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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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龍になれなかった少年 4


相談室には、再び静かな時間が流れていた。蒼蓮は湯呑みに残ったお茶を一口飲む。温もりが胸の奥へと染み渡る。それでも…これから語る記憶だけは、何度思い出しても胸が締め付けられた。蒼蓮は静かに口を開く。


「そして、龍になるための最後の試練の日が訪れました」


尊は何も言わない。蒼蓮の言葉を、ただ静かに待っている。


「その日は、一族の誰もが見守っていました。父も、長老方も…幼い頃から共に修行をしてきた仲間たちも。皆が、その日だけを目指して生きてきたのです」


蒼蓮は遠くを見るように目を細めた。


「最後の試練を越えれば、龍となる資格を得る。私は、ようやく父の期待に応えられる。そう思っていました」


小さく息をつく。


「試練の内容は、一つだけでした。山の頂にある祭壇へ、一番早く辿り着くこと。それだけです。道中で何が起きても、決して立ち止まってはならない。振り返ってはならない、助けてはならない。ただ前だけを見て進め」


蒼蓮は静かに笑う。


「今になれば…なぜ、そのような試練だったのか分かります。龍になる者には、迷いは不要だったのでしょう。ですが……」


その笑みはゆっくりと消えた。


「私は、その試練の途中で…一人の少女と出会いました」


相談室に静寂が落ちる。


「崖の下から、小さな声が聞こえたのです。『助けて……』その声は、とても弱々しく…今にも消えてしまいそうでした」


蒼蓮は拳を静かに握る。


「私は立ち止まりました。祭壇までは、あと少し…このまま走れば、龍になれたでしょう。父も喜んでくれたでしょう。一族も認めてくれたでしょう」


長い沈黙。蒼蓮は目を閉じる。


「あの一瞬だけは、迷いました。本当に、迷いました。ですが…」


その声は、どこまでも穏やかだった。


「泣いている声を聞いて……私は、走ることができませんでした。崖を下り、少女の手を取りました。震えていた小さな手を…離すことが、どうしてもできなかったのです」


相談室には、お茶の香りだけが漂う。尊は静かに蒼蓮を見つめていた。蒼蓮は続ける。


「少女を抱きかかえ、安全な場所まで運びました。傷の手当てもしました。泣き止むまで、そばにいました。少女は何度も…ありがとう、と……笑ってくれました」


その笑顔を思い出したように、蒼蓮もわずかに笑う。

しかし。その笑顔は、すぐに寂しさへ変わった。


「祭壇へ着いた頃には、試練は終わっていました。誰も私を待ってはいませんでした。父だけが、静かに立っていました」


蒼蓮はゆっくりと息を吐く。


「あの時の父の顔を…私は、一生忘れられません。怒っていたわけではありません。悲しんでいたわけでもありません。失望……その一言でした」


蒼蓮の声が少し震える。


「父は、ただ一言だけ『お前に龍となる資格はない』…そう告げました」


相談室は静まり返る。蒼蓮は目を伏せた。


「私は反論できませんでした。助けたことを後悔していなかったからです。ですが父を悲しませたことだけは、苦しくて、苦しくて仕方ありませんでした」


蒼蓮は両手を見つめる。


「あの日、私は龍になれませんでした。一族を追放されました。生まれ育った里を離れ、父にも二度と会うことはありませんでした」


静かな沈黙、長い時間が流れる。蒼蓮はゆっくりと顔を上げた。


「私は、今でも考えるのです。もし…あの日、少女を見捨てていたら……私は龍になれたのでしょうか」


その問いは、尊へ向けたものではなかった。長い年月、自分自身に問い続けてきた言葉。相談室に、その余韻だけが静かに残る。尊は蒼蓮の瞳をまっすぐ見つめた。何も答えない。その答えは、まだ蒼蓮自身が見つけるべきものだから。相談室には、穏やかな静寂だけが流れていた。


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