静かに頷く。その頷きは肯定でも否定でもない。
「続きを聞かせて」
ただ、それだけを伝えるような穏やかな眼差しだった。
蒼蓮は小さく息を吸う。
「そして、龍になるための最後の試練の日が訪れました」
その一言とともに、相談室の空気が少しだけ張り詰める。蒼蓮の人生を大きく変えた、運命の日。その記憶へ、彼は静かに歩み始めようとしていた。




